反戦思想と戦場欲望のせめぎ合う映画『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』感想文

《推定睡眠時間:0分》

塚本晋也の映画の何が面白いかといえば独特にして過剰な美術・映像センスというのがなにせ『鉄男』で世界に名を轟かせた人なのであるからいの一番に言えることだと思われるがその美術・映像というのも何もないところから突然生まれるわけではないし、根本的には変態性とかそういうものが塚本映画の面白さの核なのかもしれない。このへん『野火』から塚本晋也の映画を見始めたような人にはあまりしっくり来ないかもしれないのだが、たとえば『東京フィスト』とか『バレット・バレエ』、それに『鉄男Ⅱ BODY HAMMER』(これが大好きなのだ)あたりに顕著なのはマゾヒズムとサディズム、破壊の快楽と死の欲望、フェティシズムとナルシシズムの混淆であり、思えば塚本本人が鉄に憑かれ鉄で自傷する男を演じた『鉄男』の冒頭シーンからして既にそうなのであったし、『野火』の傑作たる所以も凡庸にして健全な感性ではなくそうした変態感性でもって南方戦線の異常さを描き出したところにあるのであった。異常には異常で対抗せよ、なのである(と俺は思うがみなさんはどうか知りません)

その塚本晋也の最新作『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』はおそらく塚本映画史上もっとも凡庸にして健全な感性に近づいた作品といえるかもしれない。だってなにしろ普通の会話シーンが多いしね。普通の会話シーンが多いのは普通だろ普通なんだから、というのはあまり塚本映画を見ていない人の考えることである。塚本晋也は普通ではないので普通の会話がその映画に出てくることはとても少ない。会話をしているように見えてもお互いに独り言っぽいものをブツブツ言ってるだけだったりするし、ほとんど塚本晋也の一人芝居映画だった『HAZE』なんかコンクリートの迷宮地獄に迷い込んだ(ある意味『バックルームズ』の先駆作)塚本晋也が「ちくしょう……なんなんだよ……わけわかんねぇよ!」みたいな独り言をずっと言いながら地獄迷宮で苦痛に喘ぐという映画であった。

凄惨な戦場からの帰還兵の物語という点で『野火パート2』とも言える『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』は塚本演じる田村一等兵が帰還したところで物語が終わる(ここで今作で全面展開される戦場PTSDのモチーフは既に表れていた)『野火』に対して帰還兵のその後の人生に重きを置いた物語である。普通の会話が多いのはそのためだ。身体は帰還しても心はまだベトナムのジャングルを彷徨ったままの主人公ネルソンさんはどうにかして普通になろうとして家庭を持ち精神分析に通い、そのセッションでのモノローグが作品の主体となって過去を語りつつ、そうした独り言から徐々にネルソンさんが抜け出して家族や仲間と対話ができるまでに回復していく、その過程のドラマがこの映画なのだ。今回塚本晋也は珍しく監督に徹して出演していないが、破壊と野蛮と孤独の世界から平穏な日常コミュニケーションの世界に生まれ直そうとするネルソンさんの軌跡は、かつて恐怖と表裏一体の破壊の快楽を取り憑かれたように一人黙々と繰り返し描いてきた塚本自身と重なるようでもあり、終盤のネルソンさんの顔がなんだか塚本晋也に見えてきてしまう程度には感慨深いものがある。

でも『野火』、『斬、』『ほかげ』(これも帰還兵のPTSDが描かれていた)といった塚本映画の近作と比べると力がないように感じられてしまうのも確か。冒頭の怪奇映画じみた廃墟のビジュアルであるとかコマ落としや手ブレを駆使しての心理的遁走の表現などは塚本映画らしい疾走感と変態感でグッと来てしまうし、いつもより予算をもらえたらしいのでベトナムでの戦闘シーンもなかなか本格的で残酷、なのだが、やはり日常回帰を志向する映画ということでそうしたアグレッシブさは中盤以降鳴りを潜め、その代わりに映画は会話主体のドラマに軸足を移す。塚本晋也は普段は気さくな明るい人っぽいが表現活動においては自分の世界に籠もるタイプであり、それがとくに初期作において独り言的な台詞が多用された理由であるように思うのだが、そんなような映画をずっと作ってきた人がいきなり対話で回る普通の人間ドラマと日常世界を上手く撮れるかというと、たぶんそうではなかったんだろうというのが率直な感想である。要は後半は(イイ話だけど)あんまり面白くない。

帰還兵の回復のドラマとして観るなら演出だけじゃなくてシナリオの練り込みも足りない気がする。こういう人もいると言われればそりゃ数はともかくいるとは思うのだが、帰還後のネルソンさんの生活描写はPTSDの教科書的な典型症状をなぞっているだけと見えてしまって、たとえばネルソンさんの好きな食べ物はなんだろうとか、すごく鬱っぽい日あればかなり健康的に遊べる日もあるんじゃないかとか、スーパーで割引シールが貼ってあったからレジに持ってったのになぜか割引対象外ですと言われてクレームを入れるとか、そういう生活の細部やグラデーションがこの映画にはない。帰還兵の日常復帰がテーマのはずなのに肝心の日常が掘り下げられてないので、ネルソンさんという存在にリアルな厚みが出ず、したがってその回復のドラマがどうにも表面的・教科書的なものに留まってしまっているように思えるのだ。

どちらかと言えばこの映画の面白いところは塚本晋也の意図しないところにあるのかもしれず、インタビューを読めば「戦場をヒロイックに見せたくなかった」と言っているし、反戦の意図は明確すぎるほど明確なのだが、にも関わらず残酷描写満載のサディスティックな戦闘シーンはホラー映画的な興趣があって見世物的になってしまっているし、それよりも重要と思われるのが、ネルソンさんが人の情を知るのが生まれ故郷でも家庭でも学校でもなく、ベトナム戦闘の最中に現地住民と触れて、という点である。平和で退屈な世界に住んでいた男が血と暴力にまみれた極限の世界に堕ちて人生に光を見出すというのは、実は『東京フィスト』や『バレット・バレエ』といった90年代の代表作と共通する構図であり、そこに感じられるのは戦場の忌避よりもむしろ戦場の欲望なのである。

塚本晋也の場合、しかしそれは矛盾することなく両立するのであった。戦争に憧れながら絶対に戦争反対だし、暴力を否定しながら暴力に魅了される。マゾヒズムとサディズムの混淆は塚本映画全体を貫くものだが、矛盾したり対立したりする思考や欲望が止揚されることなく同居してしまうのが塚本映画なわけで、『ネルソンさん』もまた例外ではない。そこが面白い。なんか塚本晋也の頭蓋骨に穴を開けて脳みそを直接覗き込んでるみたいで。みんな外には出さないけど頭の中ではそうでしょ、これは悪いことだからやっちゃダメだっていう意識と、でもだからこそやってみたいっていう欲望がせめぎ合ってるわけじゃないですか。

俺にとって『ネルソンさん』はそういう映画だったので、セッションに訪れるネルソンさんを何度も何度も「独り言のように」あなたは何故ベトナムで人を殺したのかと問い詰める精神分析家は現実にはまず存在しないんじゃないか、存在はするかもしれないけどそんな風に患者を追い詰めたり答えを誘導したりする(この分析家はどうしてもネルソンさんに「殺したかったから殺しました」と言わせたいのである)分析家は職業不適格だろう、とかそういうところも、塚本晋也の脳内世界に巣くう暴力に対する強迫観念の表れと思えば、なんだかこの映画自体が塚本晋也の自己治療のようで俄然面白く見えてくるし、なんだか感動的である。アレン・ネルソンという実在の人物の自伝を原作にしているといってもやはり塚本映画は塚本映画で、塚本晋也は塚本晋也。この人はどんな映画を撮ってもその世界を自分の脳内に繋げてしまうのだ。その希有な才能を塚本晋也本人はあんまり自覚していないように見えるというのも、塚本晋也の魅力なのかもしれない。

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