越境上等映画『ボーダー 二つの世界』感想文(観た人向け、ネタバレあり)

《推定睡眠時間:0分》

運命のふたりが全裸で森を駆けずり回っている場面を見ていつかどこかでこんな絵を目にしたような、とデジャヴュを覚えるもののデジャヴュの源がわからない、とりあえず仮題としてパッと浮かんだ『ダフニスとクロエ』の文字列をそこにタグ付けするが絵のタイトルとしてというよりもなんとなくその場面に合っている気がしたラヴェルの曲名としてである。まさにラヴェリング、などという糞みたいな駄洒落はまぁいいとして…。

というわけで観賞後、デジャヴュの源を見つけようと『ダフニスとクロエ』を検索してみると出てきた画像はやはり俺の頭に浮かんだ絵ではなかったものの、元々は古代ギリシアの恋愛物語のタイトルとのトリビアを得る。
コトバンクに書いてあったあらすじによるとなんでもダフニスとクロエの二人はともに捨て子、それぞれ別の牧人に拾われてやがて結ばれることになるがいろんな災難に見舞われ前途多難波瀾万丈、しかし最終的には二人とも貴種であったことがわかりめでたしめでたしとなる貴種流離譚とのこと。

想像とは違ったがなにそれちょっと『ボーダー』みたいじゃないの。映画を観ているとき時の直感というのは捨てずにおくと案外良い仕事をするものだ。これは直感というか嗅覚だったが、主人公のティーナも秩序立った思考ではなく感覚でお仕事をしているのだった。悪いもんを持ち込んだり持ち出したりしてるやつはいないか嗅ぎつける港の税関職員というのが彼女のお仕事、めちゃくちゃ精度が高いので…とあらすじに入ろうとしたものの『ダフニスとクロエ』が『ボーダー』みたいと書いてしまったので、観た人はわかると思いますがあらすじをすっ飛ばしてめっちゃネタバレである。いまさら観てない人に配慮する必要もないだろう。こんなの読んでる人はもう観てる前提で行く。

ちなみにそれからもいろいろ考えて結局これというデジャヴュ源は発見できなかったのですが、森の中に全裸で佇むティーナの姿はルノワールのふくよかな裸婦画を思わせないこともない、彼女は人間社会の臭いを洗い流すかのように夜の湖に入ったりするが沐浴する裸婦というのは原初的なものを志向する系の西洋絵画のメジャーな画題なわけだから、特定の作品を参照したっていうか物語に合せて古典回帰的な画作りをした結果があのデジャヴュ感なんじゃないかと思ったりした。

それこそ『ダフニスとクロエ』ぐらいまで戻ってやろう、現代が忘れた大事な何かがそこにはあるはずだ…といえば聞こえはいいが、その反現代の姿勢は生半可なものではなかったので現代のモラルに反してチンマン丸出し欲望丸出し、堂々のR18なのだった。そりゃあ古代ギリシアにレイティング制度なんてありません。

でもよかったですよね、この原作者ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストは『ぼくのエリ 200歳の少女』の原作を書いた人でもあるそうですが、『ぼくエリ』の方はシナリオ上で重要な意味を持つ性器描写に日本公開版はボカシを入れやがったのでどんなお話かということが正しく伝わらない事態になってしまった(そもそもこの邦題はネタバレの上にミスリードなのでもう全然ダメである)

よほど性器に拘りがある人なのか『ボーダー』の方でもスイッチング式両性具有がシナリオの上でもスイッチャーの役割を果たしていたわけですが、今度は作り物とはいえ性器がノンボカシで映っていてホッとした。あるんですね性器が映って胸を撫で下ろすことって。ここでも性器にボカシが入っていたら日本という国の文化的後進性に心底ガッカリさせられるところだった。表現物における性器は文明の尺度だ(そうだろうか?)

そんなことはともかく。いやぁ、まったく展開の読めないスリリングな映画体験だった。予告編を見てなんとなく周囲から邪魔者扱いされている不細工な女が特殊能力に目覚めて…みたいな話を想像していたのでティーナの人間社会の溶け込みっぷりにまず面食らう。税関職員の仕事があって使わないからそれなりに金もあって隣人とはそれなりに関係が良好で粗野で馬鹿な感じではあるが別に暴力を振るったりするわけではない夫がいて、ってたぶんかなり成功人生の部類に入るんじゃないすかこの人は、この大格差社会の世の中では。

でそこから人間の悪意で転落していくパターンかと思ったらそういうわけでもない。何か定型ルートにストーリーが入ろうとするとすぐハシゴを外して宙ぶらりんにしてしまうし、先を読もうとする観客を虫食いとか全裸疾走とかショッキングな場面で煙に巻く。マンからチンが生える展開を読めと言われても伏線もなにもないんだから読みようがないし、そんなもん急に出されたらもうどこに転がっていくのか全然わからん。ふつう、映画はストーリーの進行につれて謎が明らかになっていくものですが、この場合は衝撃の展開の連続にむしろ謎が深まっていくばかりだ(人間社会は結局トロール族をどう捉えてるんだろうか)

その手法が比較的初期のラース・フォン・トリアーと被ったので個人的にはトリアーが撮った『X-MEN』という印象。犯罪ミステリーの要素、ファンタジーの要素、トロール伝承の要素、チェンジリング伝承の要素、クローネンバーグ的生理SFの要素、あとこれはかなり妄想強めの推測ですがトロール族はかつて精神科病院に強制的に入れられており…という下りからホロコーストに先んじてナチスが実行した障害者絶滅政策を連想したのでそのへんも要素として入ってる可能性があり、人間にボーダーを設ける優生思想の反動として現れる反対側からのボーダー画定としてのユダヤ的選民思想、あるいは遊牧トロールの噂にはこちらもナチの迫害対象だったロマを重ねることもできるわけで要素過剰、この過剰な語り(饒舌な語りではなく)がまたトリアーっぽい。

なんとなく野暮ったい『ボーダー』のタイトルも多義的だ。スウェーデンとフィンランドの国境線のボーダー(というわけでティーナの職場は税関である)、生物学的な男と女を分けるボーダー(だから性器が重要なのだ)、現実と虚構のボーダー(そしてそれを攪拌させるリアリズム演出)、優生思想または選民思想が刻む優等人種と劣等人種のボーダー、善と悪のボーダー。世の中はボーダーでいっぱい。
半ば神話的な遊牧トロールを手がかりにそのボーダーを全部まとめて乗り越えて行こうとする男でも女でも人間でもトロールでも優性でも劣性でもないヒト(?)のお話と思えば、これまたどこまでも過激にボーダー超えを志向するトリアー精神が垣間見えるところであった。

説明の少ない作りなので寓話性高し、比喩多し、解釈自在。むずかしい映画では少しもないが観ながらあれこれ思考を遊ばせることができるという意味で、観る側のボーダーでガチガチの思考も越境させるボーダーレス映画だったように思う。おもしろかったです。

追記:
ボーダーといえば結婚はしているがティーナとベッドを共にしたことはないティーナの夫が彼女とヤろうとして太ももに手を伸す越境行為がちょっと沁みるところで、最初はこいつティーナを利用してるなーとしか思わないが(浮気もしてるし)一緒に住んでるうちに情が移ったような感じもあり、それが愛情というよりは性欲と酔いからの行動だとしても、それだけには収まらない切実さがあの手の動きにはあったように思う。
けれどもその生活を共にすることでのボーダーの自然崩壊をティーナは突っぱねるというわけで、ひじょうに厳しい、スウェーデン映画らしいといえばスウェーデン映画らしい映画なのだった(そこにはまた移民の同化政策と必然的に衝突してしまう移民の文化継承の問題も反映されているんだろう、たぶん)

【ママー!これ買ってー!】


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『エリ』の性器描写を踏まえて『ボーダー』の性器描写を観ると生の絶対的な肯定という感じでちょっと感動的なのだが、『エリ』の方は一応性器を出すキャラが小学生設定なので今後も無修正版は出ないんだろうなぁ。Netflixで配信されてるのも今確認したらボカシありでした。小学生(設定!)の性器のボカシの有無を確認するためだけの動画をチェックするとか変態のようだ。否定はしないが。

↓原作


ボーダー 二つの世界 (ハヤカワ文庫NV)

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さるこ
さるこ
2019年10月17日 12:25 AM

〉こんなの読んでる人はもう観てる前提で行く

こんにちは。
ははは!なんで分かったのかしら…

このふたりは、カタツムリなのでは?と思ってたら、カタツムリを食するシーンがあって、打ちひしがれました。
何か、いろんな事象を突きつけ試されているような映画でした。