映画想い出語り『クリーン、シェーブン』(非感想注意)

《推定睡眠時間:0分》

『クリーン、シェーブン』に出会ったのは町のレンタルビデオ屋のホラーコーナーで、その頃引きこもっていた俺は有り余る時間を埋めるべくホラーコーナー全制覇を目指してこれも借りたのだが、引きこもっていた頃に観て救われた…などというような美談はとくになく、どちらかといえば生意気にも「統合失調症の描写が表面的だなぁ」ぐらいな感じでわりとあっさり脳みそをスルーしてしまったのであった。同じビデオ屋のホラーコーナーには『柔らかい殻』とか『死の家』とかなんとなく『クリーン、シェーブン』と空気感が近い90年代の切な系異常心理ホラー? みたいなのが結構あったので、後追い世代ならではの感覚かもしれないが取り立てて珍しい内容の映画とは思えなかったのである。

ところでこれまた生意気にもだが俺は頭のイイ俺をアピールするために小五ぐらいの頃から統合失調症と美術だとか統合失調症の経過と治療だとかヨーロッパにおける精神病の解放療法だとかその手の本をよく読んでいた。読むといっても虚栄心が異常に高いだけのノーマル脳の小五だから内容なんかほぼほぼ頭に入ってはこないのだが、その時代はまだ統合失調症と分裂病の病名が併存していて、小学生なのにこんな難しい本を読んでいるぞさぁ俺を敬え話しかけろオーラを出す俺に「分裂病って人格が分かれちゃうやつでしょ?」とわざわざ話しかけてくれた心優しい同級生に対して「それは分裂病じゃなくて多重人格だね」などと何様目線で言える程度の統合失調症知識は身に付いていた。

厨二を待たずして既に限界突破の厨二っぷりを発揮していた振り返る度に背筋が凍りつく戦慄のクソガキエピソードだが、それはともかくとして統合失調症が分裂病と呼ばれていた時代にはその字面から解離性障害と混同する人もそれなりに多かったようで、これは小学生の誤解だが大人と話しても「(『24人のビリー・ミリガン』の)ダニエル・キイス?」みたいなことを言われたような記憶がある。よかったですね誤解を招く分裂病の病名廃止して。まとにかくそういうこともあってその後観た『クリーン、シェーブン』には「統合失調症の描写が表面的だなぁ」の感想を抱いたのでした。

それにしても小五のクソガキがなんで統合失調症の本など読んでいたのだろうというとこれは自分でもハッキリとはきっかけが思い出せないのだが、単純に近所の図書館で見つけてこれクラスで読んだらめっちゃ頭よさそうじゃんと思った可能性もかなり否定したいが否定しきれないところではあるが、アトラスの精神世界RPG『女神異聞録ペルソナ』を当時やっていたので(本当に嫌なガキである)、その影響で精神病に関心が向いたんじゃないかという説もそれなりに有力である。

その続編『ペルソナ2 罪』には電波系を自称し統合失調症サバイバーのペルソナを被って90年代悪趣味ブームを牽引した鬼畜ライター・村崎百郎をモデルにしたと思しき統合失調症のキャラクターが重要なポジションで登場するので電波的因果、俺は『ペルソナ2 罪』発売時は村崎のムの字も知らなかったが時は流れて2010年、村崎がかつての読者であった統合失調症の患者に刺殺された事件を目にしてこの人どこかで…とそこで初めて村崎が『ペルソナ2 罪』の統合失調症キャラ、須藤竜也のモデルである(っぽい)ことに気付き、思い返せば俺は村崎的なものの近傍をずっと歩いてきたのに村崎の存在には生きている間は気付くことができなかったんだなぁと、なんとも言えん気持ちになったものであった。

一応映画の感想だし『クリーン、シェーブン』に話を戻すと、今回のリバイバル上映で改めて観ても「統合失調症の描写が表面的だなぁ」の観は意外にも覆らなかったのだが、ビデオで観た時には感じなかった心地よさというか、ネガティブなリラックス効果を感じることができたのはとてもよかった。なんかイメージ映像集みたいな作りなんですよね。俺がこの映画の記憶としてよく覚えていたのは死体が出てくるところとか主人公が苦しむところとかじゃなくて延々続く符のない楽譜みたいな電線を車かなんかにカメラ乗せてずーっと撮っていくショットで、その安らかな空虚の印象が他の何よりも強かった。

そういう変なところが印象に残ったってことはなんかやっぱ心のどこかに引っかかったんでしょうね。引きこもり期の俺のメンタル回復映画はルチオ・フルチの『ビヨンド』とユルグ・ブットゲライトの『死の王』で、どちらも完璧にネガティブ要素しかない淡々と人が死んでいくだけの映画だが、その淡々ネガティブが将来どうなるかわからん状況にあった(これは今でも変わらないが)当時はいたく沁みた。ネガティブな状態だからこそネガティブな芸術に触れると安心する心理ってあるじゃないですか。あぁ苦しいの俺だけじゃないんだ、みたいな。そうやって自分を相対化することで自分の抱える精神的苦痛を多少なりとも自分から切り離して客観的に分析したり処理できるようになったりするっていう。

今回観て『クリーン、シェーブン』もそういう映画だなって思いましたよ。統合失調症の体感映画と呼ぶには(意図的に)表面的に過ぎて物足りないと思いますけど、でもこの壊れているようで高度に統制されたノイズと外へ外へと拡散していく断片的な編集をぼーっと観てるとぐちゃぐちゃの脳みそがクリーンになる感じあります。統合失調症の主人公を演じたピーター・グリーンのずっと緊張して怯えた演技もさ、しょうがないよね、そういう人もいるよね、っていうか人生突き詰めれば結局こんなもんじゃないですかみたいな、ある種の普遍性があるじゃないですか。ない? まぁ無いっていう人には幸せで結構なことですねとしか言えないわけですが…しかし人間いつ病気にかかって日常が崩壊するかなんてわからないんだから俺もこの主人公と本質的には同じなのかもなぁと想像する力ぐらいは培っておいた方が長い目で見れば自分のためなんじゃないかとか思ったりもするわけですが…。

ところで、この映画の統合失調症を患う主人公は悲劇的な最期を迎えるわけですが、俺が折に触れては思い出す統合失調症イイ話というのがあって、それは統合失調症を患っているっぽいがどうも診察とか治療は受けてないらしい人が書いてるブログなんですけど、なんかブログエントリーの日付を昔に遡ると最初の方は平穏だったのがある時点から集団ストーカーにいらやしい言葉とか悪口をずっと脳に吹き込まれてるとか書くようになって、それが段々悪化してそのうち外に出るのも監視されていると思い込んでいるからできなくなって、かなり日常生活が難しくなってくる。

で、大変だなーと思いながら読んでいると、なんかある時点からそれが逆転するんですよね。集団ストーカーの概念が最初は曖昧模糊だったのに病気の進行に応じてどんどん明確な形を成していって、まぁ具体的な宗教団体名とか政党名とかが出てきたり何交代制で電波送信業務してるとか送信部屋の様子はこんなでとか、その人の中で妄想が現実として固定されてきて、そしたら相手のパターンが読めてきたとか書くようになって。あいつらは毎日同じような台詞を言うことしかできない哀れで愚かで無力な暇人だから怯える必要なんかないし、家に閉じこもっていたらあいつらの思うツボだから外にも出て好きなことをして楽しんでやろうって、それで外に出たら(その人が言うには)監視員がいつものように立ってたけど監視するだけで自分に危害は加えなかったからってその人なんか自信つけちゃって、そしたら(その人が言うには)相手が恐れをなして脳に送信する声のトーンと頻度を下げたらしい。

映画じゃないのでそれでこの人の人生は終わりではないし、その後またぶり返したりもまぁしてるんでしょうけど、俺はこのブログに感銘を受けて生きることの本質あるなーとか思ったんですよね。別に自然治癒できるじゃんとか言いたいわけじゃないし思ってないし、むしろメンタルクリニックは少しでも精神の不調を感じたらガンガン行った方がいいし本人自覚なくても周りの人間は行かせた方がいいと思ってますけど、精神疾患の多くは病院に行ったらそれで終わりってもんでもないのだし、病院というのは単に毎日を楽しく生きるために使える道具の一つというだけで、結局は自分がどう生きるかの問題と精神疾患の患者は向き合わざるを得ないわけじゃないですか。

でもそれは健常者が目をそらして避けがちっていうだけで本当はどんな人間にも等しくつきまとう終生の課題ですよね。なんかね、だから病気になるとかならないとか、病気の症状がどうとか、具体的な治療に際してはそれは大事なことですけど、でも「統合失調症を生きること」の本質はそこじゃないよなってこのブログを読んで思ったし、それは『クリーン、シェーブン』も同じなんじゃないですかねと超強引に『クリーン、シェーブン』に話を戻したところで! えー、散漫な思い出語りを終えますので、まだ観てない人は生きづらそうな人がたくさん出てきて不安と不満の渦巻く『クリーン、シェーブン』を観て自分の人生について考えましょう。『クリーン、シェーブン』、人生の映画です。いやこれはガチで。

【ママー!これ買ってー!】


D.o.A.(最終報告書)[解説 / 高音質UHQCD / 紙ジャケット仕様 / 2CD / 国内盤] (TRCP251/252)

『クリーン、シェーブン』の着想源じゃないかと密かに思っているのが元祖インダストリアル的なスロッビング・グリッスルの2nd『D.o.A.』で、歌詞カードを開くとわりと際どいアートワークは少女のモチーフに、浮遊感のあるアンビエントにサンプリングした子供たちの話し声を乗せて急に増幅したりするからびっくりする収録曲「Hometime」は音作り全般に影響を与えている気配がある(これは曲調も劇中のスコアとちょっと似ている)。『クリーン、シェーブン』は1993年の映画だが90年代に映画とか音楽の分野でノイズ表現をやろうとする英語圏のアーティストがスロッビング・グリッスルを知らないとは思えないし、制作プロダクション名がDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)から引かれたと思しきDSM-Ⅲ films(この映画しか作ってない)というのも1stで素っ気ない工業サンプル風のジャケットに「The Second Annual Report(第二期活動報告書)」のタイトルを刻んだスロッビング・グリッスルっぽいセンスだと思うのだが

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