人の生もまた幻なのか映画『たしかにあった幻』感想文

《推定睡眠時間:2分》

脳死映画に駄作無しと観終わって脳裏に浮上したもののまず脳死映画というジャンルは存在しないし脳死を扱った映画はかなり少なく『21g』とか『人魚の眠る家』ぐらいしか思い浮かばなかったので適当なことを言うなと自分で自分に思ってしまったが、やはり脳死となると軽々には扱いにくい題材、この『たしかにあった幻』もその一本なわけだが、脳死を題材にする映画を作る人は本気度が高いので結果的に映画も面白くなるということかもしれない。

とりわけ日本で脳死ネタがセンシティブな題材になってしまいがちなのはどうやら日本において脳死=脳幹死が明確に死として定義されていないためらしい。脳幹というのは人間の生命維持を司る部位であり、脳幹が機能停止状態になると外傷などがなくてもやがて心肺は停止し死に至る。これを治療する方法は2026年現在の医学では存在しない。脳死と混同されやすいいわゆる植物状態は大脳が損傷しているため自発的な行動はできないものの脳幹は無事であるため心肺活動に支障はなく、意識が自然回復する可能性はゼロではない。したがって脳死状態と植物状態は見た目は同じように見えたとしても、脳幹が機能を停止しているか活動を続けているかというその一点によって、まったく別の状態であるといえる。

こうしたことからすれば脳死イコールで死とすることには何も問題がないように思える。ところが話をややこしくしているのが日本における「死」の定義で、日本では慣習的に心停止、呼吸停止、瞳孔反応の消失という三徴候が揃った時に「死」とされており、これは古典的な死の定義なので脳幹死は含まない(脳幹死の結果としてこれら三徴候が生じた段階で「死」と認定される)。現行法では成文化された死の定義はないので、たとえば法律に上記三徴候に加えて脳幹死の状態も死とする、みたいな一文が書かれれば脳幹死も死として扱われるのだが、日本の現状では脳幹死は死とも死ではないとも定義されていない宙ぶらりんの状態にあるわけである。

そんな定義どうでもよくないですか? 脳幹死になったらどうせ死ぬんでしょ? などと思ってはいけない。このめちゃくちゃどうでもいいような死の定義が『たしかにあった幻』で俎上に上げられる心臓移植に密接に関わってくるのだ。なぜかというに移植用の心臓や肺や肝臓は心停止後、すなわち死の三徴候が生じた時点で使い物にならなくなっているので、必ず心停止前に摘出されなければならない(腎臓、膵臓、眼球の三つは心停止後も摘出して臓器移植が可能)

しかし前述の通り日本では脳幹死が死であると周知されておらず、法律などで決まっているわけでもないため、脳幹死の身体から移植用の臓器が摘出できるか否かはケースバイケースとなるのである。そしてそれはドナーの意思表明のできる大人ならまだしも、子供の場合はより深刻な問題になるわけで、要するに日本では(とくに重要な臓器である)心臓移植の必要な子供のドナーがかなり見つかりにくい。たまにテレビで心臓病の子供の臓器移植のための渡米費用を募金してくださいみたいなのがやってたりするが、あれは日本国内だとドナーが見つからず移植待ちに数年かかることもあり、その間に死亡してしまう可能性があるためなのである。以上すべて聞きかじりならぬ見かじりのインターネットあやしい知識である。

ということでそんな日本の現状を憂いて現場の医師たちに「今こそ変革を!」と訴えているのがフランスからやってきたたぶん臓器移植コーディネーターの主人公。臓器移植を待つ小児病棟の子供たちやその親や支援者などを映像で記録しては医師相手に見せる勉強会を開き問題の共有を図るのだが、医師たちの反応は芳しくない。といっても主人公の問題提起に反対する医師はいない。みんな現状を変えたいとは願っている。ただ実際問題目の前の命を救うことで既にオーバーワークな手一杯、脳幹死と臓器移植に関する啓発活動や政治行動に割く時間がないのである。主人公にしてもそんな現場の医師たちの置かれた状況を理解していないわけではないと思うのだが、しかしだからこそ余計に、変えたくても変えられない現状に苛立ちを募らせるているのかもしれない。彼女が休暇で訪れた屋久島でアルカイックな魅力を放つ青年と出会ったのはそんな時であった。

映画作家・河瀨直美の一つの面は大アースにダイブしようとするニューエイジャー(最近はスピリチュアルとも言う)で、『殯の森』などはその系統の作品だと思われるが、もう一つの面は物事を善悪や優劣に分けることなく割り切れない現実を割り切れないまま提示する骨太なドキュメンタリストであり、『東京2020オリンピック SIDE:B』などはその系統に属する。『たしかにあった幻』は前者の空気をチラつかせつつ臓器移植医療の現場を後者の眼差しで撮り上げたという意味でなかなか渾身の感があるのだが、一方にきわめてリアリスティックな世界がありつつその世界がほんのりスピリチュアルな世界に揺れていく展開には物語の輪郭がぼやけて崩れていくようなサスペンスが宿り、あくまでも静謐なヒューマンドラマなのだが一寸先がどうなるかわからない怖さ面白さがあってかなり面白かった。

『たしかにあった幻』という意味深なタイトルは第一義的には主人公ヴィッキー・クリープスと恋仲になり後に失踪する青年・寛一郎を指すのかもしれないが、たとえば心臓移植の日がいつか来ると信じたまま病死していった子供たちにとってのあり得た未来も指すのかも知れず、その解釈の多様性と不定性は作品の魅力そのもののようにも思える。脳幹死は医学的には死と同義だが、だからといって人はそう簡単に脳幹死した身体の、その時点では慣性の法則で動き続ける車のようにまだ脈打っている姿を見て、あぁ死んだな、これは死体なんだ、なんて思えるものだろうか? 人は皆まったく根拠なく明日も今日と同じように生き続けると思っているが、何の前触れも無くある日突然死んでしまうことも科学的には何の不思議も無くあり得ることなわけで、だとしたら人の生とはいったいなんなのだろうか?

そうした問いだけを投げかけておいて何の答えもこの映画は出そうとしない。ただそんななにもかもあやふやで答えの出せない世界の中で、ほんの一滴の生が、あまりにも儚い命と命が奇跡的に繋がったその瞬間を、この映画は祝福するのだ。うーんスバラシイ。やはり脳死映画に駄作なし、なのである。

Subscribe
Notify of
guest

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments