《推定睡眠時間:どちらも45分》
ギィ・ジルという監督は知らなかったがヌーベルバーグ系の監督だそうで近年ミニシアターで埋もれた監督発掘祭のようなことが盛んに行われているがこのギィ・ジルもその一人、代表作なのかどうかはわからないが『海辺の恋』『オー・パン・クペ』の日本がどうやら日本初劇場公開となったようだ。
こういう埋もれた監督の映画とか「長らく観ることが叶わなかった伝説の映画」みたいな煽り文句で日本初劇場公開される制作からウン十年の映画には基本的に期待していない。そりゃそういうレア作は自分は他人よりも優れた審美眼を持っているからこんなマニアックな映画も観てしまうし評価できてしまうんだみたいな自己顕示欲の強い映画マニア(映画に限らずマニアとは自己顕示欲の強いものだ)なら喜んで観に行くだろうし俺も一応行くのだが、その手の映画が面白い可能性はまぁ10本あれば6本ぐらいかなぁ、という体感で、その6本の面白い映画もせいぜいのところ結構面白いぐらいのところで、なにっ! こんなとんでもない映画宝物が今まで埋もれていたのかああああああ!!!!! なんてことはたぶん今までに一回もなかったと思う(個人の見解です)
理由はとても単純ではなかろうか。一目見てこんなとんでもない映画宝物が今まで埋もれていたのかああああああ!!!!! と今の観客が観てびっくりしてしまうような傑作なら製作時または日本初公開時に大なり小なり話題になっているはずであり、埋もれることなくポピュラー映画史に刻まれているわけである。もちろんすべての映画が日本で劇場公開されることがない以上は偶然誰の目にも留まらず埋もれている超絶傑作の存在も否定はできない。でもその否定ができないは「広い宇宙のどこかには宇宙人がいる可能性がある」みたいな話で、科学的に確率は0にはできないけど、限りなく0に近いというものではないだろうか。したがって、2026年現在になっても日本で劇場公開されず埋もれているウン十年前の映画があるとすれば、それがびっくりするような大傑作である可能性は相当に低く、良い作品の場合でも一般ウケしないマニア向けの映画であると考えられるのである。
というわけでギィ・ジルというヌーベルバーグ作家の『海辺の恋』『オー・パン・クペ』もそんな映画の一本ではあるのだが、ポスターとかから事前になんとなくイメージしたものを良い意味で裏切ってくれて、結構面白かった。この二作はいずれもそこらへんのフランスの若者のどうでもいい恋愛模様を描いたものというわけでそれだけ聞けば何一つ面白くなさそうな気がしてしまうのだが、『海辺の恋』なんて邦題に似つかわしくなくその恋愛模様ときたらまるで冷たい、いや冷たいというか、どちらも脚本的にはずっとダラダラ会話をしているだけなので(ヌーベルバーグ映画人の悪いクセだ!)眠ってしまって詳しいことはよくわからないのだが、どうもこの二つの映画で描かれる恋はどちらも既に終わっている気配なのだ。それは終わった恋の回想なのかもしれないし、たとえ関係が続いているとしても、その内実はとうに枯れてしまっていて、後はただ風に吹かれる落ち葉のように自然とバラバラになってしまうのだろう……と予期させるものなんである。
その終わった恋愛関係はヌーベルバーグというよりもアニエス・ヴァルダの『幸福』や『太陽はひとりぼっち』などのアントニオーニ作品を彷彿とさせる冷たさで、新しい表現を手にした喜びがなんだかんだ画面から滲み出てしまう点で根底には明るさのある一般的な(?)ヌーベルバーグ映画からは少し距離があるように思える。たしかに『海辺の恋』と『オー・パン・クペ』にもモノクロパートとカラーパートの編集による混成やラフスケッチのような風俗映像の挿入といったヌーベルバーグ的な手法は用いられているのだが、これはヌーベルバーグなどとうに過ぎ去った今観るからというのもあるかもしれないのだが、そこに前向きな喜びの手触りはなく、あるのはただ物事の終わりをどうにもできずに傍観する諦めの眼差しなのである。
前向きな後ろ向き人間なのでそんな映画は大好きである。でもこれが日本で埋もれた作品になっていた理由もわかろうというものだ。だって楽しくないし。詩情が溢れるわけでもなく(無いとは言わないが)、濃密なドラマがあるわけでもなく、ただ終わりゆく関係をドキュメンタルな街角風景を交えてドライに傍観。そんな映画が一般的な意味で面白いわけがない。埋もれる映画には埋もれるだけの理由が大抵の場合はあるのである。その埋もれた理由こそが埋もれた作品の旨味なのだなぁとか感じながら、とっくの昔に世界を過ぎ去っていったこの映画をさして人もいない映画館の暗闇で無表情に追悼するのは、まったく良い映画体験なのであった。