人と人は繋がればいいってもんじゃない映画『アダムの原罪』感想文

《推定睡眠時間:0分》

『Playground/校庭』という映画を観た時に面白いけど作風がちょっとダルデンヌ兄弟すぎんかなどと思ったものだがその監督ローラ・ワンデルの新作『アダムの原罪』は製作がダルデンヌ兄弟でそれはもう似てるとかではなくほぼダルデンヌ映画である。最初は大好きな先達の真似をするところからスタートして作を重ねる毎にだんだん自分の作風を作っていくというのが一般的な創作者のポケモン進化だと思うのだが、この人の場合はあまり独自性を出そうという気がこの『アダムの原罪』からも感じられなかったので、シリアスドラマ畑の監督でありながら自己主張をあまりしないやや珍しいケースなのか、それともダルデンヌ兄弟が製作に入ったことで変に枷がついてしまったのかもしれない。

ダルデンヌ兄弟は出来上がった映画を観てどう思ってるのだろうか。もしかするとローラ・ワンデルを自分たちの後継者の一人と認めて自分たちと同じような映画を作ってもらうことにやぶさかではないのかもしれない。米沢嘉博は『藤子不二雄論:FとAの方程式』でオリジナリティと自己表現を追求するA先生に対してF先生はある時期から普遍性を志向し自分が倒れてもアシスタントら後継者たちがまったく同じ絵を描けるように絵の方向性を変えていった、というようなことを書いているが、ダルデンヌ兄弟もまた自分たちが監督したのではない「ダルデンヌ映画」が作られ続けることを求めているのかもしれない。ダルデンヌ・シネマ・ユニバースである。

そんなダルデンヌ・チルドレンのローラ・ワンデルによるこの『アダムの原罪』は昨今流行のあまり品のよろしくない言葉を使えばいわゆる毒親ものと分類できる映画であった。主人公は小児病棟の看護師なのだが目下のところ一人の4歳男児に手を焼いている。この男児、栄養不足により発育不全で骨折して入院しているのだが、シングルマザーのお母さんから家の外の食べ物は毒で食べるとお腹が痛くなると教育されているので病院で用意された栄養食を食べてくれず、それが一度ならず何度かあったらしい。これは当然ながら虐待である。なのでこのお母さんはベルギーの児相のようなところに通報されていて要監視対象となっており、今後も虐待が続くようであれば親権剥奪もありと警告されているのであった。

ところがこのお母さん、このへんが毒親(こういう頭も品も悪い言葉は使いたくないのだが!)たる所以なのだが、虐待の自覚は完全にない。いやそれどころか逆に子供のためを思って家の外の食べ物は危険と教え込み、粉ミルクみたいな食事を4歳の息子に食べさせ続けているのである。そのことからわかるのはお母さんが息子の成長を認められていないということだ。あんなに可愛いくかつノイジーでストレスの源であった赤ちゃんも案外すぐに大きくなって自分の足で歩き出してしまう。そのときに親の側が子供と適切な距離を取れていないと親は子供をいつまでも自分のもとに引き留めておくためにその家庭内権力を悪意なく濫用して過保護になり、子供の自由や自主性、成長の機会を奪うことになるだろう。というわけでこの家の外の食いもんは毒を吹き込むお母さんはそのなかなか極端な例であった。4歳児童に接するにしては異様なほどベタベタしている点を見ても、このお母さんは息子をまだ赤ちゃんだと思い込みたいようだ。

悪気はないのだろうがそうは言ってもこういうお母さんは児童の益にはならないので、間に児相などに入ってもらって少し児童から引き離すのがいいだろう。と、それで済む話のはずだったのだが、主人公の看護師さんはどうもプラベートな理由でこのお母さんに感情移入してしまっているのか、面会時間の制限をこのお母さんだけ引き延ばしてあげたり、お母さんが児相(的なところ)から子供との面会禁止を言い渡されてもこっそり二人を引き合わせてしまう。その結果としてお母さんも「いけるやん!」みたいな感じで増長し暴走していく……というのがこの映画であった。つまりこれは自分の息子と適切な距離感の取れない過保護のお母さんと、その人に看護師として適切な距離感の取れない過保護な看護師の、二重の過保護と、そのそれぞれの関係性の変化を描いた物語なんである。

ああ、イヤだなぁ、こういうの。いや、映画は面白かったんですけど過保護の描写に変な汗が出そうになってしまいましたよ。ウチの親も過保護っていうか溺愛だったからね。なんかね俺が何も言わなくてもどんどん新しいテレビとか自転車とかはいこれあんたのって買ってきちゃうのよ。それで俺の友達とかに「学校であの子の様子どう?」とか俺のいないところでこっそり聞くのよ。俺が頑張ってなんかしようとすると先回りしてそれをやっちゃったりするの。これわかるかなぁ、あのねそういうの、俺の場合はかもしれないですけど、結構キツイ。俺それで当時すごい無力感ありましたよ。しかもそれを向こうは悪気なく善意のつもりでやってるから「そういうことやめろよ!」とか言ったら俺が悪いことをしてるみたいで罪悪感があって。で、たとえ言っても向こうの理屈としてはあなたのためを思ってやってあげているのに何が悪いの? だから全然聞き入れてもらえないしね。

そういう感覚は20代まで引きずってて、たとえばバイトの面接に受かると俺のいないところで親がバイト応募先に電話をかけて採用を懇願した結果なんじゃないかとか妄想してしまって、それはおそらく妄想だとわかっていても恐怖やら苛立ちやらなにやら入り混じった気分から逃げられなかったですよ。俺に代わって親がなんでもやってしまうという環境だったから、大人になってもしばらくは自分でしたことを自分がしたことのように感じられなくて、それは自分の行為に責任感を感じなくて済むという意味ではまぁ楽なのかもしんないですけど、でも何をやってもその成果が自分のものとして受け取れないから、自分の存在を自分で肯定できなくて、いつも親に操られている気がして無力感はすごかったですよね。まぁそういうのは今月の家賃が払えないとか明日食うメシも怪しいみたいな貧乏一人暮らしの荒治療で改善されてはいきましたけれども。

とまぁ自分語りはそれぐらいにして、そんな次第であるから俺としてはこの映画で描かれる過保護はコワイ。過保護は実はコワイということをちゃんと見せてくれていたから良かったし、親の愛情は全面的に良いものとだという雑な思い込みを振り払ってくれる点でも良かったよね。子供の健全な生育のためには成長に合わせて親と引き離すことはある程度必要だし、看護師が自分の職域を超えて児相のような公的機関の判断を否定するのも患者のためにはならないだろう。『動きすぎてはいけない』は千葉雅也のドゥルーズ解説書のタイトルだが、こちらは『繋がりすぎてはいけない』である。SNSの発達やファン文化の盛り上がりなどもあって昨今「繋がること」は少し無条件的に良いことと扱われすぎている気がするが、この映画に描かれているように過剰な繋がりは時としてその当事者に(場合によっては取り返しのつかない)不利益をもたらす。時には関係を切断することや優しさを捨ててドライに距離感を保った方が双方にとって有益なこともあり、ケースバイケースではあるだろうけど、まぁそういうのを考えさせてくれる映画が『アダムの原罪』だったと思います。

面白かったですよ。ただね、めちゃくちゃダルデンヌすぎ。ローラ・ワンデルさんも少しはダルデンヌ兄弟から距離を取った方が映画監督としてプラスになっていいのではないだろうかと思うんですが……。

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