つけびして煙り喜ぶ映画『楽園』感想文(途中からネタバレ含)

《推定睡眠時間:0分》

母国語で話している場面もあるが語学力が瀕死なので何語の何人なのかわからない廃品回収屋の外国人青年・豪士を綾野剛がカタコトのようなカタコトじゃないような安定しない台詞回しで演じていてそれはさすがに無理があるだろう、とは思ったもののとても面白い映画だったのでそのへんは目をつむりたい。

というか、あれは、たぶん、意図的に不自然に演出してんじゃないだろうか。異邦人というのは記号であるということ。こちらは日本人設定の準主人公・善次郎(佐藤浩市)が豪士親子に続いて村の迫害ターゲットになるように、異邦人であることとその人間の個人の属性は直接関係しない。あくまで記号の秩序の中で誰かが異邦人枠に収まるだけの話。

善次郎が家の前に何体かの違う服を着せた同型トルソ型マネキンを飾っているのは示唆的に思う。マネキンたちの服は相互に交換可能だからだ。われわれお客の側はこういうミステリー映画を観るときに誰々が犯人でとか誰々が悪いやつであるいは良いやつでと考えるけれども、結局それは画面に映る人間たちではなくマネキンの服を見るように人間たちの記号体系を見ているからで、だから、綾野剛が外国人役なのに外国人に見えないとなんでやねんと思ってしまう。彼は記号の秩序を揺るがす存在なのだ。

個人の属性は異邦人性と関係しないとしてもそれが秩序を揺るがすなら別の話、秩序に与しない異邦人であることに何か合理的な理由が求めようとするときに人は往々にして個人の属性に理由を求めるんじゃなかろうか。逆なんである。結果があるから理由が必要とされるのであって、理由があるから結果が引き起こされるわけではないのだ。それはミステリー映画を観るときの大抵の観客の見方だろうけれども、同時に映画の中で描かれる異邦人の迫害の論理でもあった。

というわけで一筋縄ではいかない瀬々敬久の最新作『楽園』は一種の叙述トリック搭載型ミステリー、にして反ミステリー。群像劇のうえ現在と過去を頻繁に行き来する編集に頭ぐるぐるでしたがそれにどんな効果があったかと考えれば、これはきっと記号の壊乱を意図したものだったんだろうと思う。

今見ているものは今見えている記号でしかない。こう見える人物はこう見える記号体系にあてはめて見る時にこう見えるだけで、別の記号体系の中に置くときにはその限りではない。あっちの人から見て善人の人はこっちの人から見て悪人なんである、ということをドラマのレベルに留まらずメタフィクショナルなレベルで実践した映画と俺には見えたのだ。

少女失踪事件の犯人を自分たちの想像オンリーで作り上げて私刑に走る村人たちと綾野剛の外国人演技にもっと外国人らしさを求める(かもしれない)観客はその記号的思考においてどの程度の違いがあるだろうかというわけである。

単に綾野剛の芝居が下手だっただけかもしれないので我ながら飛び道具推理が過ぎるだろう、とは一応思っている。

はい以下ネタバレ入ってきま~す自己責任でおねがいしま~す

それにしてもなぜトルソ型マネキン? といえばなんとびっくり実はこれ「つけびして煙り喜ぶ田舎者」の怪文句でネット民を震え上がらせた(そして喜ばせもした)山口連続殺人放火事件をモチーフにした映画だったのだ。
まるで示し合わせたかのように最近刊行された高橋ユキ『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』のオリジナルnote版には集落にある犯人の家の様子がこう綴られている。

関東から戻ってくる際に自力で作ったという新宅のまわりには、枯れ枝が散乱していた。それをかき分け、白い門扉の前に立つ。右脇には茶色い壺や人型のオブジェが、空っぽになって倒れた植木鉢とともに雑然と並んでいる。門の奥にはガラス戸の出入り口があるが、上半分は簾がかかっていて中は見えない。左手に目をやると陶器でできた大道芸人の人形が置かれていた。
ルポ「つけびの村」02/06 〜つけびして 煙り喜ぶ 田舎者〜

ゴテゴテと自分の家を飾り付けるのが好きな犯人だったのだ。自分だけの楽園を作り上げようとしたのかもしれない。
善次郎はまた愛犬家で飼い犬を巡って集落民とトラブルになるが、これも実際のつけび犯と同様、養蜂で村おこしを目論むも集落民の反発を食らって村八分に、というのもつけび犯の場合は養蜂ではなかったが自らの提案した村おこし案が原因で集落民と関係が悪化する流れは同じであった。つまり善次郎はつけび犯なんである。

まさかそんな光景が飛び込んでくるとは。直接の殺人描写こそないものの土を貪り食って集落民殺しを胸に誓う佐藤浩市とか血まみれの鎌を手にした佐藤浩市とか松明を手に夜の集落を往く佐藤浩市とか良い意味で完全に想定外。これもまた記号の壊乱、コード崩しだろう。スプラッター描写があればもっと良かったですけど都井睦雄タイプの佐藤浩市が見られる映画を他に知らないのでそれだけで100個ぐらいいいねを贈りたい。

尖った映画だ。撮影・鍋島淳裕の切り取る田舎の風景は1カット1カットがスチルのよう、夾雑物のない大胆で力強い構図はなんでもないシーンにも異様な迫力と緊張感を与えていた。映画のキービジュアル的な青々と茂った水田に雲間から一条の光が差すドローンショットも超ビューティフルだし超不穏、これがつけびものの映画だということを踏まえて見るとなんだかものすごい感じである。つけびものというジャンルがあるかどうかはともかくとして。

話題の日本芸術文化振興会助成対象作品にしてこのクラスのメジャー邦画でしっかり大人の濡れ場があるというのも尖っている。大人の濡れ場なので片岡礼子と佐藤浩市が温泉に行って混浴風呂で傷だらけの過去を語りながら互いを求めて拒絶して…ってその渡辺淳一的シチュエーション!

すごいな。片岡礼子が脱衣所でしっとりと服を脱いでいくシーンなんかガラス戸越しに撮っちゃってもう、エロス。熟したエロスが香ってます。これ見よがしに乳首を見せないところが本当に素晴らしいですよ。やっぱり裸は背中から見せた方がエロい、おっぱいは不自然に張るよりも自然に垂れていたほうがエロい、乳首だって画面にちょっと映り込むぐらいが一番エロいんですよ。献血ポスターの巨乳絵とかあんな子供のズリネタはどうでもいいんです。大人は温泉宿の脱衣所で1枚1枚服を脱いで何年ぶりかの交接を前に自分の裸体を鏡で眺める未亡人の片岡礼子を見ないといけないんですよ!

この急な文体の乱れは温泉だけに欲情の結果ではなく観客の側からのコード崩しとして理解していただきたいが、そんなことはどうでもいいとして、ともかく私刑あり虐殺あり濡れ場あり美カット連発の尖った『楽園』なのだ。
瀬々お得意の群像クロニクル形式で限界集落に横たわる積年の闇と恨みを炙り出したというには正直シナリオが断片的すぎるし表面的すぎると思うが、むしろシナリオさえも記号化することでストーリーとシーンの主従関係を無効にして、これこれの尖りでその記号性を暴き出そうとしたように見えなくもないので、その意味ではこれも一つの叙述トリックなのかもしれない。

単純なストーリーなんである。単純なストーリーなのだけれどもそれを一旦バラバラのパズルにしていくつかのピースを意地悪にも抜いてしまっているのでそのストーリーは絶対に1枚の絵にはならないんである。その時に人は記号の秩序に盲目的に従うことの残酷と不毛に気が付くんじゃないだろうか。

すべての発端となった少女失踪事件以来、なんとしてでも犯人を見つけるために修羅の道に入った失踪少女の祖父・五郎(柄本明)は映画の最後、わからないものはわからないということを発見するのだった。わからないものを記号体系に当てはめて強引にわかろうとした(かなり遠回しな)結果がつけび殺人による集落の崩壊だとおそらく彼はその時に知ったんである。

結局、失踪少女の身に何が起ったかは最後までわからない。一つの答えとして鬱憤を爆発させた豪士の衝動的な殺しを映画は提示する。もう一つの答えは豪士が一人暮らしのアパートに少女を監禁していたことで、更に付け加えればそれは記号の秩序に縛られた退屈な地元に幼いながらに希望を見出せなくなった少女の自発的な意志によるもの、という可能性もある。いずれにしてもそれを仄めかす描写がチラチラ出てくるだけで決定的な証拠は劇中で描かれないので、どうこう考えてもしょうがない話ではある。

そんな地元から飛び出して東京の青果市場で働き出した失踪少女の友人・つむぎ(杉咲花)は青果市場の仕事が楽しいと同級生の広呂(村上虹郎)に話す。理由は青果市場には全国から様々な野菜や果物が毎日集まってくるからで、そこには地元にはなかった記号の交換、常に変化し続ける記号体系があったんである。
唐突に思える広呂の大病発症とラストの余命5年をいつ死ぬかわからないが生きてみる宣言も、その視座に立てば腑に落ちるものだったように思う。

静的な記号の秩序に依って死んだように生きるよりも、動き続ける記号の交換の中に身を置いて、明日どうなるかわからない生を営むことに、つむぎと広呂は楽園を見出したんである。

追記:
杉咲花の可愛さに死ぬ。マジで死ぬ。あとユップ・ベヴィンのさざなみのような音楽もよかった。音楽協力で安川吾郎がクレジット、という盤石の体制。

追記2
豪士の母親の内縁の夫(モロ師岡)とリサイクルショップの店長(嶋田久作)の発言から察するに豪士は表向きは廃品回収で身を立てているが実際には窃盗や時には強盗殺人に手を染めていたし、周囲の人間はそれを暗黙の了解としていた。映画の冒頭で失踪少女の祖父が蚤の市の豪士親子の店を荒らすチンピラを止めようとする際にあえて警察を呼ばず、店の物品を握らせてチンピラを帰すのは穏当な見方をすれば事なかれ主義の表れかもしれないが、盗品を更に盗む行為が常態化した村の崩壊した経済を示すものだったのかもしれない。モノの交換のない(新しいものが入ってこない)平穏な世界を維持するために村人たちは豪士親子に交換者の役割を背負わせていたのであり、そうして得られた記号の秩序の中で村人たちは豪士親子に賤民・異邦人の記号を押し付けていたんである。

瀬々敬久の映画には旧約・新約聖書のモチーフがよく現れるが、ここではモノの交換を担う豪士親子に汚れた金貸しとして社会の存続に必要不可欠な貨幣交換を引き受けざるを得なかったユダヤ人のイメージが重ねられているのかもしれない。抽象的な『楽園』のタイトルはこの物語が具体的な社会問題についての物語ではなく、遠い昔から延々続く楽園とその犠牲者についての物語であることを示しているんだろう。

【ママー!これ買ってー!】


つけびの村  噂が5人を殺したのか?

noteの方は買って読んだ。ゴシップって楽しいなみたいなルポです。

↓原作


犯罪小説集 (角川文庫)

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