《推定睡眠時間:0分》
うちの祖母は片方が認知症になって特養施設に入ったので何年か前に義務的にお見舞いに行ったのだがそこでエレベーターのボタンを押しても反応がないのであれっと思っていると同行した母親曰く脱走を防ぐために長く押さないとエレベーターが来ないようになっている、ということであった。脱走ってあんた、囚人じゃないんだからと当然こちらとしては言うわけだが、徘徊して外に出たら危ないからこれは保護なんだという返答、まぁそれも一理あるか、外出した先で事故にでも遭ったら施設側が管理責任を問われたり遺族から損害賠償請求を食らうかもしれないし、とは思いつつ俺が将来こんなところに入れられるとしたらかなりイヤだな……とも思うのであった。
その祖母は認知能力がかなり減退しているということだったので最初から孫である俺のことなど忘れているだろうと判断し、うちの親などは昔のことを必死で思い出させようと寝たきりの祖母にいろんな写真を見せたりする方なのだが、俺は別に思い出してもらわなくていいので適当に祖母の名指しする人になってあげよう、お父さんと言われたらその通りわたしがお父さんだよとかそういう風に接するつもりだったのだが、自力では排泄もできず排泄後に介護士を呼ぶボタンも押せないほど認知症が進行しているにもかかわらず俺の顔を見るとちゃんと名前がわかったようで、なるほど認知症になっても部分記憶は結構残っているものだなと妙に感心したりした。
『急に具合が悪くなる』の舞台は介護施設なのだがこの施設の施設長にして主人公の女の人は自分の母親の施設での晩年が悲惨だったという個人的な経験からなんとかかんとかという介護方法の研修を無理矢理スタッフに受けさせて自分の施設を幸せホームしようとしているらしい。このなんとかかんとかというのは何やらカッコイイ名称なのだが要するに入所者に丁寧に接しつつ入所者の自主性を引きだそうということである。認知症の特性を理解し丁寧に接すれば認知症の入所者はそれだけ抵抗が(そしておそらく逃避行動なども)減って介護しやすくなるし、自主性が育てばそれもまた介護の必要が少しだけ減り、介護士全員がこのなんとかかんとか手法で入所者に接すれば急がば回れというやつで逆に介護士の負担軽減になるのだという。
俺の祖母が入っていた特養は別に普通のところなのでここまで先進的な取り組みは行っていないようであったが、それでもいろんなレクリエーションを通して入所者の自主性を育てる取り組みはおそらく一般的な範囲で行っており、母親に施設内でやったお祭りイベントに祖母が参加したというかさせられた時の映像を見せてもらったのだが、そこでは介護士の人たちがほとんど動かない祖母にどうにか輪投げやボール投げなどの各種レクリエーションに参加してもらおうとにこやかな笑顔で腐心している様子が映っていた。それを見て思ったのだが、これはこれでイヤである。いや、介護士の人たちがどうにか認知機能を維持しようと頑張ってくれているのはわかるし、それは認知症の入所者のためにもなる行為だとは思うのだが、もし俺がここに入居させられたとしたら、元々内向的な性格だしみんなでワイワイはしゃぐみたいなのは苦手なので、寝たきりでいいから部屋のテレビにホラー映画でも24時間流して後はほっといてくれ、とか思うのである。
こうして考えると劇中で介護施設に革命を起こす素晴らしい方法だと主人公が確信し、そしてそのためにスタッフの同意を取り付けないまま施設の急進的な改革を推し進めて実際の介護作業にあたる介護士たちと対立していくこの丁寧な介護手法も決して万能ではないことがわかる。それはとりわけ主人公が「この方法をマニュアル化できれば……」と言っていることからも窺えて、なるほど大多数の人はもしかしたらこの丁寧な介護方法を喜んでくれるかもしれないが、俺のように人嫌いで丁寧に介護してほしくない放置してて欲しい派の人にとっては、実にうっとうしくストレスの源なのではないだろうか。だって主人公の運営するこの施設では毎日ねぇみんなでストレッチしてみませんかとかねぇみんなの前であなたのことを話してくれませんかとかねぇみんなでカフェをやりませんかとか誘われるのである。
こんなものは優しさの暴力でさえあるだろう。なにせ認知能力が低下してくれば意思表明が難しくなるし、物事の判断力も下がってくる。そんな中であれをしようこれをしようと毎日促されたら混乱するし、ただ無言で風呂入れてくれたりトイレの世話してくれたらいいのに、そんな時にもいちいち「今こういうことをしてますよ、気分はどうですか、もうすぐ終わりますよ」とか話しかけられ、それをしかも一人ではなく複数人でやるのである。はたしてこんな介入の過剰すぎる介護を介護される本人は望んでいるのだろうか? 少なくとも現在の科学ではそれを確かめるのは至難の業と言うほかなく、となるとこれは被介護者の気持ちを無視した介護者の自己満足ともなりかねないし、そしてそうであった場合でも、被介護者は拒むことはできないのである。
ここから見えてくるのはこの主人公は、そしてこの映画の作り手であるところの濱口竜介監督は、そしてまたあえて言うならばこの映画にたいそう感動するタイプの人たちは、認知症を患う被介護者を「これをすれば喜ぶ」という単純な機械のような存在として一律的に理解しているということである。劇中で称揚されるなんとかかんとか介護手法を嫌がる介護者の姿を俺は自分をそこに重ねて易々と想像することができるが、この映画にはそうした被介護者は登場しない。すべての被介護者がこの手法を喜びこれによって幸せになる、かのように描かれるのである。つまりこの映画には、他者への想像力が著しく欠けているということである。他者。わたしたちの世界の外に存在し、わたしたちの世界に時として真っ向から衝突するもの。その欠如が、この映画と濱口竜介という監督の問題点であり、そして同時に、この映画と濱口竜介という監督の魅力でもあるのかもしれない。
さて主人公は施設改革がうまくいかず困っている時に街で偶然に知的障害のある自閉症の日本人少年(15歳くらい)と出会う。ちょうどそのとき雨が降ってきたので主人公は日本語でちょっと雨宿りしようと言って(早稲田に留学し文化人類学を学んでいたという設定)少年を一時保護し、その後この少年の祖父である日本人舞台役者とその演出家の女の人に出会う。この二人は公演のためにフランスに来ているというので主人公も公演を観に行って、そこでこの演出家に自分はガンで余命わずかと告げられたことから、二人の短くも親密な交流が始まる。
映画は二つの物語を軸としている。一つは主人公が運営する介護施設の改革がうまくいくかどうかというお話で、もう一つは主人公と死期迫る舞台演出家との交流である。この二つの物語を繋ぐのが資本主義批判である。実はこの舞台演出家、ソルボンヌ大学に留学し哲学を学んだというインテリ。そのため早稲田で文化人類学を学んだインテリである主人公との会話にマルクスだのマルセル・モースの名前が出てもあうんの呼吸で応じることができるし、主人公から施設改革がうまくいかないと吐露されると、その原因は資本主義の構造にあるのではないだろうかと施設改革の処方箋を提示するのである。
ではその資本主義批判とは何か。端的に言えば資本主義は内と外の境界線を設定し外の世界からさまざまな資源を収奪することで内の世界の豊かさを実現している、ということのようであった。ほとんど帝国主義と同義であるが、帝国主義の主体が国家であるのに対して資本主義の主体は企業体であるというのがその違いなのだろう。われわれはよく職場の人手不足などに直面すると「(新しい人を雇う)お金が足りないの原因だ!」とか思ってしまいがちだが、それは言い換えるなら内のお金で外の資源(人間)を得ようとするということなわけで、お金を媒介にしたこうした収奪が続けば、いずれ外の資源は生産力を失い枯渇してしまう、するとそのときに内の人々は資本主義社会を維持するために内と外の境界線を再画定し、これまでは内だったところの一部分を新たに外として設定することで、その新たな外部の資源を収奪することで、より狭くなった内の世界を正常に運営しようとするわけである。
こうした考えは資本の流動性を考慮していないという点で資本主義批判としてはいいかげんなものであるような気がするが、トマ・ピケティが言うような所得の格差の増大を部分的に説明するものではあるだろう。ともかく資本主義は持続可能なものではなく、そうだとすれば資本主義が依って立つ内と外の境界線の画定という考え方も再考しなければならない。なにせ内と外の境界線の画定は排外主義であるとかナショナリズムの高揚であるとか政治思想の分断とか地域社会の破壊とか様々な悪弊ももたらすからだ。こんな考えを演出家に聞かされて主人公はあぁ私は内と外を分けて考えてしまっていたな、分けるんじゃないんだ、一緒にやるんだ、自分の考えに反対する介護士とかも敵視するんじゃなくて話を聞いて必要ならば妥協してその「外」の人たちとも一緒にやっていかなければならないんだ、と気付きを得て、めでたく施設改革は一歩前進するわけである。もっとも、ネグリ=ハートが指摘するように現代の資本は特定の中心を持たないグローバル資本であり、内と外の区別を無効化してネットワークを広げることで巨大な権力を獲得しているのだとすれば、内と外の区別の無効化というコンセプトはむしろグローバル資本の手法の追認にもなってしまうのではないかと思うが(ネグリ=ハートはそれをマルチチュードと呼んで抵抗の主体と位置づけているらしいが)
外、というのは内の人間にとっては他者の世界を意味する。フランス人の主人公にとって日本人演出家は他者であり、その遭遇もまったく予期せぬものであった。そしてその助言によって理想が前進するという物語構造を見れば、多くの人はこれを「他者を受け入れること」がテーマの映画と捉えるかもしれないし、俺もそれがテーマなのだろうとは思う。けれども、思い出して欲しいのは、主人公と演出家は話の通じない人間では最初からなかった、ということである。主人公はフランス人ながら早稲田に留学していたので日本語が話せるし文化人類学を学んでいたからマルクスとかも読んでいる。一方演出家は日本人ながらフランスのソルボンヌに留学して哲学を学んでいたのでやはりマルクスとかは読んでいるしフランス語も話せる。海外留学というのはお金に余裕のない家庭には難しいことなので、社会階層も離れているわけではない。要するに主人公と演出家の遭遇は物語上は他者の遭遇として位置づけられつつも、その実態は似たもの同士の遭遇であり、これをさきほどの資本主義批判の文脈に紐付けるなら、この出会いは内と外の出会いではなく内と内の出会いなのである。
ではこの映画で描かれる「外」とはどのようなものであろうか。演出家の舞台にはいつも自閉症の少年が来ていて彼は公演の途中で即興的に舞台に上がってきてしまい、この公演はそれを一つのパフォーマンスとして取り入れている。ここでも舞台の上と下という内と外の境界線の無効化が描かれるが(この公演では観客も楽器を持って好きなときに自由に鳴らしていいということになっている)、外の世界を象徴する自閉症の少年は無力な存在であり、舞台に割って入ることはあっても危害を加えることは決してないし、知的障害のある自閉症という様態に加えて少年でもあるのだから、主人公ら大人たちに強く抵抗することはできない。もう一方の外は主人公の施設の認知症を持つ入所者たちだが、この二つの外の人間にどのような共通項があるかはもうわかるだろう。一つには障害を持っていること。そしてもう一つは、片や少年で片や老人で、青年層の主人公と演出家よりも弱く、脅威ではない、コントロール可能な存在として描写されている、ということである。
こうした点を見るに、この映画では主人公たちの世界に深刻な衝撃を与えるような、本質的な意味での他者は存在しないことがわかる。そもそも物語の初めの時点で主人公がなんとかかんとか介護法を「こうすれば入所者は満足する」という風に、それによって他者をコントロールできるものとして語っていたことを思い出そう。主人公にとって他者はコントロールできるものであり、そして演出家にとっても、その職業からいって、他者はコントロールするものであり、この二人はどちらも自分は他者をコントロールするのに、自分は決して他者にはコントロールされず、侵害されることもない特権的な位置にいる。はたして現実世界でそのような位置を得ることが可能かと言えば大いに怪しい。なぜなら、たとえばイーロン・マスクのような世界のすべてをコントロールできそうな超大金持ちだって、ある日とつぜん狂った麻薬中毒者に道端で刺し殺されたりする可能性はゼロではないからだ。それが現実世界であり、他者の横溢する世界なのである。
誰しも自分の言っていることをあうんの呼吸で完全に理解してしてくれる友を持ちたいという欲望はあるかもしれない。そしてもし人生のほんのひとときでもそんな友情を体験できたら、それは生涯忘れられない幸せな思い出となるに違いない。その意味で主人公と演出家の自他の区別などないような語らいは感動的であり、俺は友達といるよりも家で一人ビデオを見るのが大好きな異常人間なのでとくになんとも思わなかったが、強く心を揺さぶられる人は少なくないのではないだろうか。しかし、その関係性をもって内と外の境界線の乗り越えだなどと観客に思わせるのであれば、それは欺瞞である。この二人はあくまでも同類なのであり、その交流は他者と他者のぶつかり合いでは決してないし、したがってそこには内と外の境界線の画定を本質とする資本主義を乗り越える何物も提示されてはいない。そしてこの映画の中で外の世界に棲まう他者は、決して主人公たちの棲まう内の世界を侵害しない存在へと漂白・無力化されているのである。
もしもこれが単に親友を見つけて良かったねという話だったら別にムカついたりしないしイイ話だなぐらいに思う。けれども、本質的には親友を見つけて良かったねというだけの話にもかかわらず、それを内と外の境界線の無効化だとか、資本主義の乗り越えの可能性と結びつける操作には、いささかイラッとさせられるところがある。なにせ濱口竜介というのは頭が良いから話も上手い、実際は親友を見つける話と資本主義の乗り越えには何の関係もないのだが、その語り口が巧みなものだから、まるでその二つが結びついているように見えてしまうのだ。何度も繰り返しているように似たもの同士が親友になるということは他者と他者が出会うことではなく、むしろその逆なのだから、資本主義体制下における内の秩序の堅守という目的に反するものにはなり得ない。
これは率直に言ってズルいと思う。だってこの映画は他者の侵害を排してあうんの呼吸の親友を作りたい! という保守的な欲望と、資本主義は搾取を正当化するから許せない! という革新的な願望を、どっちも同時に叶えてくれるように「見える」からだ。これはまるで紛争地帯の子供たちを救うためにあなたは毎日高級肉を食べましょう、そうすれば高級肉のお店が支援団体に募金するからwin-winだね、とか言うようなものじゃないだろうか。そんなに都合の良いことは現実には存在しないのだが(普通に考えて高級肉の代金を一部寄付するより高級肉を我慢してもっと多くの寄付をした方がいいだろう)、現実には存在しないものだからこそ、人はまんまとそんなものに騙されてしまうのである。
本質的には他者の排除という欲望に駆動されているにもかかわらず、それを塗り隠して他者の包摂の物語のように見せる狡猾な作劇はたとえば是枝裕和の『海街diary』にも見られるもので、そういえば『海街diary』を観た時も、なにせ世の中の人たちがみんな(誇大妄想的表現)これは素晴らしいと絶賛するものだから、俺としてはそこに他者がいないということに誰も気がつかない感じが気持ち悪くて、ボロクソにこのブログに書いた気がする。他者というのは、決して『海街diary』や、この『急に具合が悪くなる』に描かれるような、安全なものではない。それは多くの場合ストレスの源で、意見が合わないのは当たり前だし、好みだってまったく違う、会話をすれば傷ついて傷つけられての連続であり、場合によってはケンカが高じて、いやケンカになっていなくても、とくに理由なく殺人に発展する可能性さえある危険なものである。
その危険性を作為的に取り除いた他者というのは現実の他者ではなくヴァーチャルな他者ではないだろうか。そうだとすれば、そのヴァーチャルな交流がもたらす幸せや可能性もまた、ヴァーチャルなものなのではないだろうか。前に新宿のホームレスが道端で死んでいるように見えたので大丈夫かと声をかけたことがある。すると向こうはただ寝てるだけだろうがなんだテメー! と臨戦態勢である。いやなんか死んでるように見えたから、と説明すれば頭おかしいんじゃねぇかテメー! とくる。わかったわかった、それならいいよ、元気でな、とその場を去ろうとするとホームレスはこうであった。「テメーもな!」。はたしてホームレスが何を思ったかは不明だが、これは俺にとっては良い思い出だし、そしてそれは見ず知らずのホームレスにキレられたというそれだけ取ればストレスや恐怖を感じさせる出来事に付随するものなのである。他者との交流の持つポジティブな可能性は、こんな風に痛みの先にあるもので、痛みを与える他者を排除してしまえば、その先に予想もしなかったような可能性や、幸福や、あるいは希望といったものは、存在しないだろうと俺は思うのだが。
※映画のラストに用意された様々な人間が手や足をくっつけて一つになるある種のコンテンポラリー・ダンスは、同じようなものがほとんど全身麻痺の状態にあり電動車椅子生活を送る石田智哉監督の『へんしんっ!』というドキュメンタリー映画のラストにも出てくる。内容は石田智哉が視覚障害を持つ舞台役者の人とか手話演劇をする人とかと会って話を聞いていくというもので、その最後で監督も含めて出演者の人たちが身体を触れ合わせながら次々と新しい形を作っていくのだが、目が見えない人とほぼ全身麻痺の人というのは見える世界がまったく違う他者なので、その他者たちを身体が媒介するこの場面は人間身体の可能性を感じさせる実に迫力のあるものだった。ちなみにこの映画はまさしく内と外の境界線の無効化を志向したものであり、そのために劇場公開に際しては一般的な映画とは逆に誰でも観られるよう副音声付きの回が通常上映となっていたのだが、こうしたリアルな他者に果敢に向かって行く作品と比べると『急に具合が悪くなる』は他者を隠蔽し健常者特権を巧妙に誤魔化している作品とも見えてくるんである。