『世界で一番ゴッホを描いた男』よかった感想

《推定睡眠時間:0分》

太客に招かれてアムステルダムのゴッホ美術館を皮切りにゴッホ足跡巡りの旅に出たゴッホ以外に神はなしな模造画職人シャオヨンが『夜のカフェテラス』に描かれたアルルのカフェでゲリラ的に模造画ライブペインティングをやる場面がある。
撮影当初からかどうかは知らないが(違うんじゃないかなぁ)たぶんそういうプロジェクトとしてのドキュメンタリーなんだろう。

映画はゴッホ巡礼で霊感を受けたシャオヨンがついに自分のオリジナルを…みたいに構成されているがシャオヨンだってそんな何も考えてなかったわけじゃないだろうからいつかオリジナルを、と思うところはそれ以前からあったはずなんであるっていうかたぶんオリジナル制作してたんである。

パスポートを申請しに故郷に戻ったシャオヨンが涙ながらに監督ユー・ハイボーに打ち明ける。俺は学校に行かせてもらえなかった。小卒なんだ俺は!
この監督と出演者の距離は近い。シャオヨンと妻が半裸でベッドに入ってるところにカメラを置く。旅先で悪酔いしたシャオヨンがゲロ吐いてる場面もバッチリ活写。

シャオヨンを撮る、というよりもこれぐらい距離が近いと二人で一緒に映画を編み上げていく感じになる。
そういうわけで監督と出演者が幸せな共犯関係を結んだ森達也の『FAKE』みたいなシャオヨン売り出しアートプロジェクトとしての『世界で一番ゴッホを描いた男』。と個人的には受け止めた。まぁこっちもFAKE職人の映画ですから。

FAKEと言いつつシャオヨンとその周辺の画工たちが描いているのはそれっぽく本物に似せた模造画で、模造画として売られてんので別に犯罪的なものではない。
で、その模造画を描いている人の売り出しドキュとして見た結果どうなったかというと糞泣いた。こんな映画は少なくともその物語においては嘘に違いないが嘘物語だからこそ堪えられない。

そりゃあだってゴッホにしても嘘で塗り固められた神話的物語を通してしか後世のわれわれはその姿に触れることができないわけですからね。
その嘘の美しさはシャオヨンと深セン油画村(村というが深センなので大都会の一角)の画工たちが『炎の人ゴッホ』のプライベート上映会を開いてカーク・ダグラスの演じるゴッホに見入る場面に刻まれていた。アート・スピリットは嘘と偽物を通して受け継がれるのだ。

実に超感動的な場面だったがそれにしてもメタ的な場面である。この映画を見る奴だってゴッホの悲惨な境遇とシャオヨンのそれを重ねて、シャオヨンが『炎の人ゴッホ』のカーク・ダグラスを見るようにシャオヨンを見るわけだから(おれはそうでした)。
プロジェクターの放つ光を魔術的に、まるでファンタスマゴリの集いのようにその場を切り取る映画だから幻惑的なメタ仕掛けは意図的なもんだろう。結構、挑発的な映画である。

写真と絵の対比、写実を描きたい個人と写実を求めない市場の対立、リアルとフェイクの相補性。美しい嘘を見せながらその嘘を暴く自壊的な両義性。
色々あるがともかく映画が語るのは美しい嘘の世界に生きてきた模造画職人シャオヨンがその世界が嘘でしかなかったことに直面して、嘘に打ちのめされて、けれども嘘の中に創造の可能性と抑えきれない創作の衝動を発見するという美しい嘘だった。

ずっと誰かのために生きてきた。ずっと誰かのために描いてきた。ずっと誰かのつもりで描いてきた。でもおれは今おれだけのためにおれとして絵を描いてみたいんだよ、とでも言うように帰国後のシャオヨンはゴッホ風のタッチで、ゴッホが見たのではない自分が見た風景を描き出す。
疲労だけ二枚も三枚も着込んだ半裸の男どもが模造画の制作に打ち込む工房、顔面ぐしゃぐしゃの貧乏祖母、その住む町。

その時のシャオヨンの表情は模造画制作の合間に家族サービスで東武ワールドスクエア的なつまらないテーマパークを訪れミニチュアの凱旋門にエッフェル塔なんかを写真に撮りながらほらほら、ヨーロッパ旅行に行ったってコメント付けてSNSにアップしな、なんてヘラヘラ言ってた時の表情とは全然違うのだと言ったらそれも嘘なのだがたとえ嘘だとしてもそう見えてしまうしそう見たい。

嘘嘘とばかり書いているが別にフェイクドキュメンタリーとかそういう意味ではないのであって、嘘に塗れた映画だから不意に飛び出すリアルが重いというところもある。
シャオヨンとはまた別の油絵村の工房親方が酷薄給で働く若手画工に何度も何度も直しを要求するとついに若手キレる。もう直しません。いやダメだ直せ。やらない、帰る。ふざけるな納期はどうなる。描かない! 描け!

かなり微妙な出来のたった一枚の模造画のためにこんな一触即発状況が生まれる底辺画工の悲哀とチャイナ大格差社会に泣く。
でもその絵が本当にかなり微妙な直した方がよさそうな出来なのでちょっと笑ってしまいそうになるあたり、やっぱ一筋縄ではいかない映画である。両義的なのは嘘ではなくて現実の方だ。

あぁ素晴らしいなぁ。だいたい俺は嘘を探しに映画館に行っているようなものなのでこれも嘘だけど、嘘かもしれないけど、むしろ嘘だからこういう映画は素晴らしいと思えます。空前絶後の嘘賛歌。もちろんそれも嘘かもしれない。

【ママー!これ買ってー!】


銀河の壺なおし〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

シャオヨンが世界で一番ゴッホを描いた男ならこっちの主人公は銀河で一番ツボを直した男。銀河で一番ツボを直したので銀河の果てに住む謎神様にその手腕を買われて聖なる惑星に招待された。これで貧困生活ともおさらばだ。あれ、『世界で一番ゴッホを描いた男』と同じ話じゃない!?

…という、嘘と偽物のテーマでパルプなSFを馬車馬の如く量産したが全然貧乏から抜け出せなかったフィリップ・K・ディックの怪作。
『世界で一番ゴッホを描いた男』を見ていてこれのラスト一文を思い出したが、その一文は旧訳と新訳で意味が真逆になっているという両義性がまたなんとも。

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