《推定睡眠時間:20分》
河西晃祐という人の『大東亜共栄圏 帝国日本の南方体験』なる本が手元にあるのだが、これを読むと大東亜共栄圏構想にも日帝らしく一本筋の通ったものはなかったそうで、時の情勢(おもにドイツとヨーロッパの動向)に左右されながらほとんど場当たり的に形成されていったらしい。それも面白いのだが当時の(本土の)市井の人々が南方をどのように見ていたかということを検証している部分がたいへん興味深かった。実際には資源獲得の意味合いが強かったとしても国民向けには大東亜共栄圏はアジアの欧米植民地支配からの解放というお題目が唱えられていたわけで、そうしたプロパガンダによって南方は敵視すべきものではなく、本土住民の同胞であると同時に日本にあたらしい風をもたらすフロンティアとして、あくまでも明るく優しい、一種の憧れされまとうイメージで捉えられていたようなのだ。
『ペリリュー』の舞台となるペリリュー島はミクロネシア諸島の小国パラオに属し、パラオは第一次世界大戦以前はドイツ領だったものの、第一次世界大戦中に日本軍が無血占領したのち、第一次世界大戦終結後に国際連合から委任統治が認められることになったのだとか。一般に大東亜共栄圏というとその構想によって日本と協力関係を結んだ(結ばされた)国々を指すだろうが、地理的にはパラオを含むミクロネシアも大東亜共栄圏内ということになる。映画の主人公である漫画家志望の田丸一等兵は冒頭でスケッチブックにペリリュー島の美しい風景を描いていて、その言葉は戦時中にもかかわらずまったく楽観的なのだが、そうした背景には大東亜共栄圏プロパガンダがあるんだろう。単なる一兵卒でしかない田丸が政府や軍上層部の血なまぐさい現実など知るわけもなく、彼にとってのペリリューは希望に満ちた場所だったのだ(これには大東亜共栄圏構想以前から日本領に組み込まれていたため日本兵と住民の間に比較的良好な関係が築かれていたというパラオの特殊事情も影響しているものと思われる)
しかし時代設定は1944年。ということは太平洋戦争末期であり、もはや勝ち目どころか南方領土維持すら政府には放棄されていたので、ぶっちゃけ田丸らペリリュー島に派遣された兵士たちは本土決戦を遅らせるための捨て石に過ぎなかった。てなわけでのほほんのんきに始まるものの以降は基本的にずっと地獄絵図、そんな中で田丸は戦場の悲惨な死を美談に偽装する功績係に任命されて部隊の兵士たちを観察・記録していくのだが、やがて連合国軍の圧倒的な火力にやられてジャングル敗走、パワーで敵わなければ持久戦だ、絶対に諦めずに天皇陛下のために戦い続けるのだ! という上官の鶴の一声によって田丸たちはジャングルに潜伏して駐留米軍から物資をちょこちょこ奪いながら一年二年と反撃の機会を伺うのであった。あれー、でも1944年から一年二年ということは……。
日常系ギャグ漫画みたいなかわいらしい2頭身キャラが凄惨な殺し合いを展開するというギャップの面白さは『ユニコーン・ウォーズ』などがやっていたが、『ペリリュー』の面白いところはそこに単なる見た目のインパクトだけではないメタフィクショナルな意味合いが付与されているように見えるところで、なにせこれは功績係の主人公が兵士たちの大抵はカッコよくも美しくもまったくない無残な死をヒロイックなものに描き換えていくお話なわけである。言い方を変えれば主人公は絵を描くことで内地の無知なパンピーを美化された戦場に送り込む役目を(実際は不発に終わったが)果たすプロパガンダ要員なわけで、ここでは漫画のプロパガンダ性がひとつのテーマになっているのだな。
可愛らしくデフォルメされたアニメーションの中にときおり実写映像(残留兵が米軍基地の『キング・コング』上映会をのぞき見してアメリカはこんなにリアルな特撮映像を作れるのだから新聞にあった日帝敗戦の報道だって俺たちを騙すための作り物に違いない! と言い出すのが可笑しい)が入ってきてそれが戦後も戦争終結を認められずゲリラ戦を続ける田丸たち敗残兵の閉じ込められた空想世界に対する現実を指し示すのも面白い表現なのだが、この実写映像の中に日本最初の長尺アニメ映画にして太平洋戦争プロパガンダ映画である『桃太郎の海鷲』が入っているのは確信犯でありましょう。漫画やアニメは冗談ではなく時として人を殺す兵器になる。だからこそ田丸が功績係として描き続けた兵士を戦場に送り込むための漫画を、逆に兵士を内地に還すために利用する終盤の展開は感動的だ。漫画やアニメの加害性や暴力性、危険性に正面から向き合うことで、それだけ人の心を動かしてしまうのなら逆に人を救うこともできるだろうという、これは漫画やアニメの反語的な賛歌なのだ。
アニメーションということで言えば制作は日本の児童向けアニメの老舗シンエイ動画なのだが、シンエイ動画のアニメで俺が好きなのは情感豊かな自然描写で、シンエイ動画の看板作品といえるドラえもんなんかは日本人の99%になんだかんだナメられているのでほとんどその点が指摘されることはないが、映画ドラえもんの『のび太の創世日記』や『夢幻三剣士』に見られる植生描写なんか素朴でありつつ繊細な水彩の絵が素晴らしい。それは『ペリリュー』にもしっかりと引き継がれて和紙の滲みを再現したと思しき柔らかな水彩で描かれるペリリューの自然がこの映画のアニメーション的な見所(人間の生死など取るに足らない自然の強靱な生命力はこの映画の裏テーマだ)、それに比べると小手先の技巧と言えるが光量の少ないナイトシーンでは映像にノイズが乗るなどドキュメンタリー的な仕掛けもあったりして、こういうテーマとか題材の映画だとどうしてもその点に目を奪われてアニメーションとしての面白さは無視されてしまいがちだが、アニメーションとしてよく練られ作り込まれている、というのは『ペリリュー』のとてもよいところだし、これは原作がヤングアニマルに連載されていた戦記漫画らしいが、映画化した意義と言えるんじゃないかと思う。それにしてもヤングアニマルなんかいつも表紙に爆乳グラドル載せてる低俗漫画誌だと思ってたのにこんなちゃんとした漫画を連載していたことに驚く。すいませんでした。
一聴してすぐに川井憲次とわかるエモい劇判が思い起こさせるのは押井守の台湾放浪映画『ケルベロス 地獄の番犬』。あぁ、そういえば『ケルベロス』も敗戦(=東大安田講堂陥落、学生運動の衰退)を認められずに迷宮を彷徨う敗残兵の映画だったねぇと思えば感慨深いというか、終盤の展開には68年学生運動の末期を思わせるところもあって、最近妙に68年づいている俺としてはグッと来るところがあった。案外これは『ONODA 一万夜を越えて』みたいな類似題材の映画だけじゃなく『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』なんかとも併せて観ればより一層楽しめるのかもしれず、日帝に留まらず現在までしっかり続いているように見える日本人の敗北認められない病みたいなものを突く、視野の広い映画なのかもしれない。うーん力作。
※田丸がスコールで体を洗うために全裸になるシーンでしっかりと田丸と戦友のこどもちんこが描かれていたのは実にエライと思う。シンエイ動画とこどもちんこと言えば言うまでもなく『クレヨンしんちゃん』なわけだが、いつからか児童ポルノ判定を(おそらく)恐れてしんちゃんはこどもちんこを出さなくなってしまったので。ちんこもまんこも形はいろいろあるだろうが基本的にすべての人間についてるものなわけで、しかもそこから人間が生まれてくるのだから、そんな当たり前のものを恥ずかしがったりしてどうするの、と個人的には思うのである。見せていこう、こどもちんこ!
シンエイ動画、ドラえもんとしんちゃんを作り続けてる弊害か分かりませんが、
それ以外の作品で自ら宣伝をするノウハウに乏しいとも思いました。
トリツカレ男でも「ロボとーちゃん監督の最新作!」と大々的に言っても良かったんじゃ?と思ったり。
トットちゃん、あんずちゃん、トリツカレ男を立て続けに見たので「どうか映画オリジナルの作品でヒットして欲しい」と応援しています。
劇場公開作品の場合、基本的に宣伝の責任は配給会社にあるので、東映配給の『ペリリュー』だと「東映ホント宣伝下手やなぁ……」みたいな。このあいだ興行が大失敗したばかりの『Chao』も『宝島』も東映配給なんですよ(『ペリリュー』は今年の東映配給作品の中ではかなり人が入ってる方だと思います)
『トリツカレ男』は配給がバンダイナムコフィルムワークス。映画事業のノウハウが浅いので上手く売り込めなかったのかもしれません。シンエイ動画、近年クレしんとドラの二大巨頭以外にも本当に質の高い作品を送り届けてくれてるんですが、売れ線の内容じゃないし、配給会社はどう売り込むか苦慮してるのかなぁと思います。