く…く…狂ってる!本当はマジで怖ぇ『プリデスティネーション』!(1/2)

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《推定睡眠時間:0分》

イーサン・ホークが出てスピエリッグ兄弟が監督した『プリデスティネーション』をウトウト観た。俺はこれメチャクチャ怖かったんだけどネットとかで感想観るとあんま怖いって書いてる人いない。
ルサンチマン全開な感じがしてイヤですが多分そーゆー人はリア充だな。これはホント、非リア男から見ると地獄みたいな映画だ。もう近年稀に見るレベルで地獄な映画だ。

しかしビックリしたなぁ、映画冒頭の銃声のデカさ! 映画館で映画観んの久しぶりだもんな。シネコンで観たのなんてもっと久しぶり。新宿のバルト9の夜の回で観たがレイトショー料金が無くなっていた。1800円だ、ちくしょう。

銃声に驚いてたらイーサン・ホークが燃えてハゲた。またビックリしてたら二枚の張り紙がアップになった。「明日できることは昨日するな」「同じことは二度するな」(※たぶん文言ちょっと違います)
それを合言葉に観ればいいらしいがどうもこの二枚の張り紙が裏表くっついてるらしいというのがオチだった。それはまぁ、おいおい。

ハゲて007のスペクターみたいになったイーサン・ホークだったが次の場面では何事もなかったかのように元の姿に戻っていた。回想だろうか。バーテンの中年イーサン・ホークが酒場に立ってる。
そこに客としてやってくるのが若き日のディカプリオを腐らせたみたいな男。イーサン・ホークは仕事そっちのけで男と話し出す。
ご婦人向け三流雑誌の「私の体験談」コーナーに嘘八百の体験談書いて糊口をしのぐみみっちい男の波乱万丈の長い長い体験談が始まる。

「私の体験談」男は実は女だった! 体は女、でも心は男! 孤児院で育った! ケンカは他の孤児の誰にも負けなかった! 政府募集の宇宙慰安婦に応募した! 過酷な訓練を難なくこなした! 他の宇宙慰安婦候補との殴り合いのケンカには絶対負けなかった! だが、結局採用されなかった! 俺が一番強いのに!

わけがわからない。なんの話なんだろうこれ。だいたい時代設定もよくわからない。イーサン・ホークと男がバーで話す現代は70年代くらい?
フラットで書割めいた映像のせいで「私の体験談」男の回想は年代不明。いや60年代くらいらしいが。ウーマンリブとか言ってるし。
いやいやそもそも「私の体験談」男の言うコトだ。どこまで信用していいやらだ。なにひとつ腑に落ちないが男の昔話はまだ続く。

心は男だが別の男に恋して妊娠! 出産で自分が両性具有であることを知る! 女を捨てて男に性転換! 子供はさらわれた! 父親になるはずだった男は消えた! 俺は全てを失った。一つだけ残して。
復讐。俺の人生を狂わせたあの男を殺す。それだけがただ一つの生きる目的。だがそれも果たせぬまま、今やしがない「私の体験談」。

かつて女だった(?)男のヨタ話を仕事完全放棄でピスタチオかなんか食いながら聞いてたイーサン・ホークは男をよしわかったと地下室に誘う。
不審に思う男。レイプか? 殺人か? そういえば最近、怪しい爆弾魔がうろつき回ってるとか…。イーサンが口を開く。

「お前、ホントにその男を殺してぇのか?」
「あぁ、殺したいね」
「そうかい、だったら…」
ギターケースみたいなのをテーブルに置くイーサン。ダイヤル付き。
「コイツはタイムマシンだ。過去に戻ってそいつを殺せ」

ガーン! ビックリした! すごいビックリした! た…た…タイムトラベルもののSFだったのか! 知らなかった!
あと、後ろの席にジョナ・ヒルっぽい人が座ってた。これもビックリした。

大好きなバカB級ゾンビSF映画『アンデッド』(2003)のスピエリッグ兄弟監督作とはいえ、ロクに期待も前調べもせずに観たが、これはホント面白かった。
序盤四十分くらいダラダラしてるが、そのタイクツさに負けないで観てほしい。いやスゴイよ、そっからの狂いまくって壊れまくった展開。

以下、散乱(産卵?)しまくった妄想ネタバレ。
映画の狂いっぷりに合わせて夜中のテンションで思いつくままに撒き散らしたので、節分の日みたいになってます。わーい。
ひたすら長くて汚いですが、良かったらどーぞ。

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『プリデスティネーション』はSFじゃない。これは文字通りの意味で妄想映画だ。タイムマシンなんて存在しないし、女の自分、タイム・エージェントの自分、爆弾魔の自分もまた同様。全部妄想だ。全部が全部妄想で、現実の場面なんてほんのわずかしかない。

原作はちゃんとSFだったりするが、まぁ原作をどう解釈するかなんて監督やら脚本家の自由なんで、原作がSFだからって映画もSFと捉える必要はない。
じゃあ映画は原作をどう解釈したか、妄想じゃなくて現実のイーサン・ホークに何が起こったかってのを、妄想映画らしく妄想しながら書いてみよう。

いや、哀しいハナシじゃないですか。男としての自分を確立できないで、イーサン・ホークは男らしい自分を夢見る。空想上の男らしい自分に惚れて、ハタと気付く。これじゃまるで、女みたいだ!そんなの俺じゃない!
それがイーサンの悲劇の始まりだった。彼は両性具有じゃなくて、男らしくない男だった。なんでかって言ったら、この映画が分身についての映画で、円環についての映画でもあるからだ。その補助線として分身映画・円環映画について考えてみたい。

分身映画。
分身映画の主人公なんてほぼ例外なく男なワケで、分身が主人公の対峙すべき問題になるのは男性性においてでしかない。男から見てコドモっぽさと同一視されがち(カワイイ!愛らしい!)な女性性の中で、分身は問題にならない。
なので女の分身映画はそもそもごく少数だと思われますが、その場合は往々にして、分身は主人公を性の解放に誘う肯定的な存在なんである。

分身が性の解放に誘うのは男の分身映画でも同様だったりするが、男が分身と戦うのに対して、女は戦わないで受け入れる(あるいは戦わずして敗北する)
女の分身映画での問題は分身じゃなくて、男たちの抑圧なのだ(女たるもの貞淑であれ!)

女たちは分身と戯れるが男たちは分身と戦う。それが何を意味するかと言われても知らないが、男だろうが女だろうが分身は基本的に(社会的な)欠如を補うワケで、それを乗り越えるべき問題とするか単に受け入れるかの違いではある。
男は分身に打ち克って成長する、オトナになる。映画に限らず伝統的(?)な分身ものの基本。欠如は男の敵である。

果たして欠如とその克服が人をオトナにするのかどーかは知らんが、少なくとも男の分身映画はどうもそう捉える傾向があるらしいんである。

読んでないから知らんが、聖書の創世記にこんな記述があるとかないとか。「アダムの脇腹から骨を取り出し、生ける女(エヴァ)に変えた…」福音派なんかじゃコレが男のが女よりエライんですよの根拠になってるらしいが、そんなもん当然ファンタジーだ。ファンタジーだが、男が女より優位に立つためには必要なファンタジーだ。セックスの不在がこれを可能にする。

逆ならどうか?「エヴァの脇腹から骨を取り出し、生ける男に変えた…」ほとんど自然な記述なワケで、この場合には男と女の優劣は問題にならない。そこにはセックスがあり、男と女だったり、死と誕生がセックスで結びつく。調和としてのセックスとか言ってもいいし、あるいは円環のかすがいとして、とか言えるかもしれない。

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男の分身映画じゃ自分と分身がポジティブとネガティブに切り分けられる。どっちかが上でどっちかが下になる。調和としてのセックスが無いからだが、多くの分身映画が性的に未熟(か不能)な男の映画であり、対して分身が男らしさと性的エネルギーに満ち満ちてるってのはそのあたりに起因するように思う。

分身が出たので、じゃあ変身はどうだろうか。男の変身はウルトラマンやバットマンは言わずもがなで、強烈な異形化を伴う。女の変身と聞いてすぐ思いつくのは化粧や売春だったりするが、原型を留めない男の変身と違って、本来の自分と地続きの緩い変形になってるケースが多いんじゃないだろうか。
デヴィッド・クローネンバーグの映画は男女問わずひたすら異形化するが、女が異形化する『ラビッド』(1977)や『ザ・ブルード 怒りのメタファー』(1979)は一種の女性恐怖映画でありつつ、その変身(変態)を賛美するような歪んだ映画になっている。

『ラビッド』では主人公の女の脇にペニスが生えたりするが、少なくともクローネンバーグにとっての異形化は男性化なワケで、この人はどうも女が男となることに安堵する、かあるいは欲情するんである。クローネンバーグ映画では往々にして、女の男性化は悲劇をもたらすが。
(逆に『ヴィデオドローム』(1982)では男が異形化してヴァギナが出来たりするが、この映画はなんだかとてもハッピーエンドなのだった)

バットマンの俗流精神分析的解釈なんかはやたらクソ映画批評家とかがやりたがる。それが正しいかどうかはともかくとして、男が欲望や願望(別に性欲とかじゃなくてヒーローになりたい!とかでもいい)を成就するには女の何倍も迂回と本来の自分からの乖離が必要なワケで、それが異形化であったり、もっと進行すると完全に乖離して分身になったりする、なんて言えないだろーか。

それこそクローネンバーグ初期のケッ作『シーバース』(1975)なんて「セックス怖い!…あぁ、でもセックスサイコー!」という歪んだ映画だが、この映画ではセックスを肯定するに寄生生物の侵入による異形化を必要としたんである。

円環/ループ映画。
バリエーションはいくつかあると思うが、相変わらず直観的に分類する。
1、コドモの遊び場としての円環(『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』とか)
2、タイクツな日常としての円環(『恋はデジャ・ブ』とか『マトリックス』の仮想世界とか)
3、輪廻としての円環(なんの映画が適切だろう?『エル・トポ』とか?)

階層的に見ることもできるワケで、1の円環の上に2の円環、その上には3の円環を描くこともできるだろう。コドモからオトナへ、オトナから老人へ。通過儀礼をクリアして次の円環へ。
円環映画もやっぱりというか、基本的に男の成長物語だったりする。
主人公の男にとって円環が苦痛になる場合、第一段階の円環ならオトナになる(社会に出る、他人の世界に入る)、第二段階なら女と性的な関係を結ぶ、第三段階なら死を受け入れるコトでハッピーエンドになる。まぁ社会的にも肯定されるでしょ、社会出て家庭持って死を受け入れて、ってのは。

主人公にとって円環が全く苦痛にならずに、ひたすら円環の中で戯れる映画・小説・アニメはコドモ性に根ざす。『男はつらいよ』シリーズだって毎回同じコトしかしないんで円環と言えるが、シリーズが続く(円環を閉じる)のは寅さんがマドンナと性的関係を結べないからだ。
寅さんをマトモなオトナとして観る人がどれだけいるだろう?コドモの戯れの延長だから、あんなに多くのの観客から愛されたじゃないだろうか。

ここではとりあえずそういうことにする。そういうことにするので、分身映画と円環映画は男と男性性で繋がる。いや正確には、分身や円環がストーリーの上で主人公が解決すべき課題として設定されてる映画、そーゆーのは例外なく男の映画である。
そして多くの場合、円環を出れない(=オトナらしさや男性性の否定だったりするが)ことの苦痛が分身を生み出す。主人公は分身を自分と一体化させるコトで円環を出て、次の段階の円環に入る。失敗すれば、その円環の振り出しに戻る、

男の分身/変身映画といえばな『ファイトクラブ』は見た目円環映画じゃないが、ラストシーンから映画が始まる回想形式になっている。この映画では最初、主人公はタイクツで変化のない日常にウンザリしていて、分身の登場がそれを突き破る契機となる。
ラストは分身を統合して女を手に入れるハッピーエンドですが、それがひどく空想的に映るのがこの映画の面白いところだ。一方、分身を統合できなかった結果、円環に閉じ込められる映画としては『ロスト・ハイウェイ』や『メメント』が挙げられるだろう。

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ってなワケで分身と円環が映画の中で問題になるのは基本的には男でしかあり得ないがと思うが、そんなの別にイーサンが両性具有じゃないことの証明にはならなかったりする。体は女、でも心は男、って言っちゃえばオシマイ。だから飛躍する。

逆に分身・円環映画として観れば、イーサンが両性具有だって根拠は一切無くなる。だって自分で自分を産む両性具有の自分なんて「アダムの脇腹から骨を取り出し、生ける女(エヴァ)に変えた…」男のファンタジーで、女に対して男の優位を誇示しようとする妄想なんだから。あるいは、両性具有という異形化を行うコト自体、男であることの証明となりうるんである。

もうそう思い込んじゃった(妄想思い込んじゃった?)んで、俺の中で完全にイーサンは男になった。
イーサンが男になれば、ハナシの九割は妄想になっちゃう。でもなんで妄想?
アダムの出産(?)を担当した医者は神様だったが、イーサンは自分で自分の肋骨を取り出して自分にする。神様までとは言わないが、誰か肋骨を取り出してくれる別の人間がいれば、イーサンが妄想の円環に囚われることはなかった。
彼は孤独で、彼の世界には他人が一人もいなかったから、妄想の中で自分を産んで、自分を愛して、自分を憎むしかなかったのだった。

孤児院でのイーサンは、男らしくも女らしくもない自分に悩んでいた。彼は男だったが、自分を女みたいに感じていた。それじゃあいけない。僕は男だ。男は男らしくならなきゃいけない!
男なら男らしくなけりゃいけない。たとえば、ケンカが強いとか。女なら女らしくなけりゃいけない。たとえば、子供を産むとか。イーサンはそんな強迫観念の塊だが、映画的には孤児院でのストレスフルな生活のせいでそうなった。

両親の不在は彼にロール・モデルを与えなかった。自分の居場所と、自分の態度の決定的な審級が、初めから彼にはない。他の男の子からのイジメは彼の男らしさを傷つけた(弱いヤツは男じゃない!)。女の子だったらイジメられないのに、とか思ったかもしれない。
先生(って言うのか?)のセックスを目撃した事は彼の性に対する態度を変えた。多分、先生を母親みたいに思っていただろうから、ヨガる先生の姿と自分を同一視しちゃって、んでまた反面で嫌悪したかもしれない。

男女分裂の契機は常にイーサンのアタマん中の男と女自身に潜んでるが、分裂するたびに男女をまた一つにして常に統一された自分を打ち立てようとしても、イーサンにはそれができない。両親がいない上に周りから疎外されまくったこの人にはそれが正しいことかどうかも分かんないんで、統一された自分になることの根拠がない。
要するに、オトナになれない。それならそれでいいじゃんと思うが、でもイーサンは男らしいオトナの男になりたいんである。そのイメージが子供じみた空想的なものだとしても。

幼いイーサンは思う。男の子でも女の子でもない自分は、どっちでもないから孤独で、居場所がないんだ。男らしい男になろう。ケンカだってめちゃんこ強い男に。そしたら周りの男の子も女の子も友達になってくれるかも。先生だってボクを好きになってくれるかも。それから宇宙飛行士になって、宇宙を飛び回るんだ!(それこそ男の子の男らしい夢じゃないか)

でも結局、イーサンは男らしい男になれなかった。宇宙飛行士にもなれなかった。もう何を信じていいか分からなかった。もうどうしていいか全然分からなかった。
もしイーサンが自分の中の女々しいところを素直に受け入れるコトができていれば、妄想に沈み込んで抜けられなくなることは無かったかもしれない。
自分の弱さを受け入れること。しかしそれがイーサンにはできなかった。そして狂う。俺は誰だ? 私は誰だ? 俺と私の居場所はどこだ? 語られない物語はこうやって始まる。

後編へ続く

【ママー!これ買ってー!】


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『プリデスティネーション』では思いもよらぬ妄想トラップを仕掛けてきやがったスピエリッグ兄弟ですが、考えてみれば劇場デビュー作の『アンデッド』(2003)も「あ、実はそーゆーハナシだったのかー!」とビックリする映画だった。
それだけじゃなくてゾンビもスプラッターもギャグもユルいアクションも満載で楽しいんで、ヒマだったら観てください。

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