カッコつけてるだけの空虚映画『ストレンジ・ダーリン』感想文

《推定睡眠時間:0分》

映画の最初に「この映画は35ミリフィルムで撮影されました」という大きなテロップが出てギャスパー・ノエがこういう演出をよくやるからノエ風の遊びなのかもしれないがこの「35ミリフィルムで撮影されました」宣言はその後まったく物語上の意味がなく本当に単なる「この映画は35ミリフィルムで撮影されました」というそれを示すためだけのテロップだったことがわかりバカじゃないかと思ってしまった。このテロップの後に今度は『悪魔のいけにえ』風の「この事件は〇〇で起きた惨殺事件を云々」という説明スクロールが入るのだがこれも映画を最後まで観た結果まったく意味の無い演出だったので更にバカじゃないかと思ってしまう。印象はかなり最悪である。面白い面白くない以前に、こういうカッコをつけるためだけの意味の無いテロップ遊びをやる映画監督には映画監督教習所で映画監督安全ビデオを18時間ぐらい観させ続けるべきだと思います。意味の無いテロップ遊びによって命を落とした子どもの遺族などの姿を見ればもう二度とつまらないテロップ遊びなどやろうとは思わないだろう。

だがこの監督の場合は18時間の映画監督安全ビデオ講習だけでは済まないかもしれない。どうでもいいテロップ遊びが終わると画面に出るのは「第三章」のテロップ(またテロップかよ!)、画面に映し出されるのは森の中を逃げ惑う女とショットガンなどを手に女を追う血まみれの男である。第三章から始まる物語ということはこの映画は時系列に沿っては進まないのである。先の章に進んだり前の章に戻ったりと行ったり来たり。今度は『パルプ・フィクション』の影響を感じさせる安直さだが、このような編集を採用している以上、それはその編集によってたとえばギャスパー・ノエの『アレックス』のように、ある物語を違う視点で見せることでの驚きの効果を狙っていることは明白だ。言うならばこの映画は映画がはじまった時点で「はいこれからどんでん返しをやりますよ~」と大々的に表明しているのである。

再三になってしまって申し訳ないがバカなんじゃないだろうか。どんでん返しを配給宣伝が売りにするならわかるが映画監督自らその作品に「はいこれからどんでん返しをやりますよ~」の説明を入れるなんて! 世には『エイプリル・フール 鮮血の記念日』『シックス・センス』『ファイト・クラブ』など(なぜかナカグロ率が高い)どんでん返しものの映画が多々あるが、映画が始まった時点でどんでん返しがあることを観客に教えるどんでん返し映画なんてものはほとんどないのではないだろうか。だって最初からどんでん返しがあるとわかってたらどんでん返しにならないからな。そんなことは当たり前なのだがこの監督はその当たり前のこともわかっていないらしいのでやはり映画監督教習所で映画監督安全ビデオを18時間ぐらい観るべきだろう。その後で舘ひろしが教習所に通ってひぃひぃ言う『免許がない!』も観るべきだ。

ちなみにそのどんでん返しの内容だがまぁそうでしょうねというまるで捻りのない人によっては最初のシーンを観ただけでもう分かるだろうという程度のもの。どんでん返しのしょうもなさで言えば『エイプリル・フール 鮮血の記念日』もかなりしょうもないのでそれはいいと言えばいいが、じゃあそれ以外のところが面白いかと言えば、これが面白くないのだから、そっちの方は大いに問題だ。どんでん返しの前振りのためだけの室内会話シーンが映画の4割、残りの時間は外に出てくれるが森の中とか森の中の家とかで多少ブラックユーモアありの追いかけっこをしているだけだ。その過程でまったく意味も無く主人公がタバコを吸い紫煙が太陽光を浴びて美しく画面を染めるのでムカつく。意味とか哲学があるタバコの紫煙ならいいがこの場合は単にキレイな絵だから一個ぐらい撮ってみたかった以上のものは何も感じられない。

こういうカッコつけてるだけでなんら芸の無い気取り腐った素人の映画を観るとコラリー・ファルジャの『REVENGE/リベンジ』などやはり只事ではない映画であったことを再確認させられる。ファルジャの名前を急に出したのは『REVENGE/リベンジ』だって男と女がどっかの僻地で殺し合うだけの低予算映画という意味で『ストレンジ・ダーリン』と同じだからだが、ファルジャとこの映画の監督が決定的に違うのは、ファルジャは小手先の編集遊びとかテロップ遊びなんかには頼らないというのもあるが、何を撮るべきか、何をどう撮るべきか、という強いビジョンと、それを支える知性や美意識や哲学が、ハッキリとある点である。それどれか一つでも『ストレンジ・ダーリン』にあっただろうかと言えば何一つなかったように思う。ただ場当たり的に思いつきの面白いショット(※面白くない)を入れているだけで、統一感のないその無味乾燥な映像の繋がりからは、感じ取れるものが何もない。

もしかするとその映画監督としての空虚さは本人も気付いているのかもしれない。だから時系列を乱した編集で空虚さを誤魔化している…なんていうのはたぶん穿ちすぎだろうし、仮にそうだとしても哀れな監督ですな程度の感想しかない。この映画の予算がいくらかは知らないが、たとえ予算が300円だとしても、これだけは撮りたいんだというショットやシーンを撮る映画監督はいる。おそらく予算300円ではないと思われる(断言はできない)もっともっとお金のかかったこの映画にそんなショットやシーンが一個も見当たらないというのはなんとも情けないことじゃないだろうか。

例として森の中で男女が殺人追いかけっこしてるだけみたいな低予算映画をもう一作挙げたいのだが、北欧サスペンス『追撃車』のアメリカ版リメイクでジャン・ハイアムズ監督の『ストーカー 3日目の逆襲』という映画がある。これは全編ものすごい緊張感のサスペンス映画だが、『ストレンジ・ダーリン』のように奇を衒ったりカッコつけたりしてるところは全くない。そればかりか劇判すらほとんどない禁欲っぷりなのだが、しかし退屈どころではなくその画面からは少しも目を離すことができない。それは『ストレンジ・ダーリン』と違って何をどう撮るべきかという一貫した強いビジョンが『ストーカー 3日目の逆襲』にはあるからじゃないだろうか。

つまんないヤツが外見だけカッコつけても魅力的になることがないのは人間も映画も同じである。つまらないくせに意味もなくお金のかかる35ミリフィルムなんか使ってやがるこの映画の監督は、やはり映画監督教習所で映画監督安全ビデオを18時間ぐらい観続けるべきだろう…! あと『免許がない!』も…!

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