怪物の想像力を失った現代の雪女映画『氷血』感想文

《推定睡眠時間:0分》

ポスターが怖い! 目の黒く塗りつぶされた白い女の人が目から黒い涙を流しているイラストなのだがこれはあれだろう日本のネットスラングで言うところの「検索してはいけない言葉」みたいなもので、実に寝るときに電気を消すのが怖くなる顔である! ところが。実際に映画を観たら怖くないってかそもそも思ってたのとだいぶ違って俺はこの怖い顔の女幽霊が襲ってくる映画かと思ったのだがジャンル的には幽霊系ではなくヒトコワ系。このポスターとチラシになっている絵の人は雪女なのだが、認知症の父親の介護のために雪深い村に転居してきた若い夫妻の日常が徐々に崩壊していくというストーリーで、雪女は映画の最後の方に「女たちの恨みつらみ」のメタファーとして登場するに過ぎないのであった。

それでもこれは『ミスミソウ』で知られる(マニアには『牛乳王子』で知られる)内藤瑛亮監督のホラーとしては『ミスミソウ』以来の快作、この人はホラーばかり作る人なのでとくに意識しなくても俺はホラー映画ならとりあえず観に行く派ということで結果として監督作や脚本作の大半を観てしまっているのだが、近年『ホムンクルス』だの『毒娘』だのとイマイチな作が続いて迷走していた観があった(本人的には仕事が途切れず順風満帆なのでしょうが)

その理由の一つだろうと俺が思っているのがミソジニーの扱いで、この監督は映画美学校の卒業制作として撮られて話題を呼んだ『牛乳王子』が女子生徒のイジメに遭って自殺した男子生徒が地獄から蘇り自分をいじめた女子生徒たちを口から吐いた牛乳をぶっかけながら殺していくという内容、どこがどうとか言わずともここに女の人への恐怖と嫌悪と性欲が入り混じったなかなかアレな感じの志向を見ることは容易だろう。以降も女子生徒グループが妊娠した女性教師を堕胎させようとする『先生を流産させる会』とか雪国の学校での女子生徒同士の陰湿なイジメが殺し合いへと発展していく『ミスミソウ』など、内藤瑛亮という監督は「女こわい!」の映画ばかり撮っていたのである。

しかし近年、ホラー界もフェミニズムブーム。こうなるとこの監督のようなホラー表象を持つ人としてはかなりやりにくいと想像でき(あくまでも想像なので実際は違うかもしれません)、監督・脚本の『毒娘』は家庭内で父親に抑圧されている少女がダークヒーロー的な少女の助力を得てムカつく父親に反旗を翻す話、城定秀夫が監督を務めた脚本作『嗤う蟲』は田舎の閉鎖的な人間関係の中で抑圧された田舎移住者夫妻の妻が村を廃村へと追い込むまでの話と、従来の「女こわい!」ではないというか、むしろ逆に「女かわいそう!」みたいなホラーを模索していたのであった。

そのような模索を経て公開されたお笑い芸人のゆりやんレトリィバァ初監督作の脚本作『禍々女』は内藤瑛亮が自分の持ち味を殺さずに今という時代と折り合いを付けた作品のように見えた。この映画には怖い女幽霊が出てくるし女同士の諍いも出てくるのだが、その原因となっているのはあくまでも男どもの欲望なり抑圧なりであり、「女こわい!」を維持しつつ「こわい女」を産み出す男どもを批判することでうまいことミソジニー色を薄めることに成功したのであった。

『氷血』もまたその路線の作品なわけで、雪女という「こわい女」を暗喩的に描きながらそれを産み出す土壌としての村落共同体や夫婦関係にスポットを当て、オバケがバァンと出るのではなく主人公の女の人が徐々に精神的に追い詰められていくその過程の怖さを見せていくのだが、『嗤う蟲』のように露骨に田舎蔑視を出すわけでもなく、『毒娘』のようにマンガ的な単なる悪役としての夫ではなく多少は実在感のある夫を恐怖の対象として描き出していたので、この監督の近作に比べて完成度が高く感じられたし、雪に埋もれたバラバラ死体などゾッとするシーンもしっかりあった。というわけで『ミスミソウ』以来の快作、なのである。

と褒めたはいいが完成度の高さと好き嫌いは別の話。いや、その完成度の高さというのもあくまでもこの監督の他の作品と比べてという相対的な話で、終盤は急に『ミザリー』が始まったり夫が『シャイニング』風に発狂したり主人公の人物像の掘り下げが浅く単なる記号的な被害者役でしかなかったりとか、人間観察眼の浅さが目立つ一方で上の二作に加えてシネフィル大好きエドワード・ヤン部屋(『恐怖分子』のでかい分割写真のアレ)がとくに物語上の必然性なく唐突に出てきたりと、なんというか「現実の人間を見ずに映画だけを観て映画を作っている人」の印象が強く興ざめしてしまったので、完成度の高いホラーというとまたちょっと違うのだが、まぁそれはともかくとして、好き嫌いで言うとこの映画は、というよりもこの監督が好きではないのかもしれない。

なぜならこの人のそう長くはないフィルモグラフィーを俯瞰して見ると最初は「女こわい」から始まって次は「いじめっ子こわい」とか「田舎こわい」へと移ってそれから今は「夫こわい(+田舎こわい)」へと恐怖の対象を次々と変えているわけで、とにかく初期から一貫してヒトコワの人なのだが、その「こわい人」を世間の風を読みながら変えていく(※本人はそのつもりではないのかもしれないが俺にはそう見えてしまう)というのはなんか、すごい個人的な感覚なんですけどツイッターとか週刊誌の人みたいで嫌。

ヒトコワの映画というのは特定の人に対して恐怖と共に嫌悪や憎悪を観客に抱かせるわけである。だからそのヒトコワの対象を今の世の中だったらこういうのがウケるだろうなみたいな感じで変えていくことはツイッターや週刊誌的なヘイトマーケティングに見えてしまうし、近作ではそうでもないが『先生を流産させる会』とか『許された子どもたち』みたいな映画はかなりエグめの展開や描写を含む(らしいので俺は観てないんですが)からこの人の映画は露悪的なところがあり、その意味でもツイッター的だし週刊誌的なんである。そして俺はツイッターとか週刊誌的なものは世の中に必要だとはぜんぜん考えていない。そういうの見たくない。

『氷血』を観ながら思ったのは映画における怪物の必要性であった。ノエル・キャロルという美学者は「怪物」が出るもの(または、人間であっても怪物性を感じさせるもの)をホラーとしていて、これにはそれなりの批判もあるのだが、ホラーにおける怪物の存在意義を考えてみるに、それは人々の恐怖心を引き受けるというその点に尽きるのではないだろうかと思ったりする。キャロルが提示する怪物とはその不浄性によって日常の世界から追い出される存在であり、その正常と不浄の区別に差別が働いていることは言うまでもない。したがってこれが人間に投影されるならばそこには恐怖と同時に特定の属性の人間に対する差別も生じることになるわけで、それは少なからず社会に不協和をもたらすかもしれない。

そんな時に怪物という非現実の存在はとても便利である。結局のところメタファーとして解釈されえない純粋な怪物というのはおそらく人間が描く以上は存在できないのだから、どんな怪物であれ分析しようと思えばいくらでもそこからは差別であるとか社会への悪影響(たとえば、肌の黒い怪物を恐怖の対象として扱うのは人種差別で良くない、みたいな)は抽出できるとはいえ、人間が現実の存在であるのに対して怪物があくまでも非現実の世界に棲まうというのは決定的な違いである。怪物を恐怖や嫌悪の対象として描くことの社会的な影響は特定の属性を持つ人間(たとえば田舎の人や夫、女の人など)を恐怖の対象として描くことのそれと比べて間違いなく小さいだろう。要は、怪物にとっては可哀相は話だと思うが、怪物ならいくらでも怖く醜悪に描くことができるのである(しかも退治することもできる)

こうしてみると怪物というのは人間社会を円滑に運営するための一つの知恵のような気がしてくる。たぶん誰もが心にヒトコワを持っているが、けれどもそれを直接表に出してしまうと社会がギスギスしてくるので、ヒトコワを怪物という非現実の存在に託して「怪物こわい」をやってきたのが人類なんじゃないだろうか。『氷血』はわりと面白いホラーなのだが、その露悪的なまでのヒトコワには、怪物の創造という知恵であるとか豊かな想像力であるとかを失った現代人のある種の貧しさを感じてしまって、観ているとなんだかこちらまで心が貧しくなったような気がしてくるんである。

※あとこれ俺の嫌いな「警察の存在しない世界の話」なのでそこも合わないところでしたし、警察どころか病院も存在していなかったので、それはいくらなんでもご都合主義だろうよ、現実世界のヒトコワを描くんじゃなくてヒトコワを描くために現実世界の方をねじ曲げるとかどうなのよ、とかもおもいました。

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