善の存在しない戦場でどう悪を終わらせるか映画『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』感想文

《推定睡眠時間:0分》

いまどき『鬼滅』をまるで知らない人間である。どのくらい知らないかというとふざけて「あのちくわを咥えた女の子のアニメでしょ?」みたいなことを知人などに言って「竹だよ!」と返されたことで(あ、巻物じゃなかったんだ竹だったんだ…)ってなるぐらい知らない。このタイトルだしさすがに鬼を倒すまんがシリーズであることぐらいは知っているというか想定の範囲内ではあったがこの鬼が人間の血を啜って再生するどちらかといえば吸血鬼的な存在であることも今回映画を観て初めて知った。あと煉獄さんという人の名前をツイッターをやっていた頃によく聞いていたので煉獄さんがラスボスだと思ってました。それに関してはまだわからないけどな! もしかしたら最終的に『ダイの大冒険』のキルバーンみたいに本当の黒幕は無惨さんではなく煉獄さんだったという大どんでん返しが用意されているかもしれない!

ともかくそんな状態であったので上映時間も2時間半と長いしとくに観るつもりはなかったのだがここでは書けない大人の機密理由によって雑な感じで観に行ったら泣いてしまった。何にといえば映画のラストですみたろうくんが戦う今回のボス・フルコンタクト空手使いの鬼の過去と逡巡にである。これ書いていいのかな書いていいよな原作もう終わってるしそもそもそういうシリーズらしいしなのだがフルコン空手鬼お前! お前…! 筋肉がすべてを解決する型の脳筋かと思ったらそんなお前『幽遊白書』でいうところの戸愚呂弟みたいな凄絶悲愴の過去があったのかよ筋肉繋がりで…! それはしゃあないわ! そんなもん鬼になるやんか! 情状酌量やで! 思わず猛虎弁になってしまうエモであった。

こういうの弱いんだよナァ。悪役が悪役となったのにはそれなりの理由があったのであるというやつね。『幽遊白書』も普通か普通よりも真面目で正義感の強かった戸愚呂とか仙水が悪に堕ちた理由をしんみり描いてるところが泣けて好きだし『鬼滅』の作者も(『幽遊白書』の連載されていた)ジャンプ作家だから『幽遊白書』の影響は間違いなくあると思うのだが、そういえば我が心のゲームであるところの『真・女神転生』シリーズも悪を単なる悪として描くことはきわめて稀であり(『デビルサマナー』のシド神父などはその稀な純粋悪なのでそれはそれで魅力的であった)、それがたとえ破壊的なものであったとしても人間が何かしらの思想を持つにはそれなりの事情が必ずあるということを一貫して描き続けたシリーズであった。フルコン空手鬼の入れ墨デザインは『真・女神転生Ⅲ』の主人公である通称・人修羅を思わせたので、こちらも『鬼滅』に影響を与えたのではなかろうか。

『真・女神転生』シリーズというのは俺に世界の見方を教えてくれたゲームである。このゲームを小学生の頃から遊んでいたために今の俺はまぁまぁ公平な感じで少なくとも独善には陥ることなく世の中を眺めることができているのではないだろうか。世の中に絶対悪や純粋悪は存在せず、かなり残念ながらそれは裏返せば絶対の善もまた存在しないということでもある。善とか悪とかそんなものは常に相対的で視座や文脈によっていくらでも見え方が変わってしまう。しかしそれは争いの回避や縮減という観点からは超必要な考え方なのだ。

「どっちも正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」とはかの有名な『ドラえもん』の名言だが、パレスチナ・ガザ地区の支配勢力であるハマスによるイスラエル民間人虐殺に端を発したガザ戦争なんか実際どっちも自分の殺しが正しいと思って相手を殺しているのだから、その武力の非対称性は大いに指摘すべきだとしても、「どちらが善か」という問い立てによってこの暴力の応酬を調停することは不可能であるばかりか、そうした問い立てから一方を善として定める行為は逆に戦争を加速・拡大する行為になるだろう。さいきん新しい『スーパーマン』をガザ戦争と結びつけて今の世に必要な絶対の善を描いた映画だとして賞賛する声がSNSに結構上がっているのだが、こうした理由で俺はそれに対しまぁまぁ苦い顔をしている。

ゆーて少年マンガである『鬼滅』は『幽遊白書』の終盤や『真・女神転生』のとくに初期作ほど善悪の相対性を突き詰めて描いているわけではなく、なんだかんだ鬼は悪いんで殺しまーすの立場ではあるものの、この映画のクライマックスにあたるフルコン空手鬼とすみたろうくんのバトルには、善悪の境界線が定まらないときにどのように戦争を終わらせることができるのか? ということのひとつの答えがあったという点で、どうも最近かつての『ダークナイト』『ウォッチメン』などのような重い倫理的問いかけを失い、ヒーローこそ正義で悪は悪なんだから悪いヤツなんかぶん殴ればいいじゃんみたいな単純路線に回帰しつつあるように見えるアメコミ映画よりも、ずっと心に刺さるものがあった。

おめーが『鬼滅』の何を知ってるんだよではあるが、もう今回の映画を観た人もこれから観る人も、いったいどのようにすみたろうくんはフルコン空手鬼を打ち砕くことができたのか、という点に注目して、その意味をよく考えてみてもらいたいというのは個人的な願望である。それはすみたろうくんが「善だから」では決してなかったんである。善であるかはわからないが、ともかくすみたろうくんは正々堂々と戦い、そのことでフルコン空手鬼と同じ立場に立ったから、なのだ。もしもイスラエル兵が最新鋭の兵器や装備で武装せず、ハマス戦闘員のように我が身を危険に晒して徒手空拳で戦っていたら、ガザ戦争はこれほどまでに凄惨な様相を呈してはいなかったんじゃないだろうか?(ちなみに俺はここからベトナム戦争時のベトコンのテト攻勢を連想したりするがそれはさすがにお前のインナーワールドが過ぎるだろということでブログとはいえ却下)

と絶賛している感じだがそれはあくまでも物語についての話であって、ぶっちゃけ一本の映画としては作りが甘く、よく知らんが今回はずっと無限城という無限に広がる騙し絵空間(※ジャンプ漫画でありがち)で戦ってるのでバトル時の背景がずっと同じトーンで変化がないし、脚本もバトル→回想→バトル→回想と一本調子な上、そのためにシリーズ完全初見の俺などは理解を助けられはしたものの、とにかくずっと説明台詞が続くのでさすがに辟易させられたりした。せっかく無限に広がる空間なんだしバトルゾーンによって建物構造を変えるとか色調を変えるとか、無限城のいろんなところで鬼殺隊のいろんな人が同時に戦ってんだからそういうのはカットバックにするとか、なんかそういう映画的工夫ってもんがあるでしょうが! 面白かったからいいのだが、これではなんだかただテレビアニメを三話ぐらい一気見してるだけみたいである。スプラッター描写は映画なりに多少派手な感じではありましたが。

ちなみに上に挙げた以外の個人的な好きポイントはカラスドローンを使って無限城をマッピングしてる多少不気味な見た目の別働隊。こういうね作戦領域の外にいる別働隊がリアルタイムで情勢を分析しながら必死に指示の最適解を模索してる描写とかめっちゃ好き。であればこそもう少しこの戦場の複層性を脚本とか編集に生かして押井守の『イノセンス』の終盤みたいにぐわーんとダイナミックに映画がうねる感じにしてほしかったと思うのだが! お笑い要員の鬼殺隊の下っ端とかモブっぽいキャラまで面白いのに、キャラの多さも生かしきれていなくてもったいないナァ。

※あとちくわ咥えた女の子は10秒ぐらいしか出てこなかったので次は元気になってちくわ食って欲しいです。

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