人生はいつだってスッキリしない映画『でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男』感想文

《推定睡眠時間:0分》

実話がどうとか主演が誰とかそんなことよりも三池崇史の裁判もの新作裁判もの映画という点で「観に行きたい!」と思わせる『でっちあげ』だったと書いてもよくわかってもらえない可能性があるのだが三池崇史の実写映画版『逆転裁判』は面白い法廷劇であると同時にゲームの実写家画家としてもまずまずの完成度を誇る隠れた佳作なのである。多作が災いして今ではぜんぜん顧みられることのない三池の『逆転裁判』だが、仁義に厚い俺は一度としてその存在は忘れたことはないといえば明白なるウソになるが、4年に1回ぐらいはあれ面白かったなと思い出す。オリンピックと同等の思い出し頻度だが大抵の人は一度も思い出さないしそもそも存在自体を知らないと思うから相対的にかなり思い出している方だろう。

その『逆転裁判』は原作が原作ゆえコミカルな演出も多かったのだがこちらはド真面目な法廷ものであった。主人公の綾野剛はかなりそこらへんにいそうな凡人小学校教師。教育にかける熱意はあるようだがなにせ先生の仕事は多忙だし気苦労も多く毎日疲れ切って自分の理想とする指導は到底できていない感じの、まぁだからそこらへんの小学校教師なのである、が。ある日のこと受け持っている生徒の一人の親であるところの柴咲コウがどう見てもカタギではない夫の迫田孝也を連れて校長室に直撃、綾野剛が信じられない暴力指導を行っていると告発したのでさぁ大変、そんなことやってないですよと綾野剛は否定するが事なかれ主義の校長と教頭からとにかく謝罪をと強く言われたことでついついすんませんでしたムーブをしてしまい、その「自白」を根拠に事態はどんどんとデカくなっていくのであった。

いやぁ、おもしろいはなしですね。ぼくもコンビニバイトとか接客業が長かったのでこういう経験ありますよ。それは主に映画前半の「やばいヤツに目ぇ付けられた!」の部分(あと立場が上の人からのお客様への謝罪強要に乗ってしまったことによるお客様が図に乗っての事態悪化)だが映画中盤から現れてくる過熱報道によりイメージが事実と乖離して一人歩きする今で言う炎上の問題に関してもツイッターで経験あるのでわかりみしかねぇ。わかりみしかねぇので世間ではコワイ映画とか胸糞映画との評もあるようだが逆に俺の感覚では「あるよね~あるある~」みたいな逆に和やかな感じである。こういうことってあるよね~を映画でやってくれてホッとした、というのがこんな映画にはまるで似つかわしくないようだが俺の率直な感想なのであった。

前半は原告である柴咲コウの視点から事件が語られその後に被告であるところの綾野剛の視点から同じ事件が語られる『羅生門』スタイルだが、元ネタになった事件では後に教育委員会による被告教師の体罰認定とそれを理由とする停職処分が撤回されているので、真実はどこにあるかわからないという風には物語が進まず、その証言のすべてを100%信用していいかはともかくも、大筋では綾野剛が言っていることが事実であり、ヤバイ柴咲コウ夫婦によってそこらへんの小学校教師でしかない綾野剛が社会的に抹殺されそうになる恐怖を描く法廷サスペンスといってよい。だからうーんと頭を捻ることなく結構ストレートなエンターテインメント。比較的入り組んだ事件だが三池のストーリーさばきは小気味よく、無駄な横道に入らず演出も題材に合わせてしっかり抑制されているため、テンポ良く綾野剛が坂道を転げ落ちて最後ちょっとだけ救われる光景をシンプルに楽しむことができるのだ。

三池の映画の中では相当にウェルメイドに徹した作品といえるが、ただし、だからといってそこに三池の世界観がないわけではないのがえらい。三池映画の核心にあるものはなんだろうと考えた時に俺の頭に浮かぶのは「見捨てられた子どもたちの反逆」で、これはさまざまな三池映画に見られるモチーフだが、とりわけ中国残留孤児を題材にした『新宿黒社会』、大人たちが再教育を放棄した少年殺人犯と被害者遺族が暴走激突する『太陽の傷』、おそらくは性的虐待に遭っていた児童のその後を描いた『46億年の恋』や元ネグレクト児童の青春もの『ブルース・ハープ』のような映画では全面に出ているもんである。『でっちあげ』の原作ノンフィクションは読んでないのだがどうも映画で柴咲コウと迫田孝也が演じていた原告夫婦の取材はしていないようで(まぁ、させてもらえないだろう)、であるから映画の中で柴咲コウが虚偽の告発で綾野剛を追い詰めた理由は作者たる三池と脚本・森ハヤシの創作部分と思われるのだが、だいたいトータル3分程度しか登場しないその理由というのが「見捨てられた子どもたちの反逆」なのであった。

そのへんは賛否がありそうだが俺としては賛のほう。柴咲コウの表情を変えない爬虫類っぷりは最初こそおそろしいが、絶対に自分の非を認めずウソにウソを重ねる過剰なまでの攻撃性が、親や社会に見捨てられた子どもの獲得した切実な防衛行動であるかもしれないことがごくごく短いその過去の場面からわかってくると、変わっていないはずの爬虫類フェイスがなにやら可哀相なものに見えてくるんである。そしてこちらもごくささやかな綾野剛の過去のシーンを見れば、もしかすると柴咲コウは自分を見捨てた親や社会の代理として、自分を愛さなかった親や社会に対する怒りや痛みや悲しみをぶつけるために、執拗なまでに綾野剛を追い詰めたのではないか、とか思えてくるのだ。

どれほど理不尽に見えようとも事情のない純粋な加害というものは論理的に考えて世の中には存在しない。加害者もまた被害者なのかもしれないという視点があるから、この映画は正義が勝つ式のわかりやすいカタルシスの得られる作りにはなっていない。冤罪は悪だが、だからといって冤罪を生んでしまった人が悪とは限らないのだ。だからこの映画では実質的に誰一人として裁かれることがない。人々の正義感情を煽っていかようにもエモーショナルに盛り上げられる展開をおそらくは意図して抑制的に善悪の境を曖昧に演出しているものだから、あの家族、今どうしてるんだろうな…と綾野剛がふと考えるラストには、カタルシスどころかぼんやりした不安と一抹の切なさが漂うばかり。

俺にかなり理不尽な苦痛を与えたり俺に関するウソを平然と撒き散らしたいろんな人の誰一人として(俺が綾野剛のように名誉毀損の裁判を起こせなかったので)裁かれてはいないので、俺もたまに「あの人たち、今どうしてるのかな…」と、不安と心配の入り混じった、妙な気分になる。でもいつだって正しいことが認められるわけじゃないし間違ったことが裁かれるわけでもないので、人生というのはそんなものなのかもなと思う。虚偽告発を通じて、なにか人生の本質に触れさせるような、単なる法廷劇には留まらない力作じゃあないだろうか。

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