クロキヨ映画『散歩する侵略者』の感想

《推定睡眠時間:0分》

原作あったんだなこれ。エンドロールで知ったがあまりにクロキヨ色の強いストーリーだったのでオリジナルかと…なんか、自分は宇宙人だと主張する松田龍平が、人を縛り付ける「概念」を奪っていく。
奪われてどうなるかというとそれ以上書かずとも「クロキヨ色の~」から大方推測できると思うがつまりそれが侵略。変わった侵略だなぁと思ったが、カルト宗教とかエクストリームな思想にハマる人だってハマることで何らかの概念を捨てているか刷新を迫られたりするんだから現代社会ではそれなりにポピュラーな侵略なのかという気もしなくもない。

『散歩する侵略者』っていうタイトルだから侵略もするし散歩もする。散歩はいいよ、って仕事もしないで町ブラしながら松田龍平言ってましたよ! なんだこの映画。

でもそのへん原作を知らないからなんとも言えないがあのラストというかラスト前の出来事、原作からちょっと変えてんじゃねぇかもしかして。
基本的にはあんまりおもしろくない映画、クロキヨ映画のいつもの風景を執拗に反復するのはいやもう見たい奴はそれ見たくて行ってるんだろうし撮る側もそれ撮りたくてやってるんだろうから経済が成り立っているがそこの市場規模小さすぎるだろうが、と思ってはいてもそれは別に関係ないから脇に置いておくが散漫で鈍重でうーん、ながい。

ながいし、一本調子で起伏に乏しく…なのですがそれを我慢した先の例の出来事にツイストがあって、いろいろ考えたのですがー、ふつうミステリーは最初に謎を提示して展開の中で解いてゆくが、少しも謎がないように見えた明瞭な世界は実はやっぱり謎だらけでよくわからなかった! てな倒置ミステリーがこの映画だったんだろうに着地。
どうでしょう、原作もそんな感じなのかな。知らないがそのへんに映画的な力点が置かれてはいて、例の出来事で何が描かれていたかというのは物語の上では疑問を差し挟む余地はもうまったく全然ないが、映像としてはどうとでも解釈できるように微妙な撮り方をしてんである。
それはちょっと面白いな。

改めてストーリーを振り返ると、なんか宇宙人を名乗る人が三人出現。人というか寄生生命体なんでとりあえず人間に寄生しているらしいがまだ色々と慣れないし知らない。一応人類侵略目的で来てんので人間知らないといけないっていうんで宇宙人超能力を使って人様の頭から概念奪取。へぇ、これが「所有」の概念かぁ。ほぉ、これが「仕事」の概念かぁ。人間っておもしろいなぁ。
呑気にして着実に侵略の準備を進めていく宇宙人たちのことを実は何人かの人間は知っていたが、内心では動揺しまくりながらも誰もパニックを起こしたり行動に出たりできないので終末時計ノンストップ。人間っておもしろいなぁ。

星新一がこういうの書きそう。ようやく事の重大さに気付いて大パニック状態の人間から興味本位で「恐怖」の概念を奪った宇宙人があまりに恐くなって侵略取り止め、みたいなオチで(※この映画のオチではありません)。

主人公格の宇宙人が松田龍平。そんなのぜったいにおもしろいじやん。ほかの映画でも鳩山由紀夫的な意味で宇宙人に見える役柄ばっかなのに飄々とした放浪宇宙人とか似合いすぎるだろ。
おかしいっす真顔でとぼけるスペース松田龍平。オカシイと可笑しいの両方ね。「一体どうしてたの!」「質問が抽象的で答えようがありませんね。何時のことですか?」

松田龍平は笑えるが個人的にはしかし不快指数の高い映画で、どいつもこいつもクソうぜぇ。松田龍平の妻の長澤まさみはずっとピリピリして怒鳴ってばかり、スクープ狙いで宇宙人取材を試みるジャーナリストの長谷川博己は無知で無能なくせに頑迷でプライドが高いポンコツ、チョイ役のバカ刑事はアンジャッシュの児嶋一哉ってそんなところまでうぜぇ!
ウザ人物造形カタログみたいになってるが、黒沢ホラーの初期傑作『DOORⅢ』において大杉漣が披露したあの不快なセクハラ肩揉みをここではパワハラ親父の光石研が再現していたぐらいだから、決して思い付きや面白半分のウザ演出ではないんだろう。黒沢清は本気である。本気であるということはストレートな意味では絶対に面白くないということでもある…。

こんなに人間うぜぇを見せられるともう侵略しちゃえよって気分になってくる。あー今おれ術中入ってるわーを自覚しつつも自覚でどうなるものでもないのが不快てなもんでしょう。不快は攻撃と排除を無条件に肯定するんだからしょうがないんである。理性ではどうにもならんのである。
たぶんそういう意図なんだろうな。理性の範疇に収まらない出来事を理性で把捉しようとして、不可能だったことが分かってしまったときの恐怖、理性の過信による理性の内破の恐怖ていうのクロキヨ映画が繰り返し描いてきたものだと思いますが、何とは言わないがそれこそ世界の現状じゃねぇかそれ見たことかと言わんばかり。
不快というのは結局、愚かだから不快なわけで、愚かなものは理性の目で見た時にしか愚かに見えないつーわけで、差別は常に理性的に行われるのだとあっけらかんと見せつけてくるから、尚のこと不快だ…。

好奇心旺盛な宇宙人たちは知らない言葉を聞くとその言葉の背後に隠れた言葉の概念を奪おうとするが、大抵の場合はセットになった言葉と概念が、愛の場合はセットになっていなかったので概念が奪えず困惑してしまう。
このことは愛は言葉にできないというロマン解釈も愛は言葉でしかないから概念はないとするドライ解釈もあり得るように思われるが、どちらであろうがなかろうが合理的であったり理性的であったりする整然とした世界の像からはみ出たところ、意味や形の同定できない曖昧な多重性の世界の中に不安と一緒くたになった希望の可能性を見ている点が重要なんじゃなかろか。

最後の最後で不快な不快な長谷川博己の下したろくでもない決断こそが実は最も純粋でヒロイックで、じーんと響いてしまったりするからおもしろいえいが。
これはなんのえいがであっただろうかといえば、ぼくはやはり理性は建前としてあるべきで人間の本質として信仰の対象にすべきではなく、しかし大して役にたたないがすごく役に立つものとしてその幻想を自覚的に維持するべきなんじゃないか、それが人間らしさなんではないかと訴えるえいがのように思えたのだ。
あの出来事で松田龍平が奪取した概念は一体なにかの謎はその観点から読み解けるんじゃないかなぁ。

【ママー!これ買ってー!】


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宇宙こども軍団に心を読まれそうになった教師が意志の力で心にバリアーを張るという抽象的なシーンを映像でどのように処理するか。カーペンターの答えはレンガ壁を画面いっぱいに出す!
あのシーン黒沢清たぶん好きだとおもう。

↓その他のヤツ

散歩する侵略者 (角川文庫)
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