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映画の具体的な時代設定は劇中で明かされないが1990年代という冒頭テロップ(だったはず)と上空を通過する戦闘機だがなんだかの描写を見るに湾岸戦争中ということなんだろう。そういえば最近すっかり聞かなくなったが湾岸戦争とはいったい何だろうか。1980年9月、独裁政権を樹立すると共に急激な軍備拡張に舵を切ったイラクのサダム・フセイン大統領は隣国イランに電撃侵攻を行い、以降1988年に終結するまで8年間も続くイラン・イラク戦争が勃発した。この際にフセイン政権に対し軍事援助を行った筆頭が1981年に誕生したアメリカのレーガン政権であった。1979年のイラン・イスラム革命によってアメリカはイラン国内の石油権益を失うと共に急激に関係が悪化、反米を標榜するイランの革命体制を転覆するために敵の敵は味方という感じでレーガン政権はイランに侵攻したイラクのフセイン独裁政権を支持したのである、とされる(今に続くイランのアメリカ不信はこれが原因だとか)
イラン・イラク戦争は1988年に終結したが、隣国へ侵攻してもアメリカさんやソ連さんなどの超大国から怒られなかったばかりか逆に武器をたくさんもらえたという変な経験をしてしまったのも一因となってか、1990年、イラン・イラク戦争による国内経済疲弊に直面していたフセイン政権は次なるターゲットとしてクウェートに侵攻、その全土を制圧するに至った。イラクはクウェート併合を宣言するももちろん国連は猛反発(だったらイランに侵攻した時にもそうしてほしかった)。加えてイラクが石油欲しさに今度はサウジアラビアに侵攻するのではないかという懸念が広まり、これに対してアメリカのジョージ・ブッシュ(父)政権は多国籍軍を主導し、イラン・イラク戦争時には支援したイラクを今度は叩きのめすことになるのであった。これが湾岸戦争である、らしい。
でこれはそんな時代に生きるイラクのキッズのお話。主人公の小学生ラミアちゃんは電気もねぇガスもねぇと思われる田舎でおばあちゃんと二人暮らしの貧乏こども。生活はかなり厳しいがそれでもまぁ仲良しの近所の男子はいるしペットのニワトリもいるし本人的には比較対象もないから不幸とは感じていないのかもしれない。しかし困ったのはフセイン大統領の誕生日である。湾岸戦争中にもかかわらず、いやむしろだからこそなのかもしれないが、迫るフセイン大統領のお誕生日を盛り上げようと街では軍事パレードが行われ学校ではフセイン万歳週間に突入、ラミアちゃんは大統領に捧げるケーキを作る係に任命されてしまったのだ。
なんだケーキぐらいでいいのか案外やさしいな、などと思ってはいけない。これはダジャレでは決してないのだが8年続いたイラン侵攻で何の成果も得られずその後強行したクウェート併合によって多額の軍事費出費を出すと同時に国連から経済制裁を受けることになった湾岸戦争当時のイラクはあまりにも景気が悪かった。どれぐらい景気が悪いかといったらケーキが街に売ってないどころではなくケーキを作るための卵だの砂糖だのが手に入らないというほどなのである。
そんな状況でケーキ作りを完全自腹で任されるのだから今の言葉で言うところの無茶振り。砂糖を求めて町に出てもあるわけねぇだろさっさと消えろと大人たちはスーパー塩対応であるから砂糖なのに塩対応とはこれいかにである。しかしラミアちゃんは小学生。小学生とくれば先生にこれやれと言われたらかなり困っても素直にがんばってやり遂げようとしてしまうものである。というわけでラミアちゃんは布袋に入れたニワトリを首から提げて(かわいい)いなくなった父親を探し中の近所の男子と一緒にケーキの材料を探すことになる。しかしその道程はケーキとかいう目標のどうでもよさに対して過酷が過ぎるものであった……。
予告編だけ見るとまるでお隣イランの名作こども映画『友だちのうちはどこ?』のようだが、作品の方向性でいえば近いのはむしろ最近謎にシネフィルからガン無視されてしまっているギリシャの巨匠テオ・アンゲロプロスの名作こども哀歌『霧の中の風景』かもしれない。だいぶ悲惨とても悲惨。フセイン独裁政権の国民ガン無視政治だけでもツライのにフセイン独裁政権と対峙するアメリカ主導の多国籍軍も正義と称してガンガン自分たちの町を空爆してくるのである。そんなあんたそれじゃあどうすればいいのよラミアちゃんみたいな貧乏一般人は。横暴権力と横暴権力の板挟みで苦しむそこらへんの一般人というのはなんだかつい最近もイラクと距離的にものすごーく近いどこかの国で聞いたような話である。
けれどもその悲惨をこれ見よがしに悲惨とは描写しない。それどころか部分部分に軽いユーモアさえ込めるのだから傑作だなこれは。だって悲惨なものを悲惨に見せてお涙頂戴したり観客の義憤を誘うなんて誰でもできることだろう。だからその安易さにあえて背を向けるというのは立派なことだ。立派なだけで面白くない映画というのもあるがこの映画の場合はそうじゃない。ラミアちゃんの目線となって湾岸戦争下のイラクを冒険するカメラはラミアちゃんだけでは全然ない戦時下イラクの人々の窮乏と痛みと愚かと残酷と生と死とそして一抹のやさしさを丸ごと捉えようとするってなわけでケーキを作るだけの話なのにずいぶんなスケール感であるし、情に流されるのでもなくリアリズムを気取るわけでもなくただ世の中をそういうものとして眺める透徹した眼差しが帯びるやるせなさは、凡庸な作品には決して生起しないものだ。
思えば子ども映画の名作というのは『自転車泥棒』しかり『禁じられた遊び』しかり『生まれてはみたけれど』しかり、あるいは『オズの魔法使』しかりで、やるせなさを感じさせるものばかり。残酷だったりはするが結局無力というのが子どもなのだからその眼差しに本気で寄り添おうとすればやるせなさが漂うのは当たり前なのかもしれないが、子どもの眼差しに寄り添うよりも観客の気分をいかにアゲるかということを優先する映画監督というのがおそらく大多数なので、やるせない子ども映画というのは常に少数派である。
いや子ども映画ばかりではない。最近は社会や歴史を扱った映画でこういうやるせなさを感じさせるものが減ったなーと思う。なんか、頑張れば世の中は良くなるんだとか、この人たちの大活躍のおかげで世の中は良くなりましたとかそんなことばっかやってないすか。そりゃわかりますよそういうお話の方がそうじゃないお話よりも断然気持ちいいんだもの。でも社会や歴史をつぶさに眺めればそこにあるのはただもうやるせない現実ばかりではないだろうか。そのやるせなさを否定してしまうこと、明るさで覆い隠してしまうことは、一見すれば人々に希望を与える良い行為のように見えなくもないけれども、よくよく考えれば現実を隠蔽すると同時に、その現実を生きる一人一人の人間の生を軽視することになるんじゃないだろうか。
『大統領のケーキ』はえらい。やるせない現実に肉薄しているから。ただそういうものとしての世の中を見せてくれるから。それはそこに生きるすべての人々の小さな生を救済することなんである。いやはや、こういう成熟した映画がイラクでも(イラク・アメリカ・カタール合作)作れるようになっただなぁと思うと、感慨もひとしおですなぁ。
※良いシーンだらけの映画だがラミアちゃんが危険を冒して怪しげ通りに入っていくその時に大通りでは軍事パレード、その中心にはフセイン大統領の肖像写真、というのを長回しで見せるシーンはヒッチコック的な強烈なサスペンスを帯びつつ世界の構造がそこにすべて顕れているかのようで、とくに素晴らしかった。映画で見せるべきものというのが仮にあるのだとすればこういうものじゃないだろうか。