こんな映画の中には入りたくない映画『テレビの中に入りたい』感想文

《推定睡眠時間:50分》

例によってポスターをチラ見する以外に何の情報も入れずに観に行ったので観る前は①テレビが出てきて②サイケデリック風③ホラー? の部分推測を総合し『ペルソナ4』かはたまたファンタジック・テレビ・ホラー・コメディの『テラービジョン』みたいな映画かなぁと何の根拠もないのにちょっと期待してしまったのだがジャンル的にはテレビでもホラーでもコメディでもなく自己憐憫だったのであーそうだよなーA24だもんなーとスクリーンをぼんやり眺めながらとりあえず眠ることにしてさっさと映画が終わってくれるのを待った。

自己憐憫ジャンル…これは俺がひじょうに苦手とする映画ジャンルである。端的に何も面白くないしムカつく。論理的に考えれば自己憐憫とは自己中心主義の一部分である。人が何かを憐れむには必ず比較対象が必要なわけで、道端で飢えて死にかけてるストリートチルドレンを見て憐れが生じるとすれば、そのときに人は飢えていない子どもとこの飢えている子どもを無意識的に対比させている。したがって自己憐憫を行うときにも人は自分を何かと対比させているわけだが、この映画の中学生とかの主人公はアメリカに住む中流の下ぐらいの家庭、とりたてて幸せではないかもしれないが、かといって人生に絶望するほど不幸でもない。成長した後には冴えないが安定した仕事があって誰かと結婚して(ということは、それだけ自分を愛してくれている人がいるということだ)生活にはそう困ってない。

この映画の監督はこんな主人公を徹底的に憐れんでやるのだが、アルジャジーラの報道を見るにたとえばガザでは毎日40~90人ほどの人々が空爆や飢餓によって死んでいるわけで、そうした絶対的不幸と対比するならば、一応の先進国アメリカでそれなりに豊かな生活を送る主人公を憐れむことなどできないだろう。ここからわかるのは自己憐憫は自分よりも不幸な、自分よりももっと助けを必要としている人を視界に入れないことによって生じるものだということと、この映画ではそのために意図的にそうした他者の住まう世界を排除しているということである。だから身勝手でムカつく。中学で疎外感に悩んでいるらしい主人公は子供向けホラー深夜番組好きな女子生徒とだけ仲良くなるのだが、彼女以外の人物は全員が単なる動く書き割りでしかなく、生きた存在としては捉えられていない(だから、主人公にはテレビの中の世界の方がリアルに見えるのだ)

疎外感に悩む子どもには世界がそんな風に見えるというのは理解するが、この映画では主人公が大人になってもそれが続く。職場の誕生日パーティに呼ばれた主人公が助けてくれー死ぬーと叫ぶと同僚たちが全員停止してしまうのはその直接的な表現だ。ついでにこいつはトイレに閉じこもった自分を心配して「大丈夫かい…?」と優しく声を掛けてくれた同僚には目もくれず、この親切な同僚には名前さえ与えられていない。呆れてしまう。疎外感に苦しむ子どもが大人になってもついぞ世界を発見できなかったのだとすれば、それは主人公の存在さえも自己憐憫を表現するための道具として書き割り的に利用していることになるんじゃないだろうか。あえてすべての人間がとは言わないが、世の中の99.999%ぐらいの人間は人生のどこかの段階で必ず世界と接触するし、そのことで自分の世界が揺らぐと同時に、自分の外に比較対象ができることで、子どもの頃のような自己憐憫が維持できなくなる。反省するんである。最近の映画なら『アイ・ライク・ムービーズ』なんかがそうじゃなかっただろうか。

いや、よしんばそうした作り手の過剰なナルシシズムに辟易させられるとしても、グザヴィエ・ドランの映画のように映画的な面白味があればいいよ別に。でもそれだってこの映画はないじゃないか。『ソング・トゥ・ソング』とか最近の落ちぶれたテレンス・マリック映画みたいな完全に無意味な手持ちカメラの長回し撮影には何の美学も工夫も独創性もない。蛍光色の照明は特徴といえば特徴だが多種多様な映像が至る所に溢れ蛍光色を武器とするニコラス・ウィンディング・レフンのような監督も現役でいる中で目新しさを感じるのは難しいだろう。中盤に10分ぐらい続く空疎なポエトリー・リーディングが入ってくるがなんなんすかあれは。ストーリーはほとんど無いので論外。中学時代にあの娘と一緒に観た深夜テレビは輝いて見えたなぁとかその程度だ。そもそもちゃんとした娯楽映画を作ろうとしてはいないのだと思うが、かといってアート映画と言えるほど作家の個性や創意があるわけでもない。じゃあこれはなんなんだろう。面白くもなければ美しくもない、感動させられることもなければ考えさせられることもない。観客に自己憐憫に浸ってもらうための共感ボックス(byフィリップ・K・ディック)なのだろうか?

中学時代引きこもっていたぐらいだし自己憐憫の甘さなら俺も知ってるけれど、それが毒であることもまた知ってる。最初は世界から自分を守るためのものだった自己憐憫はいつか必ず自己憐憫のための自己憐憫に変質してしまって、自分を憐れみ続けるために世界を拒絶し、そのことで自ら外の世界に案外あったりする救いに背を向けてしまうんである。その意味で自己憐憫は緩慢な自殺といえるかもしれない。そんなものを殊更に振りかざし、あまつさえ美化するかのように表現したところで、不毛なだけだと思うのだが。少なくともそれは、疎外感に苦しむ人の救いにはならないだろう。他人のことなどどうでもいいのかもしれないが。

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