《推定睡眠時間:15分》
死んだはずの妻が掃除機になって還ってきた……というバカ映画じみた奇天烈設定を予告編で見て頭に思い浮かべたのは『シチズン・ドッグ』、これを観たのはもう20年も前になるだろうか、かつてあった映画館シネマート六本木で「タイ式☆シネマパラダイス」みたいな名前の特集上映がやってて、『シチズン・ドッグ』はその1本、日本ではおそらくその時にシネマート六本木で上映されただけなのだが、俺にとっては宝物のような映画だった。
この映画のあらすじを説明するのはなかなか難しい。一言でいえば現代のタイを舞台にしたオフビートなおとぎ話だろうか。缶詰工場で働く無気力な青年が作業中の事故で指を失ってしまったのでその指を探してスーパーマーケットでいろんな缶詰を買ううちに幽霊バイカーだのペットボトルで山を作る人だのと出会って交流を重ね死んだ祖母がカマキリか何かに転生してラップをひねればヘルメットの雨が降る……とか書いてもまるで意味がわからないが、まぁそういう不思議な映画で、公開当時の宣伝文句は「タイ版『アメリ』」。ポップな色彩やオフビートでシュールな笑いはたしかに『アメリ』と通じるところがあるけれども、なんじゃこりゃあ度は『アメリ』の比ではない。それでいて最後はなんか感動させられるのだからすごい映画である。「大切なものは探すことを諦めた時に見つかる」というのはこの映画の仏教的なメッセージであるが、今にして思えば結構影響受けてるなぁと思う。
げに素晴らしき『シチズン・ドッグ』は特集上映の1本ということもあり公開時にはまったく話題になっていなかったと思うが、その記憶を蘇らせたこちら『ユースフル・ゴースト』は上映館が少ない上に上映回数も少ないので先週あたりに観に行こうとしたら予想外の満席を食らって観れず、時代は変わったものだなぁとしみじみしてしまう。あれから20年似た映画をほとんど観たことがないので面白さは風化せず据え置きと思われる『シチズン・ドッグ』は今の時代にリバイバル上映でもされれば少なくとも当時よりは多くの人に受け入れられそうな気がするが……と、まぁ、『シチズン・ドッグ』の話はそれぐらいにしておいて、『ユースフル・ゴースト』である。
こちら『ユースフル・ゴースト』も起承転結のはっきりした通りのいいお話ではなくなかなかあらすじを説明するのが難しい。予告編にあるように死んだ妻が掃除機になって戻ってきた(なんで?)というお話では一応あるが、これは枠物語となっていて、掃除機を買ったゲイが深夜に掃除機が咳き込むのを聞いて修理を呼んだら修理担当を名乗る妙な男がやってきた、そいつは掃除機の修理もせずにある工場で起きた労働者の死亡事故を話し出し、なんでもその事故後に工場では死んだ労働者が工場で生産している掃除機や工作機械に取り憑いて悪さをするようになったそうなのだが、それとは関係なくこの工場のオーナーの息子の妻が死亡してしまい、その妻が成仏できずに掃除機に取り憑いてオーナーの息子のもとにやってきたのだ、という話をしているうちにまたまったく別の2010年タイ反政府デモの記憶に繋がっていく……なんとも捉えようのない物語である。工場での事故からお話が始まるし、この捉えどころのなさからして、もしかしたら『シチズン・ドッグ』の影響下にある映画なのかもしれない。
いやぁ、良かったナァ。何がイイってこの映画にはいろんな幽霊が出てくるんですがその想像力だよね。なんか最近ヒトコワ系のホラーって変に流行ったりしてるじゃないですか。でも人間が怖いなんて当たり前なんだからヒトコワ映画なんて想像力の欠如でしかないと思うんです。人間は怖い、そんなことわかりきってるから昔の人はオバケとか妖怪とかいろいろ創造して誤魔化したわけですよねたぶん。だって悪いことは妖怪のせいにすれば人間関係に角が立たないし、悪いことをしたらオバケに祟られるぞと思ったら悪いことしないどこって自制するもんね。それが実際にどの程度機能していたかはぶっちゃけ甚だ怪しいとしても、ともあれこうした現実世界の恐怖を空想の世界に逃がす想像力が失われてしまえば、後に残るのはただただ薄汚れた現実世界だけだ。
掃除機とかいう身もフタもなく薄汚れた現実世界に属するものが夫のもとに幽霊として還ってきて、しかもそれをあまりにもあっさりと周囲の人々が受け入れてしまう(ここがシュールで笑ってしまう)『ユースフル・ゴースト』には様々な要素やメッセージが重層的に織り込まれているが、その一つはヒトコワ的な即物性への反発ではないだろうか。目の前にある現実に抗して、目の前にある現実ではない世界を構想すること。それは映画の終盤で2010年の反政府デモがほとんど唐突に題材として前面にせり出す背景である。反政府デモとは目の前にある現実ではない世界を構想することだからだ。
夢を見ているときのようにコロコロとジャンルや関心や展開を変えていくのが楽しいこの映画だが中盤からは幽霊の存続と存在意義にテーマが収束していく。幽霊は生者に忘れられたときに消滅する。すなわち幽霊とは記憶のことである、ということで掃除機の妻は夫に忘れられないためにある行動に出て、それとはまた別の非業の死を遂げた幽霊も記憶によって下手人たちに復讐を遂げる。この復讐のシーンはコミカルなのに凄惨でなかなか異様なのだが、その直後、映画は8ミリフィルムのようなエフェクトのかかった断片的な回想シーンに入り、かと思えば突然フィルムが切れるかまたはリールが終わって、そのまま映写機の立てるノイズだけがブツブツと響く無音のエンドロールに突入する。
可哀相な幽霊が悪いヤツに復讐を遂げたならもう少しスッキリした感じに終わっても良さそうな気がするが、そうはなっていないところがこの映画の勘所なんではないだろうか。掃除機の夫の顛末はそれを示唆しているように思われるが、過去の記憶にいつまでも縋り続けるというのはあまり健康的な態度ではないわけで、人間は過去を適度に忘れないと生きることができない。かといって過去を片っ端から忘れてしまうのも無責任で、その場合には過去の罪もまた消却されることになるだろう(非業の幽霊は罪の忘却を告発するものであった)
フィルムがブツッと途絶えるエンディングの演出はリール=記憶が終わったことの表現とも解釈できるが、今を生きるために過去の記憶を忘れようとする意思と過去の犠牲のためにその記憶を忘れまいとする意思の間で、現代タイ社会に生きる人々が引き裂かれてしまったことを暗示する、フィルムの切断の表現なのかもしれないと思えば、掃除機に幽霊が憑くという想像力も逆に掃除機のような現実的な形でしか幽霊を想像できない現代人の想像力の挫折でもあるのかもしれず、そのどちらにも落着しない不安定な揺らぎが、この映画をなんともユニークで忘れがたいものにしている、のかもしれない(投げっぱなしとも言えるが)
※社会の犠牲となった人々が罪の告発のために幽霊として還って来る映画というと近年ではカーペンターの『ザ・フォッグ』を下敷きにした(!)マティ・ディオップの『アトランティックス』も面白い映画だったので書いておく。