【ネッフリ】『アイリッシュマン』感想文(ネタバレたぶんナシ)

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《推定ながら見時間:60分》

人の名前が覚えられないのでフーダニット系のミステリーでは推理ができないし探偵役の謎解きを聞いてもフィーリングで適当に理解した気になる始末。過程はともかくどうせ最後は犯人がちゃんと自供したり無駄な抵抗をしたりしてあぁこいつが犯人だったのか、やっぱりな、と思ってもいないことを思えるのでそれでも案外たのしめる。犯人さまさま。

そういう種類の人間なのでチャンバラ主体じゃない群像時代劇とか東映実録みたいなヤクザ群像劇なんかも基本的になにがなんだかわからない。こういう映画は大抵、人の名前は台詞とかテロップで最初にチョロっと説明されるだけで、後は登場人物の顔と名前ががっちゃんこした状態で客が覚えてる前提で話が進むものだから、○○組の××が△△と云々と言われたところで顔と名前が一致しないこちらとしてはちんぷんかんぷん。

いちばん好きなヤクザ映画は『沖縄やくざ戦争』だが、それは何故かと言えば個人の名前よりも高度に階層化されたヤクザ社会であるとか、それを内包する本土と沖縄の従属関係の方が前に出てくる映画だからで、そこでは登場人物が名前を持った個人である以上に、そのヒエラルキーを構成するパーツとしてシンボリックな存在になる。そういう映画はそれなりに話がわかる。ヒエラルキーだけ理解すればいいので人の顔と名前を覚える必要のある暗記型の映画よりも遙かにらくちんというわけである。

というわけでマーティン・スコセッシのギャング群像劇は何を観ても話の筋がよくわからない。もちろん『アイリッシュマン』も例外ではなく、しかも今度のは上映時間4時間弱の長尺なので登場人物大増量、50年代から00年代ぐらいまでの合衆国の裏側をギャング目線で辿っていく大河ドラマときたら完璧について行けない。
スコセッシは情の人。暖かい情ではなくて冷たい情だが情は情、人間関係の基盤を組織の力学ではなく個人と個人の絆に置こうとするので、そういう場合には人の名前が重要になってくる。これは覚えられない。わからない。

「どのトニーだ! お前らイタリア系は全員トニーなのか!」みたいなことを物語の中心人物・全米トラック運転組合委員長ジミー・ホッファは言う。象徴的である。ホッファは人を立場ではなく人間性で判断する男、肩書きではなく個人名で呼ぶ男。ホッファのよき友となるギャングの主人公フランク・シーランはきっと彼のそんなところに惚れたのだろうが、名前覚えられない人間としてはそういうの勘弁してほしいよなぁとか思ってしまうのだった。ぼくの理想の映画役名というのは運転手Aとか合衆国大統領とか焼死体1とかなんである。

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それにしてもアメリカのトラック運転手は荒くれている。どこの国でもだいたい荒くれているものなのかもしれないが、わけても戦後アメリカのトラック運転手は別格、どうせ組合に守られているからと盗みなんか平気でやって嘘をつく、一つ嘘をついてバレなかったら他の嘘もバレなかろうということでそこから殺しを請け負うまでの速度が尋常ではない(あくまでこの映画の中では、と各自h2で注をタグ付けしてもらいたい)

戦後の米国トラック運転手の抗争というか大喧嘩を描いたノワールの匠ジュールズ・ダッシンの『深夜復讐便』を観たときには一体この大人げない茶番はなんなんだと思ったが、あれはこういう業界体質とか業界人気質を背景にした映画だったんだろうなと腑に落ちた。米国トラック運転手は正業に就いてるチンピラで、その労働組合は合法的なギャング組織なんである。非合法な仕事はちゃんと非合法なギャングに外部委託するので建前上は合法なんである。

ギャングだろうがなかろうが、トラック輸送は広大な合衆国の生命線。これを絶たれたら合衆国は立ち行かない。ということで全米トラック運転組合とその長ジミー・ホッファはたいへんな権力を持って合衆国の動向を裏から左右するまでになる。そのせいで当時司法長官だったロバート・ケネディに目を付けられて、紆余曲折あるが転落していく。

君たちクリーン人間が当たり前のように過ごしている平和な毎日の礎を作ったのは君たちが毛嫌いする汚れたギャングな連中だったんだよ、というわけでざっくり、50年代の汚れた合衆国が血で血を洗いながらクリーンになっていく半世紀を、ジミー・ホッファとフランク・シーランの蜜月と決別に仮託した映画と要約できる。その意味ではスコセッシのニューヨーク今昔物語『ギャング・オブ・ニューヨーク』の姉妹編のような映画かもしれない。そういえばアイルランド移民の物語というのも同じである。

とにかく個人を通して現代アメリカ史を見る映画なのでジミー・ホッファの失脚も何か組織とか権力がどうこうとかではなく気に食わない商売仲間との喧嘩に還元されてしまう。このやりとりはすごい。渋滞(かどうか本当はわからないのだけれど)で会合に遅刻したことを謝る謝らないであわや殺し合い。バカなんじゃないかと思うがそのバカさの裏には今の合衆国を作り上げたのは俺なんだ的な堕ちた偶像のプライドも見え隠れするのでバカに笑いつつも切なくなる。ジミー・ホッファ役のアル・パチーノ、全力空回りっぷりが最高。

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面白いは面白かったがしかし4時間弱もランタイムがあるのだし、こういう題材なのだから個人対個人の物語に終始するのではなくてもう少し大局を見たかったという気もする。トラック労働組合が合法ギャングと化したのも法が未整備な中での劣悪な労働環境があったからだろうが、ジミー・ホッファその人は描かれてもトラック労働組合の実務的な面はあまり描かれないので、ホッファは権力志向のエキセントリックな煽動者にしか見えないし、トラック労働組合は合法ギャングにしか見えない(ながら見鑑賞だから見逃していた部分も多いとは思いますが)

ロバート・デ・ニーロが演じるフランク・シーランが牛肉泥棒から一気に殺し屋にステップアップするまでが性急すぎるだろうというのはスコセッシ映画っぽいところなのでそういうものかと受け取ればいいのかもしれないが、とはいっても殺しの躊躇いのなさは復員兵の設定がそれなりに影響しているのだから、戦地で一旦メンタル死んで、帰ってきて平和な家庭を築いてからもトラック運転手の日常に空虚を感じ…みたいな心情を、戦後アメリカで復員兵の置かれた社会的な状況の中で見てみたかった。

復員兵の運転手が思想のない殺し屋に、といえば『タクシードライバー』。同じデ・ニーロが演じているわけだからこれも姉妹編というかセルフオマージュのようなところがあるが、物語が個人の関係で綴られるなら映画自体も全体よりも個々の要素に力点が置かれている観があり、結果スコセッシ映画名場面集のようになってしまった。

おそらくホッファとシーランが友情を形成する土台になったものは個を殺す社会への怒りなんである。方や過酷な労働体験、方や凄惨な戦争体験がある。その中で体制に屈しなかったのがホッファであり、屈したのはシーランである。だからこそシーランはホッファに惹かれたんじゃないだろうか。

そうした個の情念を見せようと思えばこそ、やはり個の上に覆い被さる社会そのものの残酷さを俯瞰的に描く必要があったのではないかと思う。それは政府でもいいし警察でもいいし労働組合でも組織としてのギャングでもいいのだが、それらがあくまで個人の目を通してしか描かれないとなると、汚れた合衆国からクリーンな合衆国への道筋が霞んでしまうし、一時代を作り上げた大人物の功罪も有耶無耶になってしまうんではないか、という気もしなくはない。

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でもそれは逆に、プライベートな映画としての面白さでもある。映画は介護ホーム的なところに入所した老シーランの具体的な語りとも語りの体をとった心の声ともつかない回想から始まる。老人の回想に客観性とか明瞭さを求めても、という話で、それがどこまでも個人的なエピソードの羅列から抜け出せないのも当然といえば当然ではある。

あんな悪いこともしたしこんな悪いこともした。楽しい時もあったし苦しい時もあった。そんな時を共にした仲間はみんな死んでしまったが、なぜか自分だけはしぶとく生きてしまっている。自分の生を望む人間なんて誰もいないのに。
老シーランの脳裏にこびりついて離れないのは殺人でも裏切りでもキューバ危機でもケネディ暗殺でもなく扉であった。その昔、初めてか二度目にホッファと出会った時に、その場所はホッファ邸だったのだが、ギャングとの会合がバレないようにシーランはそこに泊まることになった。そこで、ホッファはシーランの寝室の扉を半開きにしておく。

BL妄想が捗りそうな感じではあるがそれはひとまず置いておくとして、その半開きの扉は俺には孤独な戦いの日々の中で誰かとの親密な繋がり(※BL的な意味ではなく)を求めつつも、一方で裏切りを恐れて常にその相手を目に見えるところに置いておかなければ気が済まないホッファの、アンビバレントな感情の表れに見えた。
その繋がりの希求は強権的な組合指導者であることを望んだホッファ自身が作り出したもので、その猜疑心もまた自らが作り出した立場の副産物のようなもの。

結局、すべては個人の問題なんである。かつて『タクシードライバー』でトラヴィスが夢見たようにクリーンになった世の中で、老シーランはあの半開きの扉を思い出す。世の中はクリーンになっても老シーランが救われることはなかった。彼自身がクリーンではないことを彼自身が知っているからである。だから、彼と同じようにそのことを知っていたホッファの扉を彼は思い出す。

もういい加減そういう内にこもったやつとかいいじゃないですか、人間も悪いけど人間を悪くさせる社会だってそれなりに悪いんだから、とは思うが、カトリック信仰に根ざした個人の中の善悪の葛藤がマーティン・スコセッシという人の作品に伏流するテーマなら、逆にこれだけ社会的な物語でその個の視点・個の問題からブレなかったのは映画作家の矜持として、すごいなぁと言うべきところなのかもしれない。
いや俺は社会の方を見たかったけどね。個人名覚えられないから…。

あとちなみにこの手のノワール映画の常連になりつつあるアメリカの郷鍈治的なジェシー・プレモンス、今回もホッファのドラ養子役で良い味出してました。

【ママー!これ買ってー!】


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あんま面白かった記憶がないが個の情念に着目して見直せば面白くなるかもしれない。

500
ジェイムス

我が地方では、20時20分から24時までという上映時間。
スーパー銭湯へ行ってから食事してと思ったが、眠くなるといけないのでサンドイッチを半分だけ。
その甲斐あって全く眠らずに観られました。

洋画邦画に限らず、人の名前だけ言われても覚えてられんわ。
時々、片隅に『登場人物相関図』出して欲しいわ。

アルパチーノは頑固な癇癪オヤジで、デ・ニーロの心情には共感できるような気がした。
ただあんなにも簡単に最初の奥さんを捨てて、子どもだけ引き取って、普通にしていられるものか?と。