死の運命から身体を取り戻せ映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』感想文

《推定睡眠時間:0分》

なぜ人間は子どもを産むのかという不思議は身も蓋もなく言うならば遺伝子にそうプラグラムされているからとかになるのかもしれないが、そこに何かしらの意味を見出すとすれば自分の生を肯定するためなんじゃないか、と数年前に一時反出生主義なる思想が哲学界隈で多少持ち上がった時に俺は考えた。一般論として自分の人生に否定的な人はあまり子どもを産もうという気にはならないだろう。なぜならその人にとって自分の人生は良くないものなわけで、人生の良し悪しの判断なんてのは大抵の人は自分の人生から導き出すほかなく、とすれば自分の人生に否定的な人は子どもの人生も否定的に捉えることになりがちなはず。

すると逆に、自分の人生に肯定的な人は子どもを産みやすい。なぜならこちらの場合にはその人にとって人生とは素晴らしいものなのであるから、子どもに人生を与えるということも素晴らしいこととして捉えられるはずである。とりあえずそういうものとして、今度はこれを逆から考えてみる。子どもの人生に否定的な親は自分の人生も肯定できないかもしれず、子どもの人生に肯定的な人は自分の人生も肯定するのではないだろうか。なぜなら、その素晴らしい(あるいは悪い)子どもの人生を産んだのは、自分なのだ。

20代前半という若さで大腸癌を発症、しかもステージ4のため完治の可能性はほとんどなしというかなり運の悪い人ががんの悪化や出産時の危険などリスクを負ってでも子どもを産もうとする姿を描く(といってもそのへんは主題というほど集中的に描かれるわけではなく、若年末期癌患者の多様なエピソードの一つという感じではある)この映画を観ながらそんなことを思い出したが、しかしどうも映画の中で末期癌の主人公が妊娠・出産に固執する理由はそれとは違うようであった。たぶんそれは死に対する身体の抵抗なのだ。

主人公が入院する病棟にヒカリというなかなかエキセントリックな若い末期癌患者がいる。この人は迫る死などなんのそのとエネルギッシュに喋りまくりチャチャカ身体を動かして今にも画面からはみ出しそう、その人がいよいよ今際の際、どこだか知らない砂漠のようなところに出かけて「ヒカリはヒカリだー!」みたいなことを叫ぶのだが、これは監督・山戸結希の前作『ホットギミック ガールミーツボーイ』の主人公がクライマックスで発する「私の身体は私のものだー!」の叫びの別バージョンのようであった。

『ホットギミック』は一人の女子高生を巡る生々しい性の絡み合いのドラマ、知り合った男たちから身体を搾取されている感じの主人公がその主体性を取り戻す物語といえるが、件の「私の身体は私のものだー!」はスカッとする台詞でありつつも、俺にはどうも嘘っぽく感じられたのであった。本当に「私の身体は私のもの」なのだろうか? 俺がそう疑問に思ったのは俺はうつ病に睡眠薬にアトピー薬に頭痛薬にと一日トータル6錠くらいの薬を服用しているためであった。もし「私の身体は私のもの」であるならば、俺の身体はもっと健康で、あんなこんな薬に頼ったりする必要はないだろう。明らかに、俺の身体は俺の意思を飛び越えて勝手に活動しているし、俺の意思ではどうにもならないことに強い影響を受けているのだ。

だから、「私の身体は私のものだ!」という当時流行していたフェミニズムのスローガン的な叫びは、身体に対する抑圧はもっぱら社会的なものであり、その障害さえ取り払ってしまえば身体は自由に活動できるのだとでも言うような、病気を知らない健康体のスローガンでもあった。重い病気は残念ながら患っていないとはいえ(残念だったな!)、健康体とは言い難い俺にそのスローガンが響かなかったのは当然だろう。俺の身体は悲しいことに、少なくともフルでは俺のものではないのだ。

山戸結希は10年ぐらい前に日本映画界のホープとして脚光を浴びた監督である……とわかったように書きつつ俺はこの人の作品を『ホットギミック』しか観たことがないのだが、ともあれ映画ファン界隈の熱狂は横目に眺めていたものだ。その山戸結希が映画ファンに衝撃を与えたのは『ホットギミック』を観る限りではエネルギッシュで前衛的な演出、そして秩序を壊乱せんとする身体の躍動にあるようであった。山戸結希の映画ではカメラも身体も走り、回り、跳ぶ。その映画の中で「私の身体は私のものだ!」の健康スローガンが発せられるのも当然であった(そして「あの山戸結希が難病映画を!?」と映画ファンを驚かせるのも当然であった)。

『ホットギミック』は早くも7年前の映画である。すると山戸結希が映画ファンたちに発見され脚光を浴びたのはもう10年以上前だろう。その歳月と加齢がどの程度作風に影響を与えたのかは定かではないが、『ママがもうこの世界にいなくても』では身体に対する見方が以前よりもずっと心細くなっているように思える。ここには身体に対する社会的な抑圧はまったくと言っていいほどない。その代わりに身体を抑圧するのが末期癌という病と、その先に待つ身体の死の運命であった。社会の抑圧は頑張れば解消することができるかもしれないが、少なくとも現代の医療水準では身体の死の運命はどうやっても回避することができない。もはや、「私の身体は私のものだ!」と解放的に叫ぶことはできない。せいぜい自分は死の淵でも自分なのだと叫ぶのが関の山で、その叫びこそが例のエキセントリック末期癌患者の発する「ヒカリはヒカリだ!」という現状維持の願いなのであった。

かくして主人公はリスクを冒してでも闘病中に出産しようとする。夫や父親には自分の身体を守ることが第一だからと強く反対されるがそんなことはお構いなし(といいつつ、映画自体は夫や父親の葛藤もしっかり描写する)。死にゆく身体から新しい身体が誕生するのだとすれば、それほど痛快な運命の抵抗はないではないか。ヒカリに一足先に旅立たれた主人公は死したヒカリの身体をその身に宿そうとするかのようにヒカリと同じような髪色に染めてみる。それもまた一つの身体の死への抵抗。あくまでも『ホットギミック』との比較で言うなら、抑圧を突き破ろうとする身体という主題は、表現的にはずっと大人しくなったこの映画の方が、よほどラディカルで、それに迫真性を帯びているように思う。

と、くどくど書いたところで世間的にはよくあるお涙頂戴難病純愛映画としてしか見てもらえないだろうし(そのよくあるお涙頂戴難病純愛映画も実際には『8年越しの花嫁 奇跡の実話』など力作ばかりなのだが!)、末期癌患者とその家族の不安定な生活や揺れる心情を細かく捉えたこの映画はもともと厚労省のがん啓発キャンペーンとタイアップしていたが、映画を観てもいない方々が悪の巣窟ツイッターで「こんなタイトルと内容の映画を癌啓発に使うなんて不謹慎だ! 癌患者の気持ちを考えろ!」と炎上させやがったためにタイアップ取りやめ、という難病映画蔑視に基づく残念事態さえ起きたのであった。

そんな映画じゃないのに可哀相だねぇ。ストーリーもテーマもしっかりしてるし良いシーンがたくさんあるんだけどな。夜の商店街で車道越しに主人公の川口春奈と夫役の高杉真宙が胸の内を明かすシーンとか。カット尺をあえて伸ばしてリズムをズラす編集、フラッシュフォワードやフラッシュバックの急な挿入、スマホカメラ、フィルムカメラ、デジタルビデオと多彩な機材を使用した非統一的なルック、などなど技巧派・山戸結希らしい凝った演出も地味に効く。それになにより川口春奈のお芝居が見事。高校中退のセミヤンキーから終末期までのグラデーションが素晴らしく、技巧に溺れず役者の演技をしっかり撮るというのは、かつての山戸結希の映画にはもしかするとなかったところなのかもしれない。

ところで、主人公夫婦は闘病生活開始と同時に犬を飼い始めるのだが、物語は数年間に及ぶため、その柴ワンちゃんが出てくるたびにデカくそして肥えていき、それがなんだか笑っちゃう。狙ったユーモアではないのかもしれないが、こういうのイイっすよね。

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