KKK体験入学映画『ブラック・クランズマン』感想文

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《推定睡眠時間:0分》

スパイク・リーといえばアメリカ白人の黒人差別にいつも怒っているアメリカの井筒和幸、という世間一般のイメージ(※アメリカの井筒和幸はたぶん世間一般のイメージではない)になんとなく乗せられて、また先頃のアカデミー賞で黒人差別のテーマが被った『グリーンブック』の作品賞受賞を腐した件もあったので、とにかく怒っている人のイメージで捉えていたが、ふと今までに観たことのあるスパイク・リーの映画を振り返ってみると…『ドゥ・ザ・ライトシング』とか『ジャングル・フィーバー』とか『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』とかゼロ年代以前のものばかりなのですが…あれ意外と怒ってないんじゃね? 説が出てくる。

『ドゥ・ザ・ライトシング』なんて黒人暴動の映画なわけだからその根底には人種差別に対する怒りがあるんでしょうが、こうやって作品タイトルを並べてそれぞれどんな映画だったか思い返してみると、そこに共通して描かれているのは様々な集団や人間関係に属する中で自分を見失いアイデンティティを模索するアメリカ黒人(おもに男性)の迷いや葛藤で、怒りというのはその迷いや葛藤から生じるむしろ副次的な要素だったことに気付く。

『ブラック・クランズマン』を観て強く感じたのはなによりもその点だった。こういうのはネタバレとは言わないだろう、実話ベースのサスペンス・コメディと油断させておいて2017年に起きたシャーロッツビルのデモ隊衝突~乗用車暴走の記録映像やニュース動画、プラスしてそれに対するトランプ大統領の喧嘩両成敗でしょ的な非難轟々発言を引用したりして物語の舞台である1970年代と現代を、黒人を取り巻く差別状況なんか何も変わってねぇじゃねぇかと接続するのだから、怒りのこもった政治的アジテーションの意図というのは紛れもなくある。

ところがその引用パートに黒人特化で暴力を振るったり丸腰の黒人を射殺する白人警官の動画がない。物語の中では黒人差別をする白人警官の問題は重要なサブエピソードになっていたし、主人公の恋人は警官全般を目の敵にしてめちゃくちゃ非難する。
だからトランプ現象以前からくすぶっていてシャーロッツビルに至る道を何年もかけて確実に舗装したはずの白人警官による黒人暴行の様相がここで引用されないっていうのは流れ的に不自然だしアジテーションとして不完全なのに、ない。

で、思ったわけです。これ怒りの念はあっても怒りを煽ったり表明する映画ではなくて、物語の水準では黒人コミュニティと警察組織の間で揺らぐ主人公の二重意識を、映画全体としては白人至上主義と急進的な黒人権利運動の相似を扱って、その視点から過激思想への傾倒と人種差別の不毛を理解しようとする極めてクレバーな映画ですよ。
スパイク・リーやっぱ怒ってる人じゃなかったですね。自分の立ち位置に常に悩みながらいつもアメリカの人種差別を俯瞰的に眺めて分析してる人なんだと思いましたよ、この人は。

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そういう風に見ていくとまぁ勇気ある映画ですことって感じになる。たとえばKKKのメンバーが黒人を“クーン”の蔑称で呼ぶことに対しては主人公の恋人の学生活動家が警官を“ピッグ”と罵る行為を対置する。
黒人メンタル決起集会の潜入捜査をすることになった主人公がゲストに呼ばれた大物活動家の言質を取るべく「革命は来るんでしょうか?」とかなんとか訊ねると「銃を手にして備えておけ」との返答。これは物語の後半に用意されたKKKのテロの間接的な伏線になっている。

野蛮なるKKKのメンバーたちが政治の世界に食い込もうとしている幹部を招いて無邪気の邪気で『國民の創世』の応援上映会(めっちゃ楽しそうじゃないか…)を開いているその頃、ブラック・パワーを標榜するヤング黒人グループの方ではハリー・ベラフォンテが黒人受難のエピソードを語っている。

この対比は暴力的で醜いものと平和で美しいものと解釈すべきではたぶんないだろう(してもいいけど)。
どちらのグループも自らの属する人種の悲劇の根源を共有することでメンバーのエンパワーメントと帰属意識の強化を行っているわけで、強調されるのは両者の近さであって遠さではない。

KKKのトラッシュなメンバーはみな白人こそが被害者だと考えているが、その根拠としての「歴史」を彼らは『國民の創世』を観ることで確かなものとする。
出自から言って白人のメディアである映画に抗する被差別者のメディアたる口承はそれ自体美しいものだとしても、結局それを映画カメラが切り取っているという事実が映画の優位性を前に出してしまう。

黒人でありながら警察に与していることを主人公は何度も恋人に咎められるが、そのねじれと両義性は映画全体を覆っていて、たとえばだから、ブラックスプロイテーション映画のクラシックが引用されたりするんじゃなかろうか。
主人公が恋人と『コフィー』がどうの『シャフト』がどうのと話す場面があるが、そこにはどこか黒人にとっての『國民の創世』をという意識が感じ取れなくもない。ある意味では黒人性に対する裏切りだろう。

だいたい主人公(ジョン・デヴィッド・ワシントン)からしてイケてる系の黒人キャラではなくてむしろイケてない感じの人である。
ダンスがキレキレとか女にモテモテとかそういう人では全然ないのだから対KKKネタにも関わらず立ち上がろうぜブラザー的に鼓舞されないことこの上ない。

題材からすれば白人イエー系の人の反感を買いそうな気もするが(買うと思うが)、むしろその情況に介入しつつも決して手放さない徹底した傍観者性や相対主義はラディカルな反人種差別の人の反感を買うんじゃないかというところもあるわけで、そのへん勇気ある映画だなぁと思ったゆえんである。

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いやそれにしてもスーパー面白い映画でしたね。映画が前半と後半で劇的にトーンが変わるように感想もここから劇的にトーンが変わりますがすげぇ面白かったですよスリルとユーモア満載の娯楽映画として。
ちょっとタランティーノの方の『イングロリアス・バスターズ』が頭に浮かんだくらい。俺そんなに『イングロリアス・バスターズ』好きじゃないんでなんか説得力がないんですけどでもあのサスペンス力はやっぱすごいと思ってますから、ええ。でそのサスペンスが『ブラック・クランズマン』にもあったわけです。

なんでそんな面倒なことをやっているのかよくわからないが(原作読めば書いてあるのだろうか)主人公の新人黒人刑事ロン・ストールワースが電話で白人万歳者を演じてKKKコロラド支部にコンタクト、そのまま潜入捜査に行ったら潜入感ゼロで袋叩きにされちゃうからっていうんで先輩白人刑事フリップ・ジマーマン(アダム・ドライヴァー)がロン・ストールワースのコピーロボットとしてKKKの集いに潜入するんですが、この人がユダヤ系。

コロラドKKKには自宅の地下室に秘密の武器庫&尋問室を備えたネオナチ系のヤバイ人がいた。滅多に来ない新人会員の優遇されっぷりに腹を立てたこのホロコースト捏造論者(今話題の!)でかつユダヤ陰謀論者のヤバイ人が執拗にジマーマンに揺さぶりをかけるものだから結構ハラハラしっぱなし、そのうえ勢力拡大を狙っての穏健路線を取る支部長および上層部に業を煮やしたこいつは独断専行で武力闘争路線に方針転換、テロを画策するようになるのでそのへんの盛り上がり半端ない感じであった。

最初っからKKKが単なる悪い奴らとして描かれていたらこういうサスペンスとか盛り上がりはなかっただろうと思えるのでそのへん、スパイク・リーのバランス感覚の賜物だ。
今時(※70年代)KKKなんかに集まってくるのはあんまり仕事とか趣味とかなさそうなボンクラばかりで布教には到底使えない、しかもそいつらの中には今にも人殺しに手を染めてKKKを自壊させそうな危険人物が混ざってる。KKKも楽じゃない。

いやそれだったらもう解散しろよと思うが、ともかくその決して一枚岩ではない複雑な内部事情が抑制の効いたタッチで丁寧に描かれていてたいへんよいかったですね。
まことに皮肉なことではあるがその意味では被差別者よりも差別者の側の心情を汲んでるようなところもあって、殊更に醜く愚かに描かれるKKKメンバーたちの姿を彼らがイメージする黒人像の反射と見るなら、それを笑う時に我々はKKKメンタルで笑っているのだ、というような辛み強めのブラックユーモアも香るのだから重層的な映画である(でも笑いますが)

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それにしてもジョン・デヴィッド・ワシントンとアダム・ドライヴァーはびっくりするほど声が似てない。
それで二人羽織潜入捜査ができてしまうコロラドKKKのゆるさというか、人手不足だから多少怪しくてもとりあえず目をつむって入れてしまう逼迫っぷり(余談ながら仲間欲しさから眼を節穴にするのは主人公の恋人も同様なので仮借がない)が笑えるが、これは他方で実話を基にはしてますけどこんな映画フィクションですからねという宣言でもあるのかもしれない。

潜入するなら本人になりきらなきゃっつってワシントンの指導のもとドライヴァーが黒人英語の練習をする。超ぎこちないドライヴァーの黒人英語。それでOKを出してしまう雑ワシントン。そして練習したところで結局使わない黒人英語。なんだったんだよ!
笑ってしまうシーンだったがこれもたぶん、人間の多相性を表現することでこういう人種であればこういう風に振る舞うというような人種のフィクションをからかいながらやんわりとひっくり返そうとした場面だったりするんだろう。

その点でもヒトラー暗殺成功の偽史を堂々と語った『イングロリアス・バスターズ』とはちょっと共通するのかもしれない。
歴史のフィクション性と人種のフィクション性を多彩なモチーフを駆使して娯楽映画のフィクションの中で、映画のフィクション性(そのターゲットはもちろん『國民の創世』と『風と共に去りぬ』だ)もろとも暴き出そうとした映画と思えば、なかなか一筋縄ではいかない芯の太い力作である。批評性と娯楽性の両立というのはこういう映画に対して言われる言葉だろう。

あと一番おもしろかったのはジョン・デヴィッド・ワシントンのご立派アフロヘヤーがラスタの人が被る帽子の巨大単色バージョンかブームに載せたマイクの風防みたいに見えてしまう整いすぎた完璧アフロヘヤーだったことです。嘘でしょ。どうやって整えてんすかねあれ。

※捕捉:
『アイ,トーニャ』でラスボス的ホワイト・トラッシュを演じていたポール・ウォルター・ハウザーがまたもや最強ホワイト・トラッシュを熱演。こころからすばらしいとおもう。身なりの汚い体型のだらしないホワイト・トラッシュが出てくる映画はやはり傑作。

【ママー!これ買ってー!】


拳銃の報酬 [DVD]

貧乏歌手のハリ-・ベラフォンテが黒人大嫌い人間ロバート・ライアン(なにかと差別的なキャラを演じがち)と一緒に銀行強盗を目論むもそんなもの成功するわけがないだろうという職人ロバート・ワイズによる人種差別ネタの名作ノワール。
文字通りの意味でブラックなオチはなんだか落語的な余韻を残すのであった(※映画好きで知られる快楽亭ブラック師匠のことではありません)

↓原作


Black Klansman: Race, Hate, and the Undercover Investigations of a Lifetime

500
さるこ

こんにちは。やっと見ました。
思ってたよりクールな映画でした。主人公の立ち位置のせいでしょうか。警官試験を受ける時に、気合いを入れてアフロヘアをポンポンしてたのが可愛かった。
ユダヤ系の相棒もとても良かった。機転も利いてました。彼自身にも葛藤を持たせてて。映画が締まりました。

よーく

やっぱあの『國民の創生』と黒人集会の対比と相似は非常にこの映画の象徴的なシーンで印象に残りましたね。白眉だと思う。深く考えだすとドンドン鬱々とした気分になっていくけど映画自体はいい感じの娯楽作でもあり、そこに救われた感もあります。
刑事ものとバディものは切っても切り離せないなというのも再確認できました。
歴史もそうだが人種のフィクション性っていうのはそれに輪をかけて厄介なテーマだと思うけど、真っ向から向き合った誠実さが感じられてほんといい映画だなって思いました。