教育アニメとしてはまぁまぁかもしれない映画『パリに咲くエトワール』感想文

《推定睡眠時間:0分》

ある人物の考えていることをすべてその人物が台詞で言ってしまう映画というのはインターネットだと邦画のここがダメ的な感じで揶揄されたりするものだし、たしかにまぁ台詞で心情を説明するという手法自体が一概に否定されるものではないとしても現実世界で人間が自分の思っていることを正確に口に出すなんてことはほとんどないのだから、そうした手法を用いた映画が安易とか稚拙とか思われてもある程度仕方の無いことではあるんじゃないだろうか。

そしてこの映画はそれを全編に渡ってやっていたのでいささか面食らってしまった。たとえば、千鶴というバレリーナに憧れる15歳の日本人少女が憧れのパリでバレエ団に入団するが、どうしても舞台に上がるメンバーに抜擢してもらえない。千鶴はそれを親友の主人公フジコに打ち明けるとフジコはわからないことがあったらみんなに聞いてみればいいんじゃないというので、千鶴はそれを素直に聞き入れてバレエ団のみんなにどうして自分は舞台に上げてもらえないのでだろうと聞いてまわり、その聞き込みで得た知見をフジコたち仲間の前で正確に口に出して語り、そうかそうだったのかとお悩み解決するのである。

アニメーションを実写映画と比べた時の最大の強みはなんといっても作り手の想像するすべてのものを原理的には映像化できるということだろうと思う。したがって千鶴のこの気付きもやろうと思えば台詞に頼らずいくらでも映像で表現できたはずなのである。ところがこのアニメ映画ではそうしたことをまったくやっていない。これをどう捉えればいいのだろう。

冒頭、フジコと千鶴が世界(といいつつパリだけ)に目を開くきっかけとなったのが明治日本で行われたパリのバレエ団の公演なのだが、ここは二人が「この世にこんなにスバラシイものがあるんだ!」と感銘を受ける場面なのだから、俺であれば舞台の上で行われるバレエはあらん限り美しくカッコよく魅力的に撮ると思う。ここが作品の要で、その後いくら荒唐無稽な展開があったとしても、この入口の場面さえキッチリ絵として作り込んであれば、観ている側としてはなんとなく納得してしまうんじゃないだろうか。それがこの映画は出来ていなかったので、正直なところ作り手の力不足を感じざるを得ないのであった。主人公のフルネームは継田フジコと書いてツグタ・フジコということでこれは言うまでも無くパリで活躍した画家のレオナール・フジタこと藤田嗣治(ふじた・つぐはる)をひっくり返したもの、このネーミングもなんだか小学生が考えたもののように思えてしまう。

ところでパリでバレリーナを目指す千鶴と書けば結構最近寄りの話なのかと思われるかもしれないが、時代背景は第一次世界大戦直前~大戦中である。作り手がパリにどんなイメージを持っているかわからないが、パリというかフランスは文化の面ではアメリカなどの新興国と比べて基本的にとても頑固かつ保守的なので、大正期のパリのバレエ団にポッと出の日本人が入っていける余地があるとは到底思えないし、とはいえイメージだけで語るのも良くないのでとりあえず検索してみたらパリ・オペラ座バレエ団で日本人初の「エトワール」 夢を実現したオニール八菜さんの思いとは【一問一答】【日経新聞デジタル】という2023年に日本人として初めてパリののバレエ団でエトワールに選ばれた人のインタビューが記事があった。

となればこの映画は大正期の日本人がパリのバレエ団に入団して公演に出るという基本設定からして時代考証を行わずに、作り手の願望と想像だけでシナリオを組んでいるということになってしまうのだが、ご都合主義はそれだけではない。千鶴はなぎなた道場の跡取り娘、フジコは神田にお屋敷を構える良家の子女のともに15歳なのだが、両親がパリで新しくなぎなた道場支部を始めたので(明治大正にしてはすごい先進的な考えの人たちのように思えてしまうが、劇中ではもっとも保守的な人々として描かれている)一緒に着いてきた千鶴はともかくフジコの方はアパルトマンに一人暮らしである。

いくら良家の子女といってもこの設定もまたちょっとありそうもない話で、そのうえフジコは生活費を出してくれる画商の伯父さんがどこかへいってからは飯屋で皿洗いのバイトしてパリで一人暮らしを続けるのであった。繰り返すがこれは大正時代の話であり、主人公は15歳の少女であり、そのうえに第一次世界大戦中のお話である。ちょっと現実とか歴史とか文化とかを作り手のご都合でねじ曲げ過ぎじゃないだろうか。

ちなみに千鶴とフジコはともにお見合いを人生の死だと考えていてお見合いから逃れるためだけにそれぞれバレリーナと画家を目指しているようにも見えてしまうのだが、お見合いよりは自由恋愛の方がいいというのは現代の価値観であって、自分ですべてを選択することが自分にとって最大の幸福だとする現代の西洋世界の都市部の思想を100年前の人々に押しつけるのは、その時代の人々の存在を軽視することだろう。不幸なお見合いもあっただろうが幸せなお見合いもあっただろうというのが歴史を客観的に把握するときに当然出てくる見方なわけで、だいたいお見合いをイコールで完全なる不幸にして人生の終わりと捉えるのは、何が起こってどこにどう転がるかわからない人生の複雑さや面白さを捉え損ねた、いささか浅薄な人間理解ではないだろうか。

どうしてこんな映画になったのだろうと考えていて、おそらくこれは小学生ぐらいの女児を主なターゲットとした教育アニメとして作られたものなのだろうという結論に至った。荒唐無稽でご都合主義的な設定や展開のすべては「君ならできるよ、だから夢を諦めないで」と観客の子供たちに伝えて勇気を与えるために、そのメッセージから逆算して作られたものであって、心情のすべてを台詞で説明する演出や正面からのバストショットをやたらと多用する面白味のないカメラというのも、奥行きが乏しく記号でしかないキャラクターというのも、やはり子供たちにメッセージを伝えるためには可能な限りわかりやすくという狙いがあったように思える。

だから観ている途中で頭に何度も浮かんだのは宗教アニメっぽいということである。うちの親は創価学会の学会員なので子供の頃はよく創価学会の道徳アニメを見せられたし、悪食なものだから大人になってからは『UFO学園の秘密』とか『ドラゴン・ハート 霊界探訪記』とかの幸福の科学映画を観るようになったのだが、そのへんとテイストがよく似ていた。共通点は啓蒙メッセージを観客に伝えるためにアニメ映画を構成する他のすべての要素(その中には面白さとかリアリティとかが含まれる)を軽視する、メッセージにすべての要素を奉仕させる、というところである。それがこの映画の宗教映画的な荒唐無稽と稚拙さを生んでいるんじゃないだろうか。

小学生の向けの教育映画としてなら1910年代のパリの風俗のお勉強にもなるのでそこまで悪くないかもしれないので、予告編からもっと跳ねる感じのアニメを想像してしまったこちらが悪いのかもしれない。とはいえ、画家になるためにパリに渡ったらみんな絵が上手くて心がへし折られたと台詞ですべて語るフジコの挫折や葛藤、プライドや意地、そして絵にかける熱情などは、やはりやはりこれはアニメーションなのだから、たった数行の説明台詞ひとつで適当に処理したりせず、しっかり映像で語ってほしかったのだが……。

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