自分を捨てるな映画『アダマン号に乗って』感想文

《推定睡眠時間:30分》

フランスの精神医療の現場では患者を病院に閉じ込めるのではなくストレスフリーな出入り自由な環境に置いてなにかしら興味の赴くまま創造的な活動をやってもらうという解放治療がそれなりに実践されているらしいと知ったのはこの映画の監督ニコラ・フィリベールの『すべての些細な事柄』というドキュメンタリー映画を観てのことで、これは日本では本業(だった)の精神分析医としてよりもフランス現代思想の旗手ジル・ドゥルーズと一緒に何が書いてあるのかは分かるが何を言っているのかは一切わからない奇書を著した人として知られていると思われるフェリックス・ガタリが作ったという解放治療クリニックにカメラを向けたもの。

そこでカメラが捉えた映像はまさしく些細な事柄ばかりなのだったと記憶するが衝撃と大袈裟に言うこともないとしても、こんな世界もあるのかといつごろ観たのかなぁ、今は無くなっちゃった銀座の交通博物館近くの映画館で十年以上前に観た時にわりあい驚きはした。そもそも精神分析が精神医療の臨床にほとんど組み込まれていない日本では精神医療といえば薬を用いての症状の安定化や行動療法によるセルフコントロールを指すのが一般的で、それが悪いとは別に思わないのだが、『すべての些細な出来事』が映し出す解放治療のように精神病をただ人間に害を為すだけのものとしては扱わない、むしろ精神病にこそ人間の可能性があるのだぐらい言ってしまう発想は医療提供者の側にも患者の側にもそれらを取り巻く社会の側にもほとんど見られない。

精神病患者はとりあえず病院にぶち込んでおけという時代ではさすがになくなったとしても(それでも日本の閉鎖病棟使用率は国際的に見れば高いのだとかどこかで聞いた)、それは治療の場が病院の中から外に移ったというだけの話で、精神病に対する見方が何か根本から変わったわけではないだろう。誰もがカジュアルにうつ病を表明できるようになった現代でも、なんだかんだ多くの日本人にとって精神病は遠い存在でかつ敵対的な存在であり続けているわけで、それを当たり前と思っていた俺には精神病を敵視もしなければ患者と治療者の間に壁も設けない『すべての些細な出来事』の世界がたいそう新鮮に映ったというわけである。

ちなみにこれと次のパラグラフは一切『アダマン号に乗って』とは関係しない完全なる余談なのだが、これもおそらく十年以上前、ある統合失調症患者のブログを読んで俺は結構感動した。その人は自分を攻撃する幻聴を時流に乗って集団ストーカーと解釈しており、なんでも某宗教団体の人間かなんかが発信機の置かれた部屋にシフト制で勤務していて、作業員が一人の時は淡々と送信作業をしているだけなので声も大人しいが、シフトチェンジのタイミングかなんかで何人かが発信室に集まった時にはその人を見ていやらしいことばかりを大声で笑ったりしながら言うので大変なのだという。病院に行けばいいのではと思うが病気の認識はないので行かない。ところがある時期からその人は快方に向かうのである。

具体的なきっかけは忘れてしまったが、発信室の作業員はしょせん声を送ってその人をビビらせるだけのヘタレであり、直接その人に危害を加えることはできないとその人は悟る。そして作業員の意気を挫くためにお前らの声なんか怖くねぇよというつもりで家に閉じこもっていた生活をやめてショッピングに行ったりレジャーに行ったりと人生をエンジョイするようになったところ、その人が言うには発信室の作業員たちは怯んで逃げ出してしまった、つまり声がしなくなったのだった。その人は一連の体験を病気の症状だとは最後まで認識してはいなかったし、快方といっても依然として集団ストーカーの幻想の中にはいるのだが、その人なりに幻聴や被害妄想をコントロールする術を体得したので苦しむことはなくなったというわけである。いやはや久々に思い出したがこれはやはりイイ話だ。

さて閑話に次ぐ閑話を経てようやく俺の気分が『アダマン号に乗って』に乗り始めた。アダマン号というのはセーヌ川の川岸に浮かぶ船を改造した二階建てか三階建ての精神医療デイケア施設で、細かく見ていけば無数の違いがあるのだろうが、患者主体の創造的な活動を通じて精神病の克服というよりも精神病と一緒に生きていける力を身につけるみたいな発想を土台にしている点では『すべての些細な事柄』のクリニックと同じようなところ。『すべての些細な事柄』にガツンとやられた俺ならたいへん面白く観られることは間違いないだろう。

そう思って観に行ったがなんか眠かった。話が長い。とにかく長い。患者一人一人のインタビューの合間合間にアダマン号の日常風景が挟まれるという構成なのだがこのインタビューが要領を得ない上に長いので眠い。利用者の一人が俺たちみたいな人の話をちゃんと聞いてくれる先生はすげぇなみたいなことを言っていたが俺もそう思った。ガタリは統合失調症の人の語りの持つ爆発力とかばかり語るがそんなの元からなんらかの文学的才能とか思想を持つ人だけのスペシャルケースで統合失調症に限らず精神病の人の話って眠いよね基本、同じことの繰り返しだから。困惑や苦痛を感じながらもポツリポツリと必死に率直な言葉を絞り出す利用者の表情は、とはいえ感動的なほどに劇的なのだが。

『すべての些細な事柄』もそうですけど昔のフィリベールのドキュメンタリーってインタビューよりも被写体の行動とその場の日常風景を撮ることを重視してた。だからフレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーとちょっと被るところがあったんですけど、なんかたぶん2007年の『かつて、ノルマンディーで』からスタイルがちょっと変わって、インタビューをじっくり撮るっていうか、撮るのはまぁ前から撮ってたんでしょうけど、風景の補足として使うんじゃなくてインタビューを主軸に編集するようになったっぽいんですよね。だからこれもそういう感じ。しかも精神病の解放治療は『すべての些細な事柄』のときにも長期間取材してるわけだから今回はなんというかなこれを撮ってやろうあれを撮ってやろうみたいなドキュメンタリストとしての欲が良い意味でも悪い意味でもない。アダマン号の日常を特別なものとは捉えないので、すなわち面白いシーンが基本的にないというわけだ。

まぁこういうのは眠気に抗わず眠りながら観るのがいいんだろう。インタビュー主軸と書いたがこれはフィリベールのスタイルで被写体の肩書きとか名前とかのテロップは出ない。アダマン号ではスタッフも利用者も私服なので、こうなるとインタビューを受けてる人、あるいはそれに限らず画面に映ってる人全般がスタッフなのか利用者なのか、察することはできても明確にはわからない。ここには病気と正常の垣根もなければ治療者と患者の垣根もない。現実にはそうとはいかない場面も多々あるとは思うのだが、理念的にはその船に乗る全員が同じ目線で、誰が上とか下とかではなくて平等な関係を作ってる。だからこの映画を観る側も「これは健気に頑張ってる可哀相な人たちの映画なんだな」などと健常者特有の無邪気な傲慢さでもって船に乗る人たちを真面目に見下すべきではないのだ。退屈なら退屈と言い眠くなったら無理をせずに素直に寝る、それこそが同じ目線の平等な関係というものだ! そうか?

映画の最初に利用者の一人が船でえらいロックな自作曲を歌う場面がある。サビに入ると「さぁみんなも歌ってくれ!」とリスナーを煽るノリノリ加減だが(だがみんなは歌詞よく知らないので困ってた)、そこでこの人がシャウトするのは「自分を捨てるな!」ということだった。病気も含めて、その苦しみも含めて、さまざまなネガティブな響きを持つものすべてひっくるめて「わたし」という人間なのであり、その独特なわたしを保護や治療の名目のもとに売り渡してよいものかというメッセージ(と受け取れる)は、個の自立というコンセプトが希薄な現代日本で見ればことさらに重い。それは精神病の治療の問題ではなく、どう生きるかの問題なのだ。寝ていてもそれぐらいは伝わるのだから良い映画なんだろう。

【ママー!これ買ってー!】


『すべての些細な事柄』[DVD]

これもそうだがフィリベール映画の国内盤ソフトはほとんどが廃盤プレ値になってしまっているので誰かなんとかしてください。

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