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新型コロナウィルスのmRNAワクチン(みなさんが腕にチクリと注射したモデルナとかファイザーとかのあれです)の副作用・後遺症を題材にしたドキュメンタリー映画ということでまぁ昨今は事実の記録とか追求ではなく政治主張を行うことが目的の思想宣伝みたいなドキュメンタリー映画というのは珍しくないからこれもそのたぐいだろうとスルーしようとしていたら制作が日本の左派系ドキュメンタリーの老舗、テレビの『情熱大陸』を制作してるとことか是枝裕和を輩出したとことか言えば伝わるであろうテレビマンユニオンとわかり、それはちょっと目と耳を傾ける価値のあることじゃないかと思い直した。
実際ドキュメンタリーとしては演出があまり映画的ではなくテレビ的ってか医者・医学者版の『情熱大陸』みたいな感じだったのはマイナスといえばマイナスポイントかもしれないが、描かれること自体は可能な限り客観的で、題材に対する理解は深く取材の角度は広く、テレビマンユニオンの名に恥じない硬派かつ堅実・誠実なものであった。新型コロナ禍における日本のmRNAワクチン施策の評価・検証という非常に扱いの難しい題材を取り上げたドキュメンタリーと考えればこの右にも左にもブレない中道の姿勢は立派なもんじゃないだろうか。
とか書きながら思う。なんで扱いが難しくなっちゃったの? すべてのクスリは人体に投与することで何らかの反応を必ず起こすからクスリなのであって、その反応は身体にとって有益に作用することもあれば、有害に作用することもある。頭痛薬を飲めば頭痛は治まるかもしれないが代わりに眠くなったりするし、睡眠薬を飲めばぐっすり眠れるかもしれないが起きても頭がぼやぼやしたりするかもしれず、睡眠薬がないと眠れない依存状態になるかもしれない。コロナ禍最盛期にはクスリの作用に主も副もないのだから副作用ではなく副反応と呼びましょうという啓発が進んだものであった(副は変わっていない気がするが)
だからワクチンを含むクスリ一般が人体に悪影響を及ぼす可能性があるというのは当たり前の常識だったはずなのだ。ところがこれが、コロナ禍に入って一変してしまったように思う。ワクチンは絶対的な正義なのだという非科学的な態度、ワクチン信仰とでも呼べるものが蔓延ってしまった。誤解なきようこのへんで先に書いておくが、俺自身は無料で打てた分の新型コロナmRNAワクチンは全て打っているし、その判断をとくに間違ったこととも思ってない、てか非日常の体験ができて楽しくてよかった(そういう問題ではないかもしれないが)。でもそれはワクチンはなんでも解決してくれる万能薬だと思ったからじゃあなく、接種後に稀に心筋炎が生じるという穏やかならざる副作用も知っていたけれども、新型コロナに罹って死にそうな目に遭う可能性とワクチン接種の稀な副作用で死にそうな目に遭うリスクを秤にかけたときに、感染率の高さからいってワクチンを打って新型コロナを防いだほうがマシだろうと思ったわけである。
すべてのクスリは本来そのようなものとして理解されなければならないし、データに基づくそのリスク評価こそが科学的な思考のはずなのだが、こうした科学的思考が新型コロナ禍最盛期の日本にはたしてどれだけあったかといえば、甚だ疑問と言わざるを得ない。一例を挙げれば、ツイッターで有名な評論家だかエッセイストだかの人がいたのだが、その人はマスクをあまりしたくなく、マスクをつけずにスーパーに入店しようとしたら転院に追い出された、ということを不愉快な体験としてツイートした。するとこれに非難殺到、大炎上したんである。ここで考えたいのはなぜマスクをすべきかということで、一般的に言えばそれは新型コロナに限らず飛沫に乗ったウイルスの飛散を防ぐためなわけである。だからこの評論家だかエッセイストだかがめちゃくちゃ咳き込んでいるのにマスクをつけていなかったのなら「お客さんちょっと困りますよ、店のイメージもありますし……」となるのは分かる話なのだが、仮にそうではなく、単に「この店ではマスク着用が義務です」ということで退店させられたのなら、咳をしない人がマスクをつける意味は病院などを除けばほとんどないので(呼気によるウイルスの拡散はマスクでは防げない)、それは科学的な思考ではなく、むしろ科学的な思考の放棄であり、そしてそれがツイッターでは強く支持されていたわけである。
自分のことを振り返っても、一回目のワクチンを打つときはワクチン打っときゃ発症しにくくなるし重症化もまぁせんだろうとある程度考えて打っていたが、二回目からはなんか二度打った方が効果が高いってどっかで読んだぞぐらいになり、三回目ともなるとワクチン接種券もらったのに使わないの損だしなぐらいな感じでとくに考えることなく惰性で打っていたのであった。ここに科学的な思考はあるだろうか? と言われれば、まぁ恥ずかしながらあったのは最初だけなわけだ。ワクチンにしてもマスクにしても、それからソーシャルディスタンスとか手洗いとかに関しても、コロナ禍の初期には客観的に知識を集めて科学的に思考しようと努めていたと思う。けれどもコロナ禍が長引くに従いそうした思考は薄れていって、ワクチンもマスクもソーシャルディスタンスも、新型コロナ対策とされたすべてが前からやってたからとりあえず今もやってるという程度のものへと変質していったんである。
アメリカではワクチンに懐疑的なロバート・ケネディ・ジュニアがトランプ政権で厚生長官に就任したことにより、ワクチンを巡る問題はすっかり医学ではなく政治の問題になってしまった。ワクチンを絶対安全だと言い張るのも絶対危険だと言い張るのもどちらも非科学的なのに、そんな非科学的な神学論争をトランプ派の閣僚だけでなく大手報道機関や知識人までもが平然とするようになってしまったのだから、新型コロナ禍がいかに人々の頭脳に深い裂傷を残したか思いを馳せずにはいられない。ワクチンで5G電波がどうのとか異星人に変身するとかそんなファンタジーは100%ありえないが、mRNAワクチンの安全性は確立されていないなんてのは本当は誰もが少しだけ考えればわかる科学的な事実だったのに、新型コロナという未知の恐怖に直面して、多くの人が考えることを放棄してしまった。新型コロナに罹っても死ぬかもしれないしワクチンを打っても死ぬかもしれないなんて意地悪な選択肢にふつうの人間は耐えられない。だから、たとえ非科学的だとしてもワクチンは絶対正義とされたんじゃないだろうか。そこで少しでも感染を食い止めて人的・経済的な損失を減らしたい政府の思惑と、無情な死の恐怖から逃れたい大衆の願望が合致して、その防疫全体主義の中で科学は放棄されてしまったのだ。それはどこか原発神話と重なる光景なのだが。
この映画の中でさまざまな医師や医学者が主張する新型コロナmRNAワクチンの副作用はほとんどすべてが現時点では仮説であり、取り上げられている症状のひとつである心筋の断裂による死亡事例が新型コロナmRNAワクチン摂取を主因とするものかは、今後の入念な検証を経なければ明らかにはならないだろう(そのためこの映画でも断言はしておらず、あくまでも原因の可能性があるというに留めている)。ただしそれはmRNAワクチンが重篤な副作用を引き起こすことはない、ということについてもまた言えることなんである。その事実さえ今やすっかり忘れられてしまったかのようだが、元々新型コロナmRNAワクチンは従来のワクチンでは考えられない異例のスピードで開発・販売され、アメリカで緊急使用許可が下りたのち、日本でも安全性検査を大幅に省いた特例承認という形で市場に投下されたため、新型コロナ感染予防・重症化抑止のエビデンスは整っていても、長期的に、また微視的に見てどのような影響を人体に与えうるかを示すエビデンスは、なにせまだほんの五年前とかのことなので、無い。ようするに新型コロナのmRNAワクチンがどの程度の安全性を持つワクチンなのか、「科学的に」知っている人はこの世界に一人も存在しないんである(いたらその人は科学を理解していないのだ)
ワクチンも含めて、新型コロナ禍にわれわれが取った方針や行動がどのような益をもたらし、どのような害をもたらしたかは、いつか来るかもしれない次のパンデミックの被害を軽減するために充分に検証した方が良いに決まっている。けれども、そのような科学的な問いかけを提起しただけで反ワクだの陰謀論者だのと軽蔑され憎悪さえ向けられてしまうのだから、たぶんきっと、まぁ新型コロナ禍を受けて結党された参政党みたいな政党が今でも票を集めているぐらいだし、多くの人の心はまだまだ新型コロナ禍にあるんだろう。『ヒポクラテスの盲点』はそうしたことを考えさせてくれる映画であったなぁ。