《推定睡眠時間:30分》
あまりにもアメリカで悶絶してしまった。ギリシア叙事詩の代表的な作品(と呼んでいいのかどうかよくわからないのだが)とはいえハリウッドで映画化されたならばアメリカで当たり前である。他国が舞台の映画でも登場人物が英語で喋ることが鉄板となっているハリウッドたるもの相手が「オデュッセイア」であろうが手加減などしない。映画開始と共にズラリと並べられるハリウッドスタアを中心とした白人黒人アジア人ヒスパニック(中東系やスラブ系っぽい人はあんま見えないのもお約束である)の多彩な人種構成と「Fuck off」すら飛び出す現代英語の台詞にはすわジュリー・テイモアの『タイタス』か! という前衛感、言うまでもないことだが登場人物は全員歯をホワイトニングしているのでピカピカと輝いておりメイクも整髪もバッチリ、愛情や悲しみの表現はアメリカ式のオーバーアクトという時点で、この映画が神話と接続される紀元前エーゲ海文明の世界に、そりゃその時代の時代考証を正確にしろというのは現在の研究水準では不可能な要求だとしても、一切寄せる気がないことがわかる。
『トロイ』という同じくハリウッドのトロイア戦争もの(主演:ブラッド・ピット)の前例もあり、なぜかヨーロッパの神話世界に強い憧憬を抱き続けている気配のハリウッドとアメリカである。憧れているならその世界を尊重するのが筋だろうと凡俗人間の俺などは思ってしまうわけだが、ハリウッドの場合なぜかその憧れの対象をアメリカ色で染め上げて独自性をゼロにしてしまうのだから不思議である。でもこの映画の場合は単なるハリウッドの呆れた横暴ではないのかもしれない。このタイトルから俺が想像したのはファンタジックな冒険譚なのだが、「オデュッセイア」なのに完全に現代アメリカの人しか出てこないという点でファンタジーではあるとしても、これは冒険譚というよりはクリストファー・ノーランの前作『オッペンハイマー』から続く戦争と罪に関する物語だったんである。
「オデュッセイア」本体を読んだことのない俺のオデュ観はアドルノ×ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』によって形作られた歪なものである。曰く、理性の狡知によって自然に打ち克つオデュッセウスには既に近代ヨーロッパの合理主義と啓蒙思想の胚胎が見られる、とかなんとかであるが、思えば狡知によって敵に打ち克つというのは「オデュッセイア」に限らず世界各国の英雄神話に多く見出されるモチーフであり、日本神話におけるスサノオのヤマタノオロチ討伐なども、力ではヤマタノオロチに敵わないスサノオがヤマタノオロチを酒で酔わせるという作戦に出たのであった。神話における英雄というのは意外とパワーで物事をどうにかするものではなく、むしろパワーではどうにもならなそうなことを頭脳で解決する存在なのである(英雄神話が往々にして統治者を正当化するために利用されるのはそのためかもしれない)
しかしこうした狡知はノーランの『オデュッセイア』では英雄性と結びつかない。むしろ逆なのであった。オデュッセウスと仲間たちの2時間ぐらい続く祖国帰還の長い旅は苦難と恐怖の連続、脳筋の部下たちが行く島々で魔物に取って食われたりなんかする中でオデュッセウスだけは一計を案じて危機的状況を脱出していくわけであるが、映画の後半に差し掛かってわかってくるのはこの苦難と恐怖の連続というのは実はオデュッセウスが指揮した凄惨なるトロイア戦争の残響、かの有名なトロイの木馬(贈り物ですと敵陣営に差し出した巨大木馬の中に実は兵隊が入ってたというアレ)という狡知によってオデュッセウスは勝利を収めたが、その掟破りのズルの罰としていろんな怪物たちがオデュッセウスご一行様を襲う、かのように描かれるのである。
ノーランの前作『オッペンハイマー』は天才気味の科学者オッペンハイマーさんがその超頭脳によって遠隔地から相手を一方的に虐殺できる核兵器というズル兵器を作ってしまったことを大いに悔いる物語。そして『オデュッセウス』はトロイの木馬というズル兵器の戦場投入から物語が始まり、遠い祖国での裏切り者たちの権力奪取の陰謀とオデュッセウスの帰還の旅が並行して展開する。とくれば、『オデュッセイア』も『オッペンハイマー』と同じ問題意識の上に成り立つ映画であることは容易に理解されるだろう。クライマックスはついに帰還したオデュッセウスが今度は狡知に頼らず純粋なるパワーでもって勇猛果敢に裏切り者たちと格闘し、ここらへんはなんだか「バットマン」みたいなのだが、このクライマックスにおいてトロイの木馬というズル兵器の使用によって堕落したオデュッセウスの魂は救済され、その名誉を回復するんである。
こうした「オデュッセイア」解釈はとても現代的であるが、同時にとてもアメリカ的でもあった。たとえばこれは反戦映画ではない。戦争行為そのものが否定され非難されているのではなく、問題とされているのはあくまでも「戦いにおいてズルをすること」なのだ。ということはズルさえしないで正々堂々戦えば戦争という殺し合いは許されることになってしまうし、事実クライマックスにおける力こそパワーな名誉回復バトルによってオデュッセウスは英雄として帰還することになるんである。こうした免罪のシステムがあればこそアメリカは年がら年中戦争をやれているわけで、そこにはフェアであることが善悪よりも優先されるアメリカ独特の思想を見ることができるんじゃないだろうか。最終的にパワーで勝つというマッチョっぷりもまたたまらなくアメリカである。
とそんな感じで雑に読み解く面白さはあるけどぶっちゃけノーランの映画の中では一番面白くなかった。理由は画作りも演出も大味でケレン味を感じられるところがほとんどなかったから。魔女のキルケが兵士たちを粘土みたいにこねて変形していくところは先日逝去したスクリーミング・マッド・ジョージを思わせる特殊造型でちょっと面白かったけれども、それ以外の場面の大半に見られるこの平板さはなんだろう。全編IMAXカメラによる撮影ということだから機材的な都合もあるのかもしれないとはいえ、『メメント』とか『インソムニア』とかの頃のノーランだったら編集も含めてもっと切れ味鋭い場面を作れていたのだから、ノーランの映画監督としての腕が落ちたか、あるいはあまりにもビッグプロジェクトすぎて現場を諸々コントロールできていなかったのかもしれない。かなりの豪華キャストと思われるがそれを活かせているようにも見えなかったし。
ノーランはよくホンモノ志向の監督と言われるが、時代考証をする気がハナからないアメリカ的ファンタジーなんかホンモノとして撮っても意味がないんだから、ホンモノを撮るというそのよくわからない熱意が面白い映画を作る邪魔をしているように思えてならない。ホンモノじゃなくて全部ニセモノでもCGでもいいから面白い映画を作って欲しいと意識の低い俺としては思うのだが。