ペルー残酷ものがたり映画『少女はアンデスの星を見た』感想文

《推定睡眠時間:30分》

まったく内容を知らずにタイトルだけ見て面白そうだなって劇場に入るところで映画サイトかなんかの情報で性暴力が云々とあらすじの項に書いてあるのを見つけて「しまった!」と思ってしまった。ぶっちゃけそういう映画ならあんまり観たくはなかったからで、なぜというにどうなるかわかっているからである。つまり、これはペルー映画なわけだが、たぶんペルーの田舎が舞台で、主人公の少女はその田舎で性暴力被害を受ける、そしてそれに村人たちは「正しく」対処できず、少女は文明の遅れのためにこんなにヒドい目に遭ったのだと、その野蛮性を都会もしくはグローバルな視点から非難し、現在でもこんな悲惨がこの国には残っているのです、変えていかなければいけませんね、という観客を啓蒙するのである。

ここには二つの問題があるように俺には思われる。それは別々の問題ではなく絡み合った問題だが、一つは都会もしくはグローバルな論理で一方的に田舎を裁くことの暴力性にある。なるほど都会のように人権が守られていない田舎と聞けばそれを正しいと感じる人はおそらくほとんどいないだろうし、俺もたしかにそう思うのだが、しかしそこに欠けているのは近代の人権概念も含めた都会の理屈の正当性を問う理性の眼差しではないだろうか。身もフタもないのだが、科学や数学とは異なり人間社会のルールに絶対的に正しいと証明できるものはない。であれば本来は都会の理屈と田舎の理屈は単なる「法」のバージョン違いに過ぎず、優劣はない。そのどちらの理屈を採用するかは地域の実情に即してその住民総体がもっとも幸せになれるものを選択すべきだろう。

にもかかわらず啓蒙は都会もしくはグローバルな理屈を田舎に押しつけてしまうわけで、これはエドワード・サイードが喝破したように帝国主義的拡張を正当化するものになってしまう。おそらく現在の帝国主義的拡張は植民ではなく経済によって行われるはずだが、田舎の理屈は野蛮であるとして都会もしくはグローバルな理屈でそれを上書きしてしまえば、田舎社会の「人道主義的」再編によって、田舎社会が都会もしくはグローバルな経済圏に組み込まれ、そしてその中で田舎は決定的に弱者であり逆転のための資源や自決のための権力は配分されないため、言うならば都会もしくはグローバル世界の下請けとなって社会的に収奪される危険性が出てくるわけだ。これが都会もしくはグローバルな論理で一方的に田舎を裁くことの(俺が考える)暴力性なんである。

そしてもう一つの問題は、こうした人権侵害の啓蒙的告発は西洋世界(の文化的中心地)では広く受け入れられるものであり、そのために啓蒙者の発言やメッセージは「自分の声はこれだけの支持を得ている」という権威を身につけることになるが、他方で告発される側の田舎の発言やメッセージは、それがそもそも周縁的なものであるがために都会はもとより西洋社会に広く受け入れられることはなく、ようするにここで告発者たる映画監督と被告発者たる田舎の発言力に大きな格差が生じてしまい、それぞれの意見の客観的な比較検討がほとんど行われることなく、ただ一方的に西洋の権威を背にした監督の声だけが「正しいもの」とされてしまうことである。つまりこの場合、これを民事裁判とたとえるとすれば、原告としての監督には法的アドバイザーが100人ついていて裁判費用は8億円あるが、被告としての被写体(田舎)には弁護士が不在で裁判費用が8円しかない、というようなことになるわけで、このような不平等がある中で公正な裁きは可能だろうか? という問題が生じるわけである。

とそんなわけでぜんぜん映画のことを書いていないのだが俺はこの映画にかなり警戒心を持って臨むことになったのだが、これだけ書いておいてなんだがぜんぶ杞憂でした。たしかに主人公の少女はたぶん都会から来た? 学校の変態先生に強姦されてしまい、しかもその後これは穢れだということで近隣村落の長たちにより清めの儀式を施されることになるが、それがなんかムチで打たれたりなんか洞窟に閉じ込められたりと、単なる被害者なのにいろいろとヒドい目に遭って可哀相。とこんな感じのストーリーなので告発的・啓蒙的要素はあるのだが、ただその眼差しは都会の高みから田舎を冷徹に見下すというものではなくて、田舎の残酷を憶すことなく描きつつも同時にペルー田舎の人々が生きている都会とは異なる法的世界や神話世界も豊かに描かれ、こんな野蛮な田舎は焼き払ってしまえ! という感じではなかったのだ。

言い方を変えれば、この少女はなんも悪くないのに悲劇的な運命を辿ったし、その境遇を憐れんで少女を殺害した祖父にも村落共同体追放という過酷な末路が待っている、ついでに少女の悪魔祓い的虐待を支持した村長にも共同体会議で有罪判決が下ってムチ打ち百連発の刑が下されることになり、ということで出てくる人間ほぼ全員が不幸になるグランギニョル的残酷劇が展開されるにもかかわらず(強姦教師もちゃんと死亡)、そこには貧しい田舎に生きる人たちの生活や肉体も同時に映し出され、田舎の人間の生を蔑ろにはしていない、というかどちらかと言えば親しみすら感じさせるところさえあったんである。

映像面で安直だったり力不足だったりを感じるところは多いけれども、そんなことはまぁどうでもよろしい。田舎の人間をストーリーのための便利なコマではなくちゃんと生きた人間として活写していること、これができる映画は立派だと思う。リスペクトがあるじゃないの、他者に対して、他なる文化に対してさ。田舎の問題は問題として指摘しつつそこで生きる人たちに対するリスペクトは決して忘れない。さいきんそういうことのできる映画というのはずいぶん減ってしまったから、内容的にはハードだがなんかホッとしてしまったな。そんな映画でした俺には。

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