全然笑えないお笑い映画『ジョーカー』感想文(多少ネタバレ注意)

投稿日: カテゴリー 居眠り映画館タグ , , , , , , , , , , , , ,

《推定睡眠時間:0分》

アメリカのお笑いの残酷さを実感したのは自宅からの生配信中にオイルマッチの扱いを誤り炎上してしまった(※物理的に)ニート生主のだーすけをアメリカのバラエティ・ショーが取り上げた時で、その自宅炎上動画を見ながら司会者が何故彼はこんなに愚かな行為をしてるんでしょうなあと嘲笑って客席の笑いを取っていたのだが、そらまぁこっちも面白がってその動画を見てはいるのだけれどもバラエティ・ショーで大々的に嗤うっていうのはどうなのよ、個人の嗤いと集団の嗤いじゃあ暴力性のレベルが違うんじゃねぇの、と思ったのだった。

だがだーすけはそこから羽ばたくことはなかったがメディアの晒し者体験を千載一遇のチャンスとみて積極的に名を売ろうとしたりするのがアメリカンのしたたかさ。とぼけた平和な笑いを好むスノッブ東京人としてはその吉本的な貪欲なお笑いへの意志はなかなか受け入れがたいものがあるが、ともあれ食われたら食え、食ったら食われろの強烈な食物連鎖がお笑いを含むアメリカの芸能に活力を与え時に政治を動かすほどの力をもたらしている面はあるんだろう。

しかしそこには当然ダークサイドもあるわけで、たとえばシリアルキラーと芸能スタァは表裏一体、というのはマリリン・モンローからマリリンを、チャールズ・マンソンからマンソンの名をいただいたマリリン・マンソンが90年代アメリカを席巻したことからもよくわかるが、そこまで極論を言わなくともアメリカお笑い業界の、ひいてはアメリカ社会の弱肉強食下剋上システムって病んでるんじゃないの? と皮肉たっぷりに問いかけたのがマーティン・スコセッシのお笑い版『タクシードライバー』こと『キング・オブ・コメディ』で、そのパロディ的続編のような映画が『ジョーカー』なのだった。

ネタの詰め込まれ過ぎな映画である。ホアキン・フェニックスは『キング・オブ・コメディ』でロバート・デ・ニーロが演じたお笑い芸人志望の壊れた人ルパート・パプキンのパロディのような役柄であるし(隠し味に『タクシードライバー』のトラヴィス要素あり)、そのルパート・パプキンが執着していたジェリー・ルイスのような、あるいはパプキンのその後のようなキャラクターを演じているのはデ・ニーロ自身、ときて更にジョーカーVSバットマンの『ダークナイト』の前日譚として、デジャヴュとして、またはパロディとして、そっくり同じような場面まである。

こうなってくるとどこまで真面目にやっているのかわからない。劇伴は重いしお話はシリアスそのもの、ジョーカーが舞台の上でネタを披露する場面等々死ぬほど居たたまれない場面の連続だが、でもなんだかブラックジョークのようでところどころ痙攣した笑いさえ漏れてしまう。でもやっぱり笑えない。

折しも香港では長期化・深刻化する抗議デモを受けて議会を通さず条例を制定できる緊急法が返還後はじめて発動、その第一弾として制定されたのがデモ参加時の覆面着用を禁ずる覆面禁止法で、これに反発したデモ隊の方は不敵な「笑み」を浮かべたガイ・フォークスの仮面を被って抵抗するという映画の内容とリンクしまくる嘘のような現実も飛び込んでくるのだから、なんだか底の知れないおそろしい映画である。

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個人的にグッときたのは70年代後半~80年代前半ぐらいの社会派スプラッター/スラッシャー映画の空気があったところ。具体的には『ドリラー・キラー』とか、『マニアック』とか、『新マニアック』とか、『フェイドTOブラック』とか、『サンタが殺しにやってくる』とか、『夕暮れにベルが鳴る』とかそのへんになるが、これらの殺人者はもれなく金がなくて人との繋がりがなくて家庭の(おもに母親の)問題を抱えている。で、何かしらの実現しそうもない夢や理想も抱えている。『新マニアック』の殺人鬼ジョー・スピネルなんて映画好きが高じてタクシードライバーの仕事(!)を辞め、憧れの女優キャロライン・マンロー主演の自主映画を撮りにオファーもせずにカンヌ映画祭に飛んで色々殺すことになってしまう。

こうした映画において殺人鬼は最後まで社会の最底辺に置かれたまま救われることがないのだった。救いといったらたった一人で狂うことだ。一応スラッシャーに分類したが『夕暮れにベルが鳴る』はスラッシャーというよりは哀感溢れるサスペンスドラマで、過去に犯した殺人の記憶に苦しむこの殺人鬼は精神病院を抜け出してマンハッタンをさまよい、もしかしたら自分を理解して助けてくれるかもしれない人たちにも出会うのだが、彼はその人たちを殺してしまうのではないかと恐れて近づくことが出来ない。最後は殺人鬼としての自分を孤独の中で肯定することで囚われた精神を解放するが、それは再び殺人に手を染めることで狂った殺人鬼として警官に射殺されることを意味するのだった。

『ジョーカー』の基調を成すのはこのタイプの殺人鬼への憐憫の情に思われるが、これらの映画群と『ジョーカー』が明確に異なるのは70年代後半~80年代前半ぐらいであったら結局誰からも理解されずにくたばるしかなかった憐れな殺人鬼が、むしろその狂気と凶行によって社会の側に受け入れられ、『タクシードライバー』のごとく偶像に祭り上げられてしまうところだろう。

なんだか感慨深いものがある。同時に複雑な気持ちにもなる。俺たちの殺人鬼がついに社会に認められたんだ! というところもあれば、俺たちの殺人鬼がついに社会に認められたんだ…というところもある。!と…のニュアンスの違いでそこらへんなんとなく察してもらいたい。劇中でジョーカーの言う狂っているのは俺じゃなくて社会の方だ的なセリフが意味するのはそういうことなんである。

その意味でこれは作品単体でどうこう言えるような映画ではないんだろう。ちょっと引いた目で見ればたとえばジョーカーが最初の殺人に手を染める場面とその後の展開にはとっても説得力がないし、アメコミ映画とはいえご都合主義の誹りは免れない、金持ちの描写なんかテンプレもいいところ。ホアキン・フェニックスの芝居の凄みはともかくも、全体としては案外ざっくりとして散漫な作りというのが冷静に見たときの印象である。んが、しかし、それが真に迫って感じられてしまう世の中なのだ。

だからこれはトランプ政権の中で、香港で仮面禁止条例が施行される中で、エリート学生が酒に酔わせて女を犯したりする事件がほいほい報じられる中で、ならず者がその露悪性を武器にしたN国党が党勢を拡大する中で、貧富の格差が拡大する一方の世の中で、ジョーカーが単身では単なる道化でしかなくても民衆を背にバットマンと戦うことで最強ヴィランになるように、そこで初めて規格外の面白みを発揮する映画なんだろうとおもう。時代を読んだ映画だし、時代が生んだ映画なんだろう。

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シリアスな場面でもサイレント喜劇的なおもしろ走りをしてしまったり泣きたいのに泣けなくて突発的に笑ってしまうその滑稽が逆に予測不能で恐怖なホアキン・フェニックスのジョーカー、貧乏ゆすりをするところとか不安を紛らわすためにタバコを吸うところとかジョーカーっていうかこれはもう完全にホアキン・フェニックスなのでホアキン・フェニックスだなぁと見ていると段々『ダークナイト』のジョーカーに近づいていくのが興奮ポイント。『バットマン・ビギンズ』なんかすっ飛ばして即『ダークナイト』が見たくなってしまう。

『ダークナイト』との絡みで言うとバットマンとジョーカーを共にいつまでも父親を求める子供のまま大人になってしまった人として、さながら同じ人間のネガとポジとして描いているのがおもしろかった。父親と生育環境に恵まれたのがバットマンで、恵まれなかったのがジョーカーという程度の違いしか二人を分かつものはないんである。
「仮面を被らなきゃ人を殺せないのか」みたいなセリフが劇中に出てくるが、ジョーカー(的な)に対して言われるこのセリフはバットマンのノミの心臓にもガン刺さりだろう。

あとこれはコミック読者にはよく知られたエピソードなのかもしれないが俺は素直に驚いた展開がラストにあり、そうかそういうことだったのかと…でもそれが『ダークナイト』に続く物語のリアルである根拠はどこにもないし、実は気まぐれなジョーカーのつまらないジョークのひとつなのかもしれない。

そういう勃起させつつの不可解さがこの映画にはある。見終わった後の感覚は『ファイトクラブ』に近かった。『ファイトクラブ』、昔は超サイコーとしか思わなかったがイスラム国やその周辺のローンウルフ型スプリーキラーの数々の蛮行を経過した今になって改めて見るとなんだか素直に勃起できない感じである。高橋ヨシキは『ファイトクラブ』のアジテーションと一体となったアイロニーを高く評価して「猛毒のような映画」と言ったが、これは『ジョーカー』にも言えることだろう。

治安の悪い地下鉄で職場に向かって御茶ノ水の男坂ぐらい傾斜がキツくて段数の多い階段を登って安アパートに帰って誰からも手紙の届かない郵便箱を覗く毎日を送っていた神経障害と学習障害と精神病持ちの絶対に福祉の手が必要だが市の予算削減により見捨てられたピエロ派遣バイトの哀しい貧乏男が! ジョーカーとして腐った世の中で成り上がる!
今のところ『ジョーカー』ギン勃ちであるが(あのカタストロフの光景の美しさ!)、できればちょい勃ちぐらいで収まってくれる平和な世の中になってもらいたいものですしあとこれは個人的な問題になってしまいますがお金欲しい。お金ください。

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500
りゅぬぁってゃ

何故か「若おかみは小学生!」との比較がネットミームで流行ってるのが謎です。
ネタなのかマジなのか分かりませんが、主人公の訳あり具合は同じなのかな?
前作の雰囲気は似てて、最後の決断が真逆だとか云々。

Jame Gumb

観た直後は確かに自分も「やった!」みたいな感じでギンギンだったのですが、日を追うごとに何だかすごく不気味なものを観たような感覚が強くなっています。
以前教えてもらった「オブザーブ&レポート」のラストもハッピーエンドか妄想かよくわからない不穏な余韻が残るものでしたが、これも何だか共通するものを感じます。
とにかく主人公は辛さが一定のリミットを越えると精神的な防衛機能か何かでもの凄い願望まみれの妄想に入り込んでしまうっぽい人で(自分もよくやりますが)、デニーロに舞台に上げられてほめてもらうシーンとか黒人のおねえさんと良い感じになるところとかは、どうやら本当ではないことが演出でわかるのですが、そうすると主人公にとって都合のよい展開とか感動的な場面とかもなんだか疑わしく思えてきます。デモの群衆に祭り上げられるシーンとかどうなんでしょう?
考えすぎだとは思いますが、主人公が自分の殺人を正当化するために記憶を改竄しているのでは?とか考え出すとさらに嫌な想像が膨らみます。やたら灯りがチカチカしている車内でのエリート社員達の悪行だとか、お母さんのカルテの内容だとか。

よーく

『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』は予告編の時点で織り込み済みだったけど俺も観ながらめっちゃ『ファイトクラブ』思い出したんですよね。
虚実入り混じらせながらもお前らこういう偶像好きだろ?と言われている感じで、でも昔みたいにあぁ大好きさ!と素直に思えないことが引っかかるような映画でした。あぁいう偶像を祭り上げて実際に信じられないバカなことをしてしまう人を色々見てしまったからなのかもしれません。
しかし本作はジョーカーという既存の超有名で人気のあるキャラクターの像を損なうことなく(むしろその特性を最大限に活かして)いわゆるアメコミ映画とは全く違う観客層にも訴求力のある作品に仕上がってることにも驚愕でした。かたや『ニンジャバットマン』のような作品もあるんだからバットマンワールドの懐の深さは凄いっすね。
もし未見なら『ニンジャバットマン』面白いですよ。

よーく

『レゴバットマン』は割と真面目に名作じゃん…となったので推します。
『ニンジャバットマン』は、よくこれDCがGOサイン出したな…となるくらには壮絶なバカ映画なので…これはこれで推します。
デヴィッド・フィンチャーが撮ったらゴードンの部下のブラピが書類上でしか出てこないバットマンとヴィランの痕跡を追いかけていくような…てそれ押井作品ぽい感じだな…。でも確かにデヴィッド・フィンチャー版は観てみたいっすね。