映画信仰映画『海辺の映画館 キネマの玉手箱』感想文

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《推定睡眠時間:20分》

今の時期は色々苦しいだろうから映画館支援の意味を込めてパンフレットを買ってしまったがたぶんこのパンフレットを読むことはないだろうと思う。映画情報完全過多の壮絶早口オタク語り映画ゆえわからないことがいっぱいある。加えて歴史にスーパー疎い俺には白虎隊とか娘子隊とか言われてもなんのことだかという感じだが(その解説もテロップで丁寧にしてくれるのだが)、そうしたわからないものの答えはきっとパンフレットに書いてあるに違いない。

読めばわかるんである。わかって頭がスッキリするのである。でもスッキリしたくないのである。スッキリしてしまって理路整然とこの映画を語ってしまえば何かその体験が損なわれてしまうような気がするのだ。俺にとっては20分寝たことも含めてこの映画の体験だし(寝ることを否定する映画ではないのだ)、ストーリーの大事なところがわからなくても、お正月映画みたいな豪華キャストの誰が誰役だかわからなくても、それを含めて「観る」ということなのだ。

こういうイノセンティズムはどちらかと言えばあまり好きではないが…でもそう、思わせられてしまうんだよ。いやまさかこんなこんな、こんな至福の映画だとは。ちょっと遅れて映画館に入ると狂言回し的な宇宙旅人の高橋幸宏がチープな宇宙船のセットに座って映画はタイムマシンなのですとか戦争は恐ろしいのですとか語ってる。あぁ無いな、と思いましたよ。いつものパターンだと思ったんです、とっくに耄碌してセンスなんか枯れたかつての巨匠的なポジションの監督が凡庸なイマジネーションで戦争を描いて…大した出来じゃあないが自身もすっかり年老いてそれなりの発言力を持ってる(そして最近の映画なんか観やしない)業界のコアな老害ファンどもが持ち上げてるだけ、みたいな。

ところがそんなことはなかったんだ。それは別に幸宏パートがダサくないってことじゃないんです。あそこ本当ひでぇなとさえ思うのですが、ひでぇなひでぇなと思って…まぁその後もしばらく茶番は続くので…そうして観ていると、いつしかすっかり映画の中に入り込んでしまっている。そんなの大林宣彦の計算の内だったんですよ。ひでぇもんから始まって、あぁこれは例のパターンねなんて思わせて、セルフパロディ的にイメージの縮小再生産やってるだけじゃんなんて思わせて…つまらない映画だと思わせおいて、観客のガードを解くんです。

映画の観客なんて無責任なものだからどんなに切実な思いのこもった映画でも隙あらば評論家の席に陣取って上から目線で「ここの撮影が稚拙でね…」とかなんとか重箱の隅を突きやがる(何を隠そう俺もその一人であるが!)。映画オタクが作った映画だからそんな観客心理ぐらい知ってるんですよ。で、アラはないかアラはないかと意地悪く目を光らせてる評論家席の観客が一番、映画のトーンが変わった時に動揺することだって知っているし、手の平返して一気に褒めにはしることだって知っているに違いない。

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あっはっは、まんまと大林宣彦に遊ばれてしまったなぁ。映画を仔細に分析して深く理解することは映画を頭の遊びの対象にすることだ。自分でやるわけだから遊びは何度でも再現できるしいつまでも続けていける。でも映画に遊ばれる体験を再現するのは難しい。だいたいの場合は一度きり、ネタがわかってしまえば次はない。だから俺はこの遊ばれ体験を大事に抱えていきたいと思うのだ。なるほどそう思えばこれは確かに「玉手箱」なのかもしれない。何が出るかはわからないが開けられるのは一度だけ。

玉手箱は一度しか開けるチャンスがないが映画は何度でも観ることができる「複製技術時代の芸術」。なんていうかねぇ、それがすっごい胸に迫ってくる映画でしたねぇ。そうです映画は何度でも観ることができるんです。映画の中の登場人物はマスターが消えたり技術的に上映不可になったりしない限りは死なないんです。でもその映画が上映される度に登場人物は死ぬんです。死んだり生きたり生きたり死んだり。考えてみればこれはなんだか残酷なことだが…。

写真が一枚だけあったらそれは単なる静止画で、連続で撮った写真を何枚も繋ぐと映画になる。本当は動いていないものが目と脳の錯覚で動いて見えるのだから、映画は生きていないものを生きて見させる装置といえる。映画の土台は幻なのだ。土台が幻なのだからその上に載っているものだって全部ウソ、本物に見える町並みは造られたセットで、本物に見える登場人物は俳優が演じている架空の存在で、その言葉や生き様だってニセモノでしかない。観客に聞こえている役者の声は本当は同録じゃなくてアフレコかもしれないし、他人の吹き替えかもしれない。

でもそんなニセモノだから不可能が可能になるんです。死んだはずの生は蘇る、あり得たかもしれない歴史が現出する、遭遇するはずのないものと遭遇する。映画の終盤、ある登場人物と別の登場人物の会話をバストアップの切り返しで繋ぐ場面にまぁ堪えましたが思わず落涙の危機。それは本来は同じ場所にいない二人が、映画の中では単にコマを繋ぐだけで同じ場所にいることになってしまっていたからです。あまりにも単純な編集。でもあまりにも美しいと思った。コマとコマの接続という映画の原理がここでは奇跡として提示されていたから。まるでメリエスのマジック映画。今時こんな透き通った映画愛の発露がありますかあーた。映画信仰を通した死者への祈りが、未来への希望が。

そんな感じ。映画でできるウソが山ほど、いやむしろ映画でできるウソしか詰まってない愉快にして巧緻にして優雅でありつつ愛情深くも悲痛で切実な空前絶後の映画愛映画。伏線回収がどうのというと野暮にはなるが、正直めっちゃ見くびっていたので畳みかけるような後半のフラッシュバックにはすっかり打ちのめされてしまった。あぁ映画だ。これが映画の力だ。それ以外に俺から言えることは成海璃子がめちゃくちゃエロかった、ただそれだけだ。それだけでいいのかッ! イイ! 映画なんてそんなものでもイイんだよ!

【ママー!これ買ってー!】


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ジャンル分けなど意味を成さない『海辺の映画館』ではあるが、あえて似たような映画を探すならゴダールはいいとして押井の『立喰師列伝』とか三池の『IZO』になるのではないだろうか。このリコメンドを読んで『海辺の映画館』の印象が悪くならないことを祈りたいが…いや俺は『立喰』も『IZO』も何度観ても面白い映画だと思ってるから!

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