《推定睡眠時間:70分》
この映画を観るために無理に早起きをして悪コンディションのまま臨んだらほぼ睡眠という本末転倒の結果にかつての新左翼過激派もこんな気分だったのかな…と思いを巡らせるわけがないしこんな気分ではないだろたぶん。『桐島です』。1970年代前半に連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線のさそり部隊(部隊といっても三人しかいない)メンバーとして半世紀にわたり指名手配されていた、いつも手配書で笑ってるメガネ長髪のあの人こと桐島聡の映画である。
桐島についてはいつだかツイッターで見かけた誰かの「あの人はずっと昭和で笑ってる」という一文が忘れられない。けだし名文、指名手配犯なのに桐島のあの笑顔は物騒なものとか不安なものとかではない、なにか不思議な感覚を生じさせたものだ。その最後もまた不思議、末期がんで死去の直前に自ら病院で「私は桐島聡です」と名乗り上げ、駆けつけた捜査員との意思疎通も困難なまま死んだという。はたして桐島聡とはどんな人間だったのだろう。半世紀にも及んだ逃走生活の中で何を思っていたんだろう。そして最後に名乗り出ようと思ったのは何故なのだろう?
知りたいことはたくさんあるが、実はこの映画、これに先立つ桐島映画『逃走』とストーリーの大筋、および桐島像はほとんど変わらない。『逃走』は元日本赤軍の足立正生が別目的の別組織とはいえ同時代の過激派として活動した桐島を描いたという点で歴史的価値のある映画だが、足立正生の作風というか性格というか、桐島を通して自分の言いたいことを言っている観が強かった。だから高橋伴明の『桐島です』を観れば『逃走』では見られなかった桐島が見えてくるかと思いきやそうでもない。たしかに『逃走』ほど作り手の主観が出ているわけではないのだが、かといって客観的で手広い取材のなされた伝記映画という感じでもないんである。
異なる作り手の映画で人物像がだいたい同じということはおそらく実際の桐島もこんな人だったんだろう。過激派といっても日本赤軍のように「われわれは明日のジョーである」などとハイジャック声明を出してみたりするようなイケイケな人ではなく、桐島は大人しく真面目だった。1960年代後半の学生運動ではセクトの先輩が現状に何らかの不満を抱えた新入生をオルグしてきて君の悩みは資本主義のせいだから社会主義革命を起こせば解決だなどと教え込んだというが、『逃走』でも『桐島です』でも桐島の活動家以前の姿は描かれないので詳細は不明も、東アジア反日武装戦線さそり部隊の宇賀神寿一(桐島をオルグした人)の証言を読む限り、桐島もまたそんな一人だったらしい。
そのため『逃走』にはこんな場面がある。連続企業爆破のために爆弾を作っている桐島が同じ部屋にいる宇賀神に対し、不安げに「やっぱり、(マルクスの)資本論とか読んだ方がいいですかね…?」と訊ねると、宇賀神は「いや、それよりも、実践の中で学んでいける」と返す。桐島には強い思想があったわけではなく、ただ正義感や人の良さはあったから、半ば流されるような形で爆弾闘争に参与していったようなのだ。これには多数の死傷者を出した三菱重工爆破事件が東アジア反日武装戦線・狼部隊の起こしたものであり、さそり部隊の桐島は関わっていないことも影響しているように思える。自分たちの仲間が大変な事件を起こしたらしいが…とは知っていても、桐島自身にそのリアリティはあまり感じられなかったんじゃないだろうか。
桐島が逃走を続けられたのも、逃走するしかなかったのも、だからなのかもしれない。桐島は自分から積極的に発言したり事を起こすタイプではなかった。なにせ70分も寝ているのでまったく自信はないが、おそらくその面は『逃走』に比べて『桐島です』が強調したところだろう。どこにでもいるような平凡な良い人だった桐島。最後に自ら名乗り出たのは、もしかすると人生の最後ぐらいは自分の意志で自分から何かを成してみたいと考えたためかもしれないなぁなどとぼんやり思う。
さておき、映画としてどちらが面白かったかといえば、なんか『逃走』の方が前衛的な演出とかが多くて面白かった。『逃走』はかなりの低予算映画だったのでこの『桐島です』はもっとお金のかかった伝記映画だろうと思ったら少なくとも見た目ではこちらもそんなに予算はない映画のようだったので、ストーリーも大差ないし、同じ低予算映画なら突飛なシーンで安さを誤魔化してくれてる方が楽しい感じだ。桐島役に関してはこちら『桐島です』の毎熊克哉の方が雰囲気出ててよかったんじゃないかとおもう。
まぁでもあんま比べるようなもんでもないのか。『逃走』の方は上映館が少なく興味があっても観られなかった人も多いかもしれないので、桐島に興味があれば『桐島です』は観た方がよい映画です。