人間ビリーバー映画『虚空門 GATE』感想文(ネタバレなし)

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オカルトは観察者を翻弄する。隠れたかと思うと小袖の先をちらりと見せ、思わず目を凝らせば、また姿を消す。特に検証とか実験とかで意気込むときに、この現象は顕著になる。そんなことの繰り返しだ。だから前に進めない。とはいえ後ろにも下がれない。結局はぐるぐる回るばかり。どっちつかずで曖昧なままだ。
森達也『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』

ネタを明かしたくないがネタを明かさないと感想がたいへん書きにくい映画なので苦し紛れに推薦コメントを寄せていた森達也のオカルトインタビュー本からそれっぽいと思ったところを引用してしまう。実際どういう映画かと問われればこういう映画と答えるほかない。こういう映画だったので。

とくに「ぐるぐる回るばかり」という表現は『虚空門』にぴったり。とにかく予想の斜め上を行くこと甚だしい怪展開で斜め上を行ったと思ったらまた斜め上を行く、それからまたまた斜め上を行って更にそこからも斜め上を行く、気付いたらぐるっと一周して元の位置に戻ってきてしまった、というのが『虚空門』である。

内容としては広義のオカルト・ドキュメンタリーに属するのでしょうが、シーン毎にSFになったりサスペンスになったりコメディになったりとジャンルが変わってしまうのであまりジャンル分けは意味がない。
撮影期間なんと6年。UFOビリーバーと共にした6年間を123分に超圧縮編集しているのだからそれは色々ある。もうありすぎるぐらい色々なことがあるのでジャンルがどうとかそういうスケールの小さい話ではない。

広義の、というのは被写体がUFOからオカルトへ、オカルトから人間へ、人間から宇宙へ、宇宙から…といった具合にこれもコロコロ変わるので何のドキュメンタリーと一言で表しにくいからというのもあるし、監督の小路谷秀樹が業界草創期に宇宙企画でドキュメントAVを撮って(画期的だったらしい)その後プロレスドキュメントを撮るようになった越境的な人なので、なんというか「ドキュメンタリーに見えるようにシーン作ってんじゃないの?」感があるというか、そうではないと思うがそう見えてしまうからでもある。

よい意味で非常にとても超いかがわしい。見ていてなにが真実か全然わからなくなるが、描かれているのはなにが真実かわからない中でなにかを探したり信じたりしようとする人たちの物語なのだからスタイルは内容を表す、物語は新たに発見された(?)月面宇宙人遺体ビデオの上映会に小路谷監督ら撮影クルー(といっても最小編成なので監督がカメラと内蔵マイクも兼ねての一人とか二人らしい)が赴くところから始まるが、この映画自体が映画に関心のある人にとっての月面宇宙人遺体ビデオのようなものだろう。

上映後のトークショーではとくに何も考えずに撮ったと監督本人が言っていたが、それはとりあえず信じてみるにしても、編集に際してはやっぱ一種の月面宇宙人遺体ビデオにしようとする意図はあったんじゃないかと勘ぐりたくなる。

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ところでこの月面宇宙人遺体ビデオに出てくる宇宙人的ななにかは劇中では詳しく語られないが英語圏ではモナ・リザ、日本ではかぐや姫の通称で知られているらしい。
映画は満月に向かって神官が国津神よ天津神よ云々という祝詞を読み上げる場面から始まって、この神官はどうやら天照大神を高天原たる月のGATEに送ろうとしているらしいのだが(意味がわからないとか言わないで)、なんでそんな場面をと思えばあの宇宙人がかぐや姫だからなのだった。

実に象徴的にして意味深である。地上に囚われたかぐや姫を月面に穿たれた(?)虚空のGATE(?)に送るという…こう書いたところで映画を観てない人にはなんのことだかわからないと思うがそういう人は一度、映画を最後まで観てからこの場面を振り返ってみてほしい。クルーはやがて撮影中に出会った一人のUFOコンタクティーに密着するようになるのだが、この人がUFOとも宇宙人とも関係の無い退屈な仕事中にふと空を見上げて「龍が出てる…」と呟くところなんか踏まえるとグっとくるはずである(ちなみにこの人は龍をモチーフにした絵を描くアマチュア画家でもある)

もうひとつ、この場面が思わせるのはこれが狭くは信仰についての、広くは人が何かを信じることや何かと繋がることについての映画だということだった。
オカルティズムを内包する上位概念はエゾテリスムと呼ばれるが、『オカルティズム 非理性のヨーロッパ』という本によればその著名な研究者であるアントワーヌ・フェーヴルはオカルティズムを構成する副次的な二つの要素として和協の実践と(秘儀などの)伝授を挙げているらしい。

信じられないようなものを信じ繋がれないようなものと繋がろうとすることからオカルトは始まるが、その信奉者が信じて繋がろうとするのはなにも超越的なものだけではないわけで、人に対してもそうあろうとするのがオカルティストなんである。少なくともオカルティストはオカルティストを疑わない。本心ではどう思っていてもハナっから疑ってかかるような真似はしない。仲間に入れてくれという人間がいたら喜んで受け入れる。

フェーヴルが和協と伝授をオカルティズムの副次的な要素に挙げているのは、たぶんそうでなければ科学者や宗教者のようには自身を支える理屈を持たないオカルティストはその信仰を維持できないからなんである。空を見上げて何か光るものがあっても自分一人で見たらスペースデプリか燃え尽きた隕石かと思うだけかもしれない。けれどもUFOを信じる人たちと一緒に見たら同じものでもUFOに見えるかもしれない。

それはちょっとギョっとする怖い光景である。でも同時にちょっと感動的な光景でもあるかもしれない。真実と虚構の二項対立を人の繋がりは軽々と乗り越えてしまう。ポスト・トゥルースと言われるようなフェイクの黄金時代にその繋がりの力はネガティブな印象ばかり残すが、だとしたらポジティブな繋がりがあるのも道理で、『虚空門』という映画はつまりなんだったのかと考えるに、虚実も善悪も国境もなにもかも乗り越えるその繋がりにポジティブな面を見出そうとする映画だったんだろうと俺は思う。

感動した。天照大神の月送りと悪趣味な宇宙人ビデオから始まるイロモノ全開な映画なのに。

【ママー!これ買ってー!】


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月と宇宙人と人の繋がりを描くという意味では虚空もんもドラえもんも同じです!

500
よーく

めちゃくちゃ胡散臭い映画であるにもかかわらず、何か感動的かつ爽やかな余韻さえ残して終わるラスト10分くらいはびっくりしました。
信仰と共存の映画ですよね。
監督はドキュメントAVとかプロレスドキュメントを撮ってた人なんですか。なるほど。AVもプロレスも虚構性が高いものだしそこからオカルト方面を新たな被写体にするのも必然的な流れだったのかもなぁと思いました。
あと最近のドラ映画は胡散臭いオカルト成分が足りない気がしてたけど南極のやつは未見でクトゥルフ要素がちょくちょくあるという話を思い出したので今度観てみます。