《推定睡眠時間:60分》
久々に完全に意味の分からない映画を観たと思ったので映画サイトを見たら殺し屋のお仕事現場を目撃した男女が逃げる話みたいなことが書いてあって「そういう話だったの!?」と衝撃を受けてしまった。たしかにすごく最初の方に殺し屋が車の中にいる誰かを撃ち殺す場面はあった。しかしその後は基本的に意味の通った台詞もなく目まぐるしく場面が変わる映像詩、たとえて言うならイメージフォーラム・フェスティバルで上映されるやつだったので、まさかそんなシンプルなストーリーが存在するとは思わなかったのだ。
本当に意味がわからないただ90年代(※1997年制作)基準でカッコイイだけの映像の断片、そうすね日本だと岩井俊二とかのあの感じだよね、が実に眠くなるモノローグと音楽が添えられ流れていく映画だったのでもはや感想も何もないのだが、この映画に関するどこかのインタビュー記事の見出しに「今ならできない危険な撮影も……」みたいなことが書いてあったので、それはどこかなと頭の片隅に置いて観ていたところ、おそらく構想マンションの屋上のへりを主人公が歩く場面であろうとわかる。
同じような場面は相米慎二の『夏の庭』にも出てきてそちらは子役がやっているのでより鬼畜度が高いが、そらそんな撮影今ではできないだろう、死ぬじゃん落ちたら、と身も蓋もない。なぜか知らんが90年代はこういう一歩間違えば役者が死ぬシーンを映像作家と呼ばれる人たちが比較的撮りがちだったような気がする。この映画の監督は元々CM監督だったらしいが、もしかすると異業種監督が映画に参入した時に起こりやすい現象なのだろうか。
助監督を経て監督になったような映画職人にとって映画は何より作られ続ける必要のあるものであるから、万一事故が起こった際に映画の生産がストップしかねない危険なシーンは可能な限り避けるだろう(当たり前だが)。けれども異業種から参入した監督にとっては撮る映画1本1本が最後の監督作品になるかもしれず、映画を量産できる保証はない。とすればその1本1本を悔いなく妥協無く、頭の中にある映画で撮りたいシーンはそこに全部詰め込んでしまいたくなるのも、そのために役者が死ぬ可能性がある撮影も許容してしまうのも、なるほどわからない話ではないかもしれない。『嫌われ松子の一生』の際に取り沙汰された中島哲也のパワハラ疑惑というのもそのようにして生じたものと理解することができるかもしれない。
と、もはやそんな話しかできないぐらいには映像詩である。映像詩なので意味はわからないしストーリーがあるとさえ思わなかった。感想を、と言われても90年代っぽいカッコイイ映像だった! ぐらいしか言えずバカ丸出しである。こんな典型的な実験映画が本国初公開から30年弱の時を経て映画祭とかではなく日本の一般的な劇場で公開されるというのはなんだかスゴイことかもしれない。これは台湾の映画だが、たしかに台湾映画ファンは一定数存在して、近年ではエドワード・ヤンのリバイバル上映にもたくさんのお客さんが入ってるらしいとはいっても、大抵の台湾映画ファンが台湾映画に求めるものからこの映画は著しく逸脱しているだろう。
映画は何が起こったのかもよくわからないまま「こうして人類はゴミになった」のテロップで終わる。完全に意味不明なのだが、このへん1997年という制作年を考えれば、世紀末気分の反映なのかもしれない。90年代ってこういう感じあったよね、みたいなスタンスで「あの頃」を浴びる作品なのかなぁ、今となっては。