《推定睡眠時間:15分》
最近は空前のリマスタリング・リバイバル・ブーム、本国で古い作品が修復されマスターがピカピカになったのをキッカケとしてそのマスターを用いた劇場公開が毎週のように行われるので、そうした作品がとくに多く上映される東京に暮らしているともう何がなんだかという感じである。しかもそうした中にはこれまで日本で公開されてこなかったマイナー作品が結構あり、この『星の時』もその一つ。今まで日本語字幕付きで見ることのできなかったというか存在すらそもそも知らなかった作品が次々と発掘されるのだから嬉しい悲鳴……と言うべきなのかもしれないが、なんだかあの世がいっぱいになってゾンビが現世に溢れ出てきちゃったという『ゾンビ』の例の名台詞を思い出すようでもあり、新作と旧作が区別されず毎週大量に公開される状況は、ポストモダン的な虚無感が漂わないわけでもないような気がしないでもないのかもしれない。
それはともかく『星の時』は1985年のブラジル映画、単におぼこいのかアホの子なのかはちょっとわからないところもあるが、私は新米タイピスト! といってルンルン気分で働き始めたウブなヤングウーマンの恋に仕事にという日々を綴ったお話である。はじめてのお仕事、はじめての彼氏。しかしどうも上手くいかない。まだ慣れていないのか元々適性がないのかタイプ技術はかなり拙く毎日微妙に気を使われつつ上司に怒られ、散歩してたら出会った彼氏はドミニク・ピノンみたいな見た目の工場労働者のくせにやたら上から目線で「君は幼すぎて僕と釣り合わない! 不愉快だ!」とか怒鳴りつけてきたりする。そのうえ信じていた同僚はいかにも怪しい占い師に騙されて彼氏を寝取ろうとする始末だ。
悲劇的とまでは言わないまでも(悲劇にしてはありふれすぎているので)社会の下層のままならない現実を描いた比較的かなしい映画とこのように書けば見えるかもしれないが、映画のトーンはあくまでも軽快で瑞々しく、似た映画を言うならゲオルギー・ダネリヤの『モスクワを歩く』ではないかという感じで、ところどころちょっと笑えたりするぐらいである。なぜそうかといえば主人公のヤングウーマンが自分を不幸だと思っていないからだ。低賃金の仕事とダサくてバカで傲慢で自己中な彼氏の間を行き来する毎日は端から見れば恵まれていないように見えるとしても、主人公にとっては毎日が新しい経験の連続であり、そこには未来と成長が揺るぎなく刻印されている。
ドミニク・ピノンみたいな見た目の恋人に君のことを話してくれと言われても主人公は答えられない。代わりに言うのは「自分が何を話したいのかわからない」。すべてがはじめてづくしの大都会ブラジリアの中で主人公はまだ自分の位置を見定めることができていない。実は安く使われているだけのタイピストの仕事は他の仕事をしたことがないものだから良いとも悪いとも判断できない。実はダサくてバカで傲慢で自己中な彼氏は他に付き合った人がいないものだから良いとも悪いとも判断できない。実は学歴もないし今後一生薄給で貧乏生活が続くかもしれない人生は他の人の人生を知らないものだから良いとも悪いとも判断できない。
だから主人公は自分が何を話したいのか、何をして何を感じたいのかもわからないのだが、その少女性が作品に浮遊感と瑞々しさをもたらしているわけで、よく『ひなぎく』みたいな映画を指して少女の全能感と語られたりするが、この『星の時』もまたそうした少女の全能感を捉えようとした映画とひとまず言うことができそうな気配。奇妙といえば奇妙である。劇中で基本的に良いことは起こらないし、最後もそれが幻想などでなければバッドエンドと言うべき展開を見せるのに、そこに不幸の香りはなく、キラキラ輝いた印象を受けてしまうので。
こういうものを青春映画と言うのだろうか。大人の目から見れば若気の至りなんて「やめておきなさい!」てなもんだが、当人たちからしたらその若気の至りはどんなに悲惨な結果が仮に待っているとしても、人生最高の瞬間に思えたりするものだ。この映画はそんな人生最高の瞬間を主人公と同じ視点に立ってフィルムに焼き付けようとした映画に見える。社会的な正しさでは捉えきれない人生の幸せというのもあるものだ。(時として反社会的な)個人的な幸せに対して風当たりが強いように感じられる昨今であるから、こういう映画は尚のことキラキラ輝いて見えるのかもしれない。