《推定睡眠時間:15分》
『PLAN 75』という映画は今の日本映画には珍しい本格的なSF映画でSFといっても『スター・ウォーズ』みたいな特撮が出てくるわけではなく75歳以上は安楽死が勧められる制度のできたちょっとだけ近未来の日本のシミュレーションという感じなのだが、これがディテールにとにかく凝ったいかにもありそうな日本の未来図で、非特撮系の架空設定SFドラマといえばグザヴィエ・ドランの『Mommy/マミー』などが頭にパッと浮かぶのだが、架空設定シミュレーションの精度の高さという点でそれよりも全然良かった。
その『PLAN 75』の監督・早川千絵の新作長編がこの『ルノワール』、おそらく1980年代後半の日本を舞台に父親が死病の末期症状にあるだいたい10歳ぐらいの少女の一夏をスケッチしたもので、実はさいきん公開された『ルート29』とはBGMを使わない点エモを廃している点それに近親者との離別を背景した少女の一夏の物語である点などなどテイストがよく似ているのだが、どうやら『ルート29』の監督・森井勇佑もこの映画の早川千絵もともに相米慎二、とくにその代表作の一本(ということでいいんでしょうか)『お引越し』の影響を強く受けているぽい。影響元が同じだから作風が似るのはわかるが、それがいずれも新人監督の近しい時期の2作目というのはなんだかおもしろい偶然である。
『ルノワール』の方は静寂を基調とする『ルート29』に対してやたらノイジーなのが特徴。主人公の10歳ぐらい少女・鈴木唯は大のテレビっ子で家にいるときはしょっちゅう爆音でテレビを見ているのだが、そのボリュームが観客のために調節されることなく会話の背景なんかで鳴り続け、そのやかましっぷりはまるで『13回の新月のある年に』などのファスビンダー映画のようである。ファスビンダーはラジオやテレビからの音を積極的に取り入れて時代相の演出としていたが、『ルノワール』でもテレビは単なるノイズ発生装置ではなく大事な演出道具。そこに映るものが作品の背景となっているようだ。
そこに映るもの、とはその大半が超能力番組であった。超能力、人智を超えた力。この同じことの繰り返しで何の変化もないような日常を変えてくれる驚異の真実。現実の10歳キッズが大抵そうであるように自分の思っていることを周囲の大人にも子どもにも語ろうとしないし、それを適切に言語化する術も持っていない主人公の心境を観客に悟らせるのがテレビの中の超能力なのだ。それはまた主人公の周辺を旋回するばかりで決して主人公に近づけない周囲の大人にも当てはまるものなのだが、一方で代わり映えしない日常生活からの脱出を、しかしもう一方では日常生活の中にいる誰かに対する繋がりの希求を、テレビの中の超能力者は念視という形で代弁する。
なるほどいささか図式的なような気はしないでもないけれど、1980年代後半とはそんな時代だったのかもしれない。退屈な日常からの逃避願望と、誰かと深く繋がりたいという接続願望の間での引き裂かれ。スマホもなくネットもなく、それにしては現代化されすぎて、情報の溢れすぎている1980年代という過渡期の奇妙な倦怠感と孤独感、あるいは形にならない漠然とした未来への希望と恐怖。それは1990年代になればオウム真理教という形で人々の目に見えるようになるだろう。そのへん平成の申し子であるところの俺には雑に想像することしかできないわけだが、『PLAN 75』同様にここでも細部の拘りが奏功して、そんな時代がかつてあったんだろうとたしかに思わせるのであった。
これも一つのバカンス映画といえるような夏休みの弛緩した時間とそれを切り裂くように現れる死の予感。あまりにも無防備にそこに飛び込んで行ってしまう主人公の無邪気さは良くも悪くも2025年にはもうほとんど残されていないだろう。少女の物語である以上に、1980年代後半の日本という時空間のシミュレーションとして面白かった。