細田守の地獄映画『果てしなきスカーレット』感想文

《推定睡眠時間:30分》

邦画界には野心的な監督は地獄を撮るという謎の伝統がありこの地獄というのは比喩ではなく文字通りの地獄、その系譜は中川信夫の『地獄』に始まり神代辰巳の『地獄』石井輝男の『地獄』、そして塚本晋也の『HAZE』『野火』などへと続き、かの丹波哲郎も『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』を手掛け……あ、いや、『丹波哲郎の大霊界』は地獄じゃなくて霊界でした大変申し訳ありません。でも『丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!』には地獄に行くシーンが後半あったからいいだろこれも地獄映画で!

ということでポスト宮﨑駿の座を虎視眈々と狙うツイッターのにんきもの細田守もついに地獄映画に参入である。16世紀のデンマーク、戦を好まぬ平和主義の賢王のもとで娘スカーレットはすくすくぬくぬく育っていたが、そんなおりスカーレット大ショック、なんと賢王の好戦的な弟が野心家の王妃と結託して謀反を起こしたではないか! 歴史がよくわからないし映画の中でもとくに説明されてなかったので検索するとこの時代のデンマークはカルマル同盟というデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国からなる北欧最大勢力の盟主であったが、1523年にスウェーデンが独立、のち17世紀に入りドイツを戦場とする三十年戦争に参戦するも敗北を喫し、その後19世紀にはプロイセン・オーストリア連合軍との戦争に敗れたことでノルウェーとの連合も解消しおおむね現在の形になったという。してみると北欧のトップに君臨していたデンマークは16世紀から徐々に国土が小さくなり、また軍事大国から農業を主軸とする小国へと転換していったわけで、賢王の好戦的な弟は察するに賢王の平和主義によりデンマークが大国の座から転落することを恐れて反旗を翻したんであろう。

弟の策略は見事にハマって瞬く間に賢王処刑。母親からも冷たくあしらわれているスカーレットは復讐を誓って鍛錬に勤しむのであったが、その不穏な動きを策略家の賢王弟a.k.a.新王が見逃すはずはなかった。新王に毒を盛られたスカーレットはあえなく血とゲロを吐きながら意識混濁、気付けば彼女はデンマークとはまるで異なる質感の風景を持つ死者の国にいたのであった。過去と現在、生と死、西と東、彼岸も此岸も混ざり合った超空間たる死者の国をスカーレットは復讐だけを胸に秘めて彷徨うが、そこで彼女は現代日本からすっ飛んできたらしい救命士と出会い、どうやら宿敵の例のあいつがいるらしい天国、あるいは解脱の門へと共に向かうのであった。

これはなんだか物々しい感じである。いつもの細田守の映画っぽくない。細田守の映画といえば抜けるような青空がトレードマークだが今回は地獄が主な舞台とあって青空封印、空には黒雲が渦を巻き枯れた大地には人骨が散乱し湧き出る水は汚染されて飲めるような代物ではない。異世界を旅するという意味では『バケモノの子』と同じだが、ここには『バケモノの子』の異世界にあった牧歌的なムードは一切無いと言ってよい。いや、無いのはそれだけではなく、これまでの細田守の映画にはそこに属する全員が善人でかつ有能というようなドリーミンな田舎コミュニティがたとえば『サマーウォーズ』のように描かれていたものだし、『竜とそばかすの姫』に典型的に見られるように現代カルチャーにずっぽりハマった若者たちの持つ(世界をより良くする)可能性というものが欠かせないくらいだったと思うが、そのいずれも『果てしなきスカーレット』には無いのだ。

その代わりここにあるのは果てのない戦争と死と恐怖である。地獄というぐらいだから人々は基本的にずっと殺し合っているし安住の地などなく誰もが難民となって不毛の荒野を彷徨っている。あまりにも殺戮が日常化してしまっているのでその光景を劇的であったりエモーショナルなものではなく単なる生気を欠いた活人画として描写するのが異様である。異様であるが、地獄とはそういうものだ。ここでは古今東西あらゆる人種、民族、性別、宗教、国籍、etcの人々がまったくフラットに混ざり合って、人類の始まりから終焉まで繰り返されるに違いない戦争を、自分が既に死んでいるとも気付かずに、飽きること無く再現している。地獄の外を目指す膨大な難民たちが押し合いへし合いコンクリートの壁に殺到し、やがてその壁が倒れて難民たちが壁の内側に雪崩れ込むと、地獄の外への道を死守せんとする軍隊が難民たちを虐殺していく、というシーンがある。この壁の形状、そして壁が倒される映像から、イスラエルがパレスチナ・ヨルダン川西岸地区を囲うように(といいつつ実は囲うだけでなくヨルダン川西岸地区に入り込んでいる)建設した分離壁や、東西ベルリンを隔ててきたベルリンの壁の崩壊を思い出さなければならない。人々を分離する壁というモチーフで異なる時代の異なる出来事を接続して、その背景にある戦争という人間の営みを、つまりは終わりのない殺し合いを、現出させるのがこの映画の地獄なんである。

ところでこの壁と虐殺のシーンは殺す側も殺される側も地獄の誰もが目指す山々の、ラッセンのキラキライルカ絵画のように輝く花火のような火山噴火へと続く。すべてを押し流す溶岩流によって軍隊も難民も殺し合いながら不毛の大地に溶け込んで、それはやがて木の根っこのようにも人間の血管のようにも見える大地の襞を形成する。すばらしい表現だと思った。細田守のイマジネーションというのはたとえば宮﨑駿のようなアニメ監督と比べるととても俗っぽいものだと俺は思うのだが、その俗っぽさを恥とせず俗で何が悪いのだと開き直って堂々と俗なカッコ良さや俗なキレイさをやり切るところが細田守のアニメ監督としての強みじゃないかと思う。この溶岩流が戦争を飲み込んで生命の象徴であるような木の根というマクロと人間の血管というミクロを二重写しにする、というのも発想としては正直かなり並な感じなのだが、しかしそれを俗だからと変にこねくり回したりしないで子どものようにそのまま映像にしてしまう。その素朴な表現の力強さはまるで宮﨑駿に擬態した村上隆のようである。ってそれは褒めているのか? いや、すごい褒めてるつもりなんです一応……。

その村上隆といえばスーパーフラットの概念で知られる俗悪現代アーティストだが、おそらくその影響を受けている細田守は前作『竜とそばかすの姫』ではインターネット空間を考えつく限りの異なる様式のアニメーションや無関係で無意味な記号・テクスチャで埋め尽くし、ポストモダンの原理に支配されたインターネットのカオスを表現していたのであった。今度は同じ手法を地獄の表現としてやるわけで、場面ごとに写実風であったりシュルレアリスム風であったり印象派風であったり抽象画風であったり実写取り込み風であったり、そしてそれらを同一シーンの中で混在させたりするからこれはかなり尖っている。もう序盤からして最新のCG技術で超リアルにシミュレートされた水の波紋と3DCGで作られたモデルにセルルックな少年マンガ風の絵を貼り付けた主人公スカーレットが並んで違和感バリバリ、これが意図的なものであることはまぁなんていうかちゃんと画面さえ見てりゃわかると思いたいが(思いたいが)、とはいえ一般的な娯楽アニメしか見ない人ならアート教養のない人がピカソのキュビスムを見て「幼稚園児の絵じゃんwww俺でも描けるwww」とか言ってしまうかもしれないように、単に下手なアニメと見えてしまうかもしれない。

それはこの映画が娯楽アニメ大作として作られつつその内実は現代アートやアートアニメの領域に接して部分的にはそちら側に突き抜けてしまっているということなので、娯楽アニメ映画としては失敗かもしれないし、一方アートアニメ映画としてもアートになりきれているわけではないので中途半端かもしれないが、だからこそというか、かなりグッと来てしまう。俺は今までに観た細田守の映画は全部嫌いで観るたびにこのブログでボロカスに貶してきたのだが、それは細田守がいつも安全圏に閉じこもって自分にとって都合の良いものだけを見、そして描いているという保守的な作家性が気に食わないからだった。けれどもこの『果てしなきスカーレット』で細田守はその実験的なアニメーションからしても、優しさも情もない戦争と殺戮に満ちた世界を正面から捉えようとするシナリオからしても、細田守は従来自分が描いてきた安心安全なぬるま湯の世界から飛び出そうとしたように見える。みなさんはこんな言葉をご存じだろうか。華々しい失敗作、それが真のアートである。誰も知るわけないな。なぜならたった今おれが考えた言葉だからだ。

エンドロールを見れば監修にシェイクスピア研究者の人がついているし、台詞主体でカメラはフラットなマスターショット、そのために平板な印象を受ける演出は、おそらく意図的に古典演劇を模倣している。ところどころ入る唐突なミュージカルシーンは、察するに死と暴力に抗する生の躍動や衝動が意図されている。でもそれが効果的に機能しているとはあまり感じられない。人類史を貫く戦争と、それをどう赦すのかという巨大なテーマは宮﨑駿に迫るものだが、シナリオの底は案外浅く、巨大なテーマを扱いきれていないように見える。

たぶんこの映画はコケるし、多くの人が気に入るものではないだろう。絵そのものはクオリティはとても高い。パーカッションを主体にした岩崎太整の音楽もクール。まるでパク・チャヌクの『親切なクムジャさん』のようなカットバックで見せる序盤のシークエンスは編集のリズムがとても心地よかった。そんなふうに、部分部分は良かった、というのが大抵の観客の感想になるんじゃないだろうか。良いところは良いけど、うーん、全体的には、そうだなぁ……みたいな。俺がこの映画を見ながら思い浮かべていたのはソクーロフの『独裁者たちのとき』なのだが、ソクーロフ映画を万人に理解してもらうのは完璧に無理ですよ。いや、さすがに偉大なるソクーロフと細田守を同列に論じる気は全然ないが……。

でも、せめてスカーレットの地獄巡りの終着点がどこだったか、それが何を意味するかということぐらいは考えてもらいたいものだ。16世紀デンマーク、地域の盟主であった軍事大国が、覇権と武力を失う転換期。それをこの映画は肯定しているのか否定しているのか、そこにどんな可能性を見ているのか、ということ。まぁ言うまでもないんじゃないすかねと思いたいが。

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カモン
カモン
2025年11月22日 6:58 PM

なるほど…自分も細田守は世評高い『時かけ』含め受け容れがたいんだけど今回はなんかキャラのデザインからして様子が違って(皆前作の歌姫ベル寄りになって)いて妙に気になったのはそういうことか…