そこに愛はあるんか映画『手に魂を込め、歩いてみれば』感想文

《推定睡眠時間:0分》

いつも通り新作映画はタイトルとジャンルぐらいしか調べずに観に行くのでこの映画のポスターを見たのは上映館に入ってチケットを買ってからだったのだがそのポスターには「痛烈で衝撃的」みたいな感じの惹句が書かれていてあれっ、これは……とちょっとイヤな予感がしてしまう。以前にも内戦中のシリアで暮らす人にフランスかイギリスかに亡命したアラブ系の映画監督がスマホで遠隔取材した映像をまとめた『シリア・モナムール』という映画があったが、フランス在住のイラン亡命女性インディペント映画監督がガザ北部で暮らす若い女性のフォトジャーナリストにスマホ遠隔取材する『手に魂を込め、歩いてみれば』も手法的にはほぼ同じで、違いと言えば『シリア・モナムール』はポエティックなところがあったのに対して『手に魂を込め、歩いてみれば』はジャーナリズム、というかガザ在住のフォトジャーナリストのインタビューに徹している、というところだろうか。良くも悪くもインターネットとスマホの登場で世界は狭く小さくなったもんである。

イヤな予感というのは、まぁこういう内容、そして取材時期が2024年の春だからガザの人道危機が強まりだした頃かと思うが、それで「痛烈で衝撃的」ってさあ……それはもちろんいろんなラストの可能性があるとはいえ、「衝撃的」って言ってるんだからそしたらだいたいどんなラストか決まったようなもんじゃないの。何がイヤってそれがツラそうだからイヤなんじゃないの。俺はサイコパスですから知らない人がどんな残酷な目に遭おうがなんの共感も同情も覚えないんですが、そのね、なんかさ、んー、現在進行形の人道危機を、しかもそのドキュメンタリーをですね、ドキュメンタリーというかほぼ全部ガザのフォトジャーナリストのインタビューなんですけど、「痛烈で衝撃的」ってフィクション映画みたいに消費するのは……どうなの?

まーこの映画を日本で配給したユナイテッド・ピープルというのはなかなか気骨のある社会派の会社で、そんなですね悲劇を消費しようなんてゲスい意図はなくて、義憤とか使命感がこの映画の配給理由で、この現実を多くの人に観てもらいたいから「痛烈で衝撃的」みたいな煽りを入れてるのはわかる。現実的な問題として映画は興行だからお客さんを呼べないと今後の活動が続けられないとかもあるしね。でもやっぱ抵抗感が出ちゃうなこういうの。難しい問題ですねぇ。そこに難しさを感じてるのは俺ぐらいでみんなは気にしていないと思うが……。

売り方の話はさておき映画についてであるが、このフォトジャーナリストの人ファトマさんはえらい笑顔の眩しい人で撮る写真はかっこよく思考も鋭敏かつ力強くとうーん逸材、生き延びてこの才能を生かすことができていたらとか思ってしまうがそんなことを言ったら彼女ほどの才能に恵まれていないもっと一般的なガザ侵略被害者の方々が浮かばれないのでそういうことは言わずに胸に秘めておこう(言ってしまったが)。この人に取材する監督はイラン政府の弾圧を逃れてフランスで暮らしてる亡命イラン人というのがこの映画のポイントである。

中東の大国イランはイスラエルの国家承認を行っておらず、イスラエルは不法占拠という立場からガザの統治組織であるハマスとも繋がりがありイスラエルとは散発的に武力衝突を繰り返し、核保有国であるイスラエルに対抗して核開発を行っている「抵抗の枢軸」とも呼ばれる国である。それだけなら根性のあるナイスな国じゃないかと言いたくなるが国内においてはイスラム指導者を政府の上に置く事実上の独裁を敷いており、反体制派の締め付けは死刑も辞さないほど厳しい(それを言ったら中国とかロシアも反体制派を公然と殺してはいるが)。とくに悪名高いのは女の人のヒジャブ着用強制。これに対する反発が抗議者の死もあって全国規模のデモに発展したことは記憶に新しいが、そんなわけで国家に弾圧されフランスに亡命したこの映画の監督にとってヒジャブやイスラム教は抑圧の道具としか映らない(ちなみにヒジャブ着用令はデモ後の政権交代の影響などもあり、現在ではかなり緩和されているらしい)

一方、この監督とスマホでやりとりするガザのファトマさんは敬虔なムスリムで常にヒジャブを外さないしアッラーがいるからなんとかなるみたいなことを言う人である。二人のやりとりはあくまでも友好的かつ和やかなのだが、これはなかなか緊張感を帯びた関係性、イランでの弾圧経験からイスラム教を抑圧の道具としか思えない監督はちょいちょい「信仰は自分の意志なんですか?」とか「ヒジャブを取ってみたら?」とかファトマさんに言ってみるし、ファトマさんが無邪気に平和になったらイラン行ってみたいなーとか言って監督がうんあなたは楽しめるかもね……とか口を濁すという場面もある。反イスラエルのイランはガザ住民にとって敵の敵は味方みたいな感じで少なくとも悪い存在ではないと思われるしそれがファトマさんがイラン行ってみたいけどねーなんて言う背景じゃないかと思うのだが、監督は反イラン(現体制)の立場なのでそれを快く受け取れない、そしておそらくそのためにいくぶん誘導的な、イスラム信仰やイラン(そしてイランの体制と繋がるハマス指導部)に対する批判をファトマさんの口から引き出そうとしているように見える質問をするんである。

これはなんだろう、と観ていて感じてしまった。二人の会話は結局最後までぎこちなくほとんど交わることはない。連帯とかそういう感じでもないし、かといってジャーナリズムに徹しているわけでもないので深い取材はできていない。というか取材する気はあるのだろうかと疑問に思ってしまうところもある。ファトマさんは『ショーシャンクの空に』が好きだと語りその台詞を諳んじるのだが(劇中の死刑囚ティム・ロビンスとガザに幽閉された自身の立場を重ね合わせているんだろう)、その映画を知ってるかと問われて監督は知らないと答えるんである。インディペンデントだとしても欧米を拠点に映画監督の仕事をしている人が『ショーシャンクの空に』を知らないのはさすがに勉強不足じゃないのと思うのだが、たぶん問題があるとすれば『ショーシャンクの空に』を知らなかったことではなく、それについて調べようと(劇中では)しなかったところじゃないだろうか。

俺からするとそれがなぜなのかわからない。取材をするとなれば相手に合わせるのは当たり前だし、ていうか取材じゃなくても安全圏に住んでいる自分がもしガザの人と直接やりとりをすることになったらと考えると、そこは多少面倒くさくても接待モードになって、そのガザの人に楽しんだり喜んだりしてもらおうとするんじゃないかと思う。だからガザの人が『ショーシャンクの空に』を好きだと言ったらあー俺もそれ超好きーマジ泣けるよなー! と、本心から思っていないとしても(いや『ショーシャンクの空に』は本心でも大好きですけれども)俺だったら言う。スマホの画面は見えるわけだからそれにPCモニターとか映してレンタルビデオ屋で借りてきた『ショーシャンクの空に』のDVDを見せるぐらいはするんじゃないだろうか。

それはイスラム信仰についても言えることで、俺自身はムスリムでもないしアッラーも信じてはいないけれども、もしガザの人がアッラーを信じているのなら、それは先の見えないいつ死ぬかわからない状況で縋るような思いだろうから、大丈夫ですアッラーが守って下さる、まぁ知らんけど死んでも天国行けるしなたぶん、とかまぁそういうことは多少、いやかなり無責任だとしても言うだろうし、たとえウソでもイスラム教に関心を持ったフリをしてガザの人にイスラム教についてあれこれ教えてもらい期間限定の偽信者にでもなるだろうと思う。まぁどうせ通話終えたらムスリムコスプレ取ればいいだけだしな。

自分とまるで境遇の異なる人に取材して深い話を引き出そうとするならそれぐらいの譲歩は最低限必要なんじゃないだろうか。あるいは取材の役に立たなくても、2024年春の時点でガザ北部に居を構える人というのは間違いなくフランスで暮らすよりも過酷なのだから、その過酷さを少しでも和らげてあげるために一時的に自分の主義主張を捨ててそうした譲歩するというのは、人として当たり前とまでは言わないが、可能であればできてほしい優しさなんじゃないだろうか。それがこの監督にはできていなかったように俺の目には見えた。だから正直なところ、これはイヤなドキュメンタリーだと思ってる。監督に悪意はないかもしれない。というか無いと思うが、しかし死せる人に対する優しさもまた感じられない。言い方は悪いかもしれないけれども自分を映画業界で有名にするためにファトマさんを利用しているようにさえ見えてしまうんである。

それはそう見えているだけで実際はそうではないかもしれないとしても、はたしてこの監督に自分がそうなってはいないかという自己反省や逡巡があったかは甚だ怪しい。個人的な美学というか価値観というか、ともかく個人的には、俺はこういうタイプの映画人をあまり信用しないし、評価したいとも思わない。ガザの状況や映像、生存者のインタビューなら、英語になるがアルジャジーラ英語版のサイトでいくらでも、かつもっと濃いものを見ることができる。この映画はファトマさんという一人のガザ住民の生きた記録としての価値はあると思うが、ガザでどういうことが起きているかを周知するのであれば、俺だったらこの映画を勧めるのではなく、アルジャジーラ英語版を見たらいいぞと言う。なので、URLを貼っておきましょう→ https://www.aljazeera.com/

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