大学生の頃に観てたらめっちゃハマってたかも映画『旅と日々』感想文

《推定睡眠時間:0分》

大学には行ったことがないんですけどもし俺が映画好きの大学生だったらこの映画は素晴らしい大傑作だと吹聴してたんだろうなーとか思ってしまった。べつに悪い意味ではない。なんかあるじゃん、大学生が「これがわかる俺はすごい」って感じがちな映画って。『ベルリン天使の詩』とか。『ベルリン天使の詩』は良い映画かもしれないけどよくわかんない映画でもあるよね。それでそういうよくわかんなさを「俺はわかる」って思いたい年頃ってあるんだよ。そういう年頃によくわかんない映画……余白が多い映画と言ったほうがいいのかな……そういうのを観ると、まぁ大絶賛するよね。でもなんで絶賛するか本当は自分でもよくわかってない。どの点が優れているから絶賛しているかと問えばうまく答えられない。それでなにやらポエムめいた言辞ではぐらかして……って悪く言ってるだろこれは! 悪い意味でしかないだろ!

そんな『旅と日々』は別に悪い映画ということはなく、ただかなり意識的に逸脱を多用する明確なプロットのない、そして雪原のように余白のたっぷりとある映画であるから、そういうファンが付くんだろうなぁと観ながらずっと考えていたのであった。俺にはわからない。たしかに撮影は面白く、これはつげ義春の原作を二本合わせて「つげ義春原作の映画脚本を依頼された脚本家」の物語の中に劇中劇として「その脚本家の書いたつげ義春原作の映画」が組み込まれた入れ子構造という面倒な作りになっているのだが、つげ義春の迷宮的な世界観におそらく迫ろうと被写界深度の深い画作りを多用する。アスペクト比はスタンダードなので被写界深度を深くすると被写体の周辺映像が画面に入らず、したがって風景が立体感を欠いた前も後ろも無い意味を剥奪されたキュビスム的な絵になるんである。こういう意味を剥奪された風景というのは俺もすごく好きで無意味なスマホ風景写真をよく撮っているが、しかし、だからなんなの? なんである。

映像はおもしろい。でも俺にはそれだけの映画にしか見えなかったな。メタフィクションの入れ子構造は何を伝えるためのどんな効果を果たす装置だったのだろう。あらゆるところで作り出される逸脱(たとえば、ややズレて挿入される劇判というのもそうだ)は何からのどんな意味を持つ逸脱だったのだろう。そこに観客が解釈をつけることはおそらく難しいことじゃない。だってこれは何の答えも提示しない余白だらけの映画だからな。まぁスランプ気味の脚本家が人生の脱線=旅をすることで創造力を回復するぐらいのゆる~い答えは一応あるけれども、それ以外の部分はみなさんご自由にの自由帳である。その自由帳に自分だけの解釈を書き連ねることは人によってはとても楽しいことだろう。

でもこういう、解釈のために用意された余白というのはなんだか空虚なものじゃないだろうか。高い技巧に支えられた映画であることは間違いないけれども、その技巧にどうしても作り手の「自分はこれが作りたい」とか「これをどうしても撮らなければ」が見えなくて、人から評価されるためにあえてやっている余白であり無意味であり逸脱であるというような印象を受けてしまう。だから面白い場面やショットはたくさんあって、中には暴風雨の中での海水浴という現場の過酷さが察せられる力の入った撮影もあるのだが、その過酷さに反してそこから伝わってくるものは俺の場合はとくになかった。最近の新進映画作家に参照されることの多いエドワード・ヤンの影響を濃いめに感じるのもそれに拍車をかける。またか、という感じで。

楽しく観たのはたしかだけれども、俺はこういう技巧的だけどソウルを感じられない映画よりも、映画に関するあらゆる技術力が最低で予算は800円で余ったトイレットペーパーの芯を切ったりセロテープでくっつけたりして小道具を作っているようないろいろと終わっているが作り手の狂気にも近い熱意を感じられる映画のほうがおも……いや、そこまで底辺の映画だったらさすがに『旅と日々』の方が全然面白いわごめん!

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