俺は橋口亮輔の映画が好きだ。『ぐるりのこと。』(2008)以外は見ている。『ぐるりのこと。』は制作発表されたときは楽しみにしていたんだけど、内容とキャスティングとタイトルが俺に向けられていない気がして、見ていない。
もちろん今でも見たいとは思っている。しかし、みんなそうだと思うが、見たい映画は常時2、30本くらいあり、その日の気分によって変動するランキングでは『ミーン・ガールズ』(2004)が一位の日もあれば『ローグ・アサシン』(2007)がトップに来ることもある。
そんなつかみどころのないいい加減なランキングにおいて、一度「まあええか」と思ってしまった作品は余程のことがなければ再浮上はできないのだ。
でも実は、今回は新作を見に行くという余程のことがあり、『ぐるりのこと。』がとても見たくなってランキング一位になったんだけど、huluとNETFLIXになかったので諦めて、気がついたら『ハッピーフィート』(2006)見てた。
これ、今ミッドポイント(注:映画の真ん中の部分。だいたいここでストーリーの転機になる出来事が起こる)まで見ておもしろいんだけど、この話をどうしてペンギンでやることにしたのかはずっと疑問だよ。
というわけでおよそ15年ぶりの橋口亮輔作品だ。
15年前といえば俺が映画学校に入るために上京してきたときだ。
かつて『タッチ』の上杉達也が「15年あればよちよち歩きの子供も親に殴りかかるようになる」と言ったとうろ覚えているが、俺はあの頃からあんまり変わっていない。
橋口作品はどうだろうか。
あらすじとみどころ
過去の事件への執着だけをエネルギーとして生きるアツシ(篠原篤)、夫や姑から大切にされずに毎日を過ごす瞳子(成嶋瞳子)、傲慢なエリート弁護士の四ノ宮、この主人公三人の物語を中心に、今の日本(というか東京)の空気を描いていく。
この映画を見る最大の目的は、俳優たちの演技を見るということだろう。特に男たちが素晴らしい(光石研とリリー・フランキーはそこそこだった)。作品を支える最大の力となっていた。
どれくらい良かったかというと、彼らが他の役をやれないのではないかと心配になるくらいだ。もちろん俳優だから、そんな心配は無用なんだけど。
あて書きだから当然、という意見もあるかもしれないけど、自分をそのまま演じることは案外難しい。誰しも自分の思う本当の自分と、他人から見た自分とのギャップに苦しんだことはあるだろう。俳優だって同じである。
俺は監督と役者との理想的な関係は、演技指導という言葉を使う関係とは思わない。監督は要求し、役者は応える関係だからだ。監督がカメラマンに撮影指導をしないのと同じことだ。
日本でしばしば演技指導という言葉が使われるのは、メインの出演者の多くが役者ではなくタレント、アイドル、お笑い芸人など演技を生業にしていない人たちだからだ。限られた時間で形にするためにはどうしても監督の指導が必要になる。

宣伝によれば本作の主演俳優たちはみんな無名らしいが、俳優の良し悪しに無名か有名かは関係ない。
「えっ!? 無名なのに演技上手いの? スゲー!!」とはならない。なめるな。
主役の一人、過去の事件に囚われて生きる篠塚アツシ役の篠原篤が素晴らしい。自然な発声がいい。本当に目の前の相手を見ている視線がいい。
作中で篠原篤は篠塚アツシそのものだった。感情が爆発するところでも、彼の内面に起こった過程を理解することができた。
おもしろいカットがあった。アツシが自分の内心を吐露する場面で、カメラがグイッと寄るのだ。
それまでは体まで入れたやや広めのサイズだったのが、ぐっと表情に迫る。
想像になるが、事前に決められたズーミングではなかったはずだ。ズーミングやその後のフレーム調整の速さからそう思えた。きっと監督が篠原篤の演技を見ていて「やばい! サイズ間違えた! ここはもっと寄らねば!」と閃いたんだと思う。
あるいはその後にアップを撮る予定だったけど、あんまりにも演技が良かったのでカットをかけずにそのまま行ったのかもしれない。いずれにせよカメラマンにとっては急な対応で、そのズームする動きの場所はカットしてもらうつもりだったはずだ。
台詞の切れるいい場所でズーミングしていた。サイズ調整に費やした時間は1秒ほど。ガッツポーズ級の仕事である。
しかし監督は編集で、そのズーミングの動きを残した。そのサイズ変更の瞬間も、感情として映画に残そうという意図だったのだろうか。
その試みは好きだ。俺は支持する。しかし、結果としてそのズーミングで作り手の存在を意識してしまい没入が途切れてしまった。失敗したと言っていいだろう。
だが、俺は支持する。よくやった。減点法ならマイナス10点はくらうだろうが、加点法ならプラス130点はもらえるはずだ。そして、作品を減点法で見る奴はロクなもんじゃねえ。
役者さんの演技は良いぞ!
アツシ編に関して、一つだけ良くない場面があった。アツシが元嫁に語りかける場面である。アツシの物語のクライマックスである場面なのに、全く心の入っていない演技をしていた。しなければならないから演じている芝居だった。
もちろんある程度の水準には達しているし、他の映画であれば充分であったろう。しかしこれまでの芝居を見てきてのクライマックスのため、非常にがっかりした。
この場面は、多分本来の撮影期間とは別の期間に撮られたものだと思う。本撮影の前か後かはわからないが、篠原篤の外見が違っていた。髪の毛は短くなり、眉毛も整えられていた。照明の感じも変わっていた。
追加撮影であったにしろ撮り直しであったにしろ、監督が必要と思ったから撮影したのだろう。外見の違いはしょうがない。ジャッキー・チェンやハリウッド映画でもよくあることだ。俺はそんなことを気にしないくらいには訓練された映画オタクだ。
だけど、演技の質が落ちてしまったのだけは認めるわけにはいかない。おかげであの場面、『エクスペンダブルズ』(2010)でのミッキー・ロークのどアップばりに台詞が頭に入ってこなかった。残念だ。

大事に扱われない主婦・瞳子を演じた成嶋瞳子も良い演技だった。しかし、この人でなければというまでではなかったように思える。しかしそれは、女優という立場の問題かもしれない。
女優が役を得るためには個性よりも、何にでも合わせられる柔軟さを求められることが多い。主演女優であってもかわいければ誰でもいいと考えている監督は大勢いる。
だからタレントやアイドルばかりになる。独立した個性と能力を持った女優が、いつまでも役者を続けることが難しいのだ。
本作でも男たちの個性の輝きに比べ、女たちはやや記号的である。他の役者と交代しても問題ないようなキャスティングに思えた。
このことを俺は大きく問題視しているが、みんなが「まあ別にいいんじゃないの」と思っていたとしても納得出来る。
漫画だって男の顔には色々あってみんなそれぞれ魅力的なのに、女のメインキャラみんな同じ顔だったりする。あっても美人か、ブスかくらいの描き分けしかなかったり。例えばこざき亜衣の『あさひなぐ』はキャラの顔を描き分けてて気に入った。
演技はいいが、でも物語は…
そんな感じで演技には大変満足したのだが、物語については大いに不満がある。
主人公も大まかに三人いるし、その他の人たちのエピソードもあったりし、今の東京に暮らす人たちのスケッチと捉えて物語は気にしなくてもいいとする意見もあるかもしれないが、そうはできないのだ。
なぜならば、映画が前向きな感じになって終わるからだ。始めに問題が提示され、終わりが前向きならば、どうしても物語に説得力が問われる。
序盤はとても良かった。ワールドクラスだと思った。しかし後半、役所での保険証のくだりから脚本への不信感が芽生えた。
続く鶏を捕まえるところで「いかん!」と思った。実際に声に出しそうになった。
あの場面は今後こうならなければならないからこうしたという段取りが目立ちすぎた。分かりやすい音楽さえ流れる。強引さが映画の飛躍として吉となる場合もあるが、俺にとってはガッツリ大凶だった。
ここで芽生えた不信感は結局映画の最後まで枯れることはなかった。俳優たちの芝居が良かったので不信感が大きく育ちはしなかったものの、脚本だけ見ればかなり危ないところではあった。

この映画がどうして前向きな感じで終わったのか、俺は全く納得できていない。監督がどこを解決のヒントとしているのかは理解できるが、それでいいとは思えない。
タイトルも内容からしっくりこなかった。
映画の最後には『恋人たち』とタイトルが表示されるんだけど、そのとき俺の頭には週刊少年マガジンの漫画みたいな「!?」が浮かんだ。
でもきっと、どこかにいる真面目で想像力のある人が、このタイトルがいかに作品に相応しいものかの合理的な解釈を見つけ出してくれているはずなので、しばらくそれを探します。
というわけで『恋人たち』は、通しで見返すことはないかもしれないけど、部分部分は頻繁に思い出し、見返す作品になりそうだ。
友人の子供の耳たぶを触りながら「お父さんそっくりだね」と言うシーンがあるが、これは流行らせたい!
(文・宮本亮)
【ママー!これ買ってー!】
二十才の微熱 扶桑社文庫 [Kindle版]
監督自身が書いた小説版。
レビューに「人間の前向きなパワーには出会えなかった」とあって、興味が湧いた。
適格!!もやもやが解消された思いです。
コメント嬉しいです。俺も自分で読んでそう思います!
宮本
(宮本さん入院中のため代筆)