《推定睡眠時間:0分》
昨日観た『おさるのベン』は狂犬病のチンパンジーが人間をパワーの暴力で押しつぶす映画だったがその狂犬チンパンジーさながらに銀座のクラブでホステスに狼藉を働き(※刑事告発・民事訴訟ともにされておらず、被害者のホステスさんが狼藉を黙認したとしてクラブのママ相手に起こした訴訟も和解により取り下げられたとのこと)一気にスター役者の座から転落した香川照之が「近くにいる人間がみんな不審死を遂げる謎の人」を演じるのだから怖すぎる映画である。
振り返ればそこに香川照之。いや振り返らなくてもそこに香川照之。何をしでかすかわからない香川照之の怖さはとくに香川犠牲者の一人である松田龍平の前にはじめて姿を現すファミレスの場面で全開だが、その場面で香川照之はプライベートモードの松田龍平スペースに顔見知りでもないクセにいやに親しげにズケズケと踏み込み勝手に相席して乱暴な手つきでメニューをテーブルにバンと置き、あまりにもうわーな感じである。松田龍平はアル中で死亡事故まで起こした自分を変えようと(泥酔して狼藉を働いた香川照之を思わせる設定である)必死に断酒している人なのだがその松田龍平に対してニヤニヤしながら「なんで飲まないの? 一杯やりましょうよ」とかなんとか悪魔の誘惑をかける香川照之。それが単なる無神経なのか弱った人の心の隙間につけこむ鬼畜の所業なのかは実は最後まで観てもよくわからないのだが、どちらにしてもイヤすぎるのは間違いない。
といってもこれは似たような設定とキャラ付けの香川照之が善良にして平凡な人々を地獄に突き落としていく黒沢清監督作『クリーピー 偽りの隣人』のようなサイコホラーとは少し違った色彩がある。映画は(たしか)房総半島で起こった深度5くらいの地震で幕を開け、そこから香川照之の一般人どん底突き落とし行脚が始まるのだが、香川照之が渡り歩くのは石川とか宮城とか大規模な地震や津波、土砂災害に襲われた地域であり、理由も前触れもなくある日とつぜん人の命を奪っていく香川照之は災害のメタファーとしても解釈することができるんである(銀座のホステスにしたら酒乱の香川照之の来店は災害のようなものだっただろう)
そのため映画の終盤では香川照之は本当に猟奇的なシリアルキラーなのかという問いだけでなく、そもそも香川照之は実在する人物なのかという問いまで浮上してくる。サブ主人公は香川照之を追う女性刑事(中村アン)なのだが、複数の変死事件をある共通点によって結びつけ、その死の背後の闇には何者かが潜んでいる……と確信しているのは実はこの女性刑事だけであり、同僚の刑事たちは被害者はみな自殺か事故死で他殺ではないと考える。人間は現実界を直視できないと説くのはラカンだが、人は理不尽な不幸に直面した時に、単に運が悪かっただけだなんて達観することはまぁできず、そこに何かしらの意味を必死で作り出そうとしてしまう。神話などは自然災害に苦しめられていた古代の人々が災害による不幸を合理的に解釈するために作り出した体系だろうが、それと同じように香川照之も、実は前途ある人々の理不尽な変死なんてものを受け入れられない女性刑事やわれわれ観客が頭の中で作り出した空想上の怪物に過ぎないのかもしれないんである。
もっとも、そのような幻想譚や不条理劇へのスライドは変死被害者の共通点が際立って特徴的であるためにうまくいっているようには見えず(偶然の一致とは考えられない共通点なのだ)、サイコホラーのくせに変に頭良く見せようとして物語の焦点をズラしているという風に感じられてしまった。災害のメタファーとしての猟奇シリアルキラーというのはいいとして、そうなるくらいなら香川照之の実在をボカすようなある種の逃げは打たず、きっちりと最後までサイコホラーとして作り込んだ方がよかったかもしれない。ただまぁそうすると『クリーピー 偽りの隣人』と同じになってしまうのだが。
ちなみに、『クリーピー』を筆頭に作り手が黒沢清周辺のJホラーを参照し、それを換骨奪胎してこの映画(元は連続ドラマ)を作り上げているのはほとんど疑いなく、香川犠牲者の一人の転落死体の足が折れ曲がってるとかは幾度となく真似されている『女優霊』の転落死体が元ネタと思われるし、松田龍平の勤務先の所長を演じるのは諏訪太郎だが、諏訪太郎といえば90年代Jホラーで見ないことの方が少ない気がするというぐらいのJホラーの顔、黒沢清映画では『クリーピー』の原型となった『DOORⅢ』に大きな役どころで出演していたが、この『DOORⅢ』もまた複数の怪死や失踪事件を辿っていくとその先には一人の男の存在があった……という『災』に通じるお話であった。香川照之は全国の心の弱っている人に近づいてはその人と周辺の人々を壊していくわけだが、そのへん黒沢清の『CURE』の逆バージョンと言えるかもしれない。
見所を言えばやはりなんといっても香川照之のバケモノすぎる顔である。ルッキズムはよくないと怒られるかもしれないが世の中にはお笑いコンビ・ザブングルの加藤などスゴイとしか表現しようのない顔の人がたしかにいるものである。今回の香川照之はまぁシーンによってメイクを変えたり照明で濃い影を作ったりとかいろいろしているというのもあるのだが、例の空虚な眼差しが極まっており、心の中に何もない完全に壊れた人に見えるので逆にこれならもう仕方が無いな、これは近くに出没したら災害だから諦めるしかないわと感じてしまい怖い怖くないで言えばあくまでも逆になのだが怖くない。しかしめちゃくちゃイヤではある。香川照之といえばオーバーアクトだが職業も性格も生息地も異なる6人の香川照之を香川照之が演じるこの映画ではどの香川照之も芝居がオーバーで嘘くさく、それがかえって上っ面だけで心の中に何もない完全に壊れた人っぽさを増長させているのだから、これは演出の勝利というべきだろう。
なかなか全容の掴めないトリッキーな編集であるとかまったく突然に挿入される死であるとか、おそらく黒沢清や三池崇史に多くを負いつつ『ユージュアル・サスペクツ』や『パルプ・フィクション』の影響もあると思われる作劇も面白かったし、生理的嫌悪感をかき立てる現代音楽的な劇判も気持ち悪くてイイ、どうしても香川照之にばかり目が行きがちとはいえめちゃくちゃそこらへんにいそうな冴えない独身中年清掃員を演じた内田慈もお芝居も見事だったんじゃないだろうか。良いところばかりの映画なのだが、ただシナリオは上のほうで書いたこととも関連するが頭だけで考えたものの観があって、現実的にはこうは行かないんじゃないとか現実にはそんな型にはまったようにならないんじゃないみたいなところが多く、杓子定規で迫真性に欠けていたように思う。
精巧に作ることを優先して現実世界のデコボコしたところ取り除いたら絵空事のようになってしまって訴えかけてくるものが減ったという感じだろうか。この監督コンビ・関友太郎&平瀬謙太朗の前作『宮松と山下』(これも香川照之がいろんな人を演じる映画であった)もこういう感じだったからこれはこの人たちの作風なのかもしれないのだが、個人的な好みとしてはもう少し現実の歪さや現場の空気を取り込んだ映画の方が好きである。よく出来ているけれども、出来すぎている映画、なのかもしれない。