老老介護映画『VORTEX ヴォルテックス』感想文

《推定睡眠時間:10分》

認知症を患う妻(フランソワーズ・ルブラン)と心臓病を患う夫(ダリオ・アルジェント)の老老介護的ドラマがこの映画なのだが観ながら何年か前にアンソニー・ホプキンスが認知症老体を演じた『ファーザー』を思い出して、なかなか対照的な映画だなとか思ったりした。俺が松本俊夫の『ドグラ・マグラ』に影響された映画だと狂ったようにしつこく言い続けるも誰にも相手にされなかった『ファーザー』は認知症になっちゃったアンソニー・ホプキンスが時空間のバラバラになった迷宮ハウスの中をさまようことで認知症患者の見ている世界を観客に体験させるという作り。

『ヴォルテックス』の方はスプリット・スクリーンを使って画面を二つのスタンダードか正方形の画面に分割し、その片方では認知症により徘徊する妻だけを、もう片方では映画と夢に関する本を執筆している夫だけをカメラが追い続ける。『ファーザー』はほぼ認知症老人の見る世界のみが描かれたが、『ヴォルテックス』は画面を分割することで認知症患者とそれに翻弄される家族がそれぞれが見ている世界を同時に観客に観せるわけである。

だが対照的なのはそこではない。『ファーザー』は、これはなんというか認知症患者の視点で世界を捉えるというスタイルに反して、その理路整然としたカオスの在り方は、戯曲原作であることも関係しているのだろうが、実に健常者の世界観を感じさせるのだ。『ファーザー』のアンソニー・ホプキンスは理性が弱っているわけではない。理性は据え置きなのだが認知機能が低下しているので正常に世界が把握できない、トイレに行こうとしてその目には迷宮と見える家の中をさまよっていたらいつの間にか近所のスーパーに来ちゃってたみたいな、まぁだから目が見えなくなるのと方向性は近い。今まで目が見えていた人が急に目が見えなくなってしまったら、トイレに行ってお風呂に入って着替えをして朝食を食べて…みたいな思考に混乱はないが、どこにトイレやお風呂や洋服たんすがあるのかわからず、その思考を実行に移すことは介助なしには難しいだろう。

ところが『ヴォルテックス』の認知症の妻の方はどうもそういう感じではない。これは『ファーザー』で描かれた認知症とは一口に認知症といっても種類が違うためなのかもしれないが(どっちの映画も病状について詳しくは語られない)、単に認知機能が弱っているだけではなく、理性的な思考も弱っていると見える。彼女が落ち着きなく家の中や近所の店を徘徊している時にその表情に浮かぶのはホプキンスのような恐怖や焦りではなくぼんやりとした困惑であり、自分が何を考え何をしようとしているのかもおぼつかないようにこちらからは見える。まさしく五里霧中である。

『ファーザー』と『ヴォルテックス』のこの認知症表現の違いが面白いのは、『ファーザー』の認知症患者が現実からはじき出されていく過程を体現するのに対して、『ヴォルテックス』の認知症患者はむしろ逆に現実に直面する過程を体現していると受け取れるところにある。どういうことか。まぁ最近のギャスパー・ノエの映画っちゅーのはですねあ書き忘れてましたが『ヴォルテックス』ノエの最新作でしたでそれはいいのですが前作『CLIMAX クライマックス』とかさ、幻覚と現実の対比っていうのがテーマになっているらしい。これが考えるヒント1。

それでもうひとつ最近のノエがよくやっているのは、画面内を過剰な情報で満たして木を森に隠すように物語の核心を提示する。『CLIMAX クライマックス』は誰かがダンサーの打ち上げ会場に置いてあったパンチボウルにLSDこっそり入れたんでみんな気付かずLSD摂取して集団バッドトリップになる映画ですけど、実はこのLSD混入犯の犯行現場というのはチラリと画面の奥の方に映ってて、ただ初めてこの映画を観ると手前の方で大勢の人物が行ったり来たりしながら会話をしてるので画面の奥で起こってることに気付かない、そういう叙述トリック的な仕掛けがあったわけです。これが考えるヒント2。

で『ヴォルテックス』ですけれども最初の方にラジオ放送で知識人的な人が「近代は死を生活の領域から医療の領域に追放した…」みたいな、なんかフランス現代思想っぽいことを言うじゃないですか、レヴィ=ストロースとか、フーコーとか、ボードリヤールとかそのへんの。それで映画の最後では認知症の妻の息子が「家は生きている人が住むところなんだよ」とか言う。それであ、そういう映画だったんだなぁって思ったんですよ俺は。

つまりさ、人間って死ぬじゃないですか。死にますけど、ところでどうですかあなた、自分が3秒後になんらかの事故または突発的な心筋梗塞などで死ぬって考えたりしたことはありますでしょうか。うんいつも考えてますという人は抑うつ傾向にあると考えられるので一度メンタルクリニックを受診してみた方がいいと思うが、よくよく考えたら自分が3秒後に死ぬ可能性ってめちゃくちゃある。トラックに轢かれて死ぬ人は3秒前は3秒後に死ぬなんて考えないけれども、事実3秒後に死んでしまうわけで、すべての死は3秒前には3秒後の死なのに、でも「あぁ俺3秒後に死ぬな」って考える人はおそらくもうほんとに全然いない(繰り返しますが常時そう考えてしまう人はうつ病の可能性があるのでメンタルクリニックを受診してください…!)

それなぜかって3秒後に自分が死ぬと考えたらまともに日常生活なんか送れないからですよ。だって全部無駄になるわけじゃないですか。会社で仕事してても3秒後に死ぬと思ったらエクセルで表作るのなんかバカらしくなっちゃう。ダイエットのためにジョギングしてても3秒後に死ぬと思ったら走る意味なんかなくなっちゃう。それどころか今こうやって生きていることさえ、3秒後にどうせ死ぬのだったら価値がないことのように思えてきてしまう。でも人間はあらゆる場所であらゆる時に3秒後に死ぬ可能性が常にあるというのが現実なのです。その現実から常に目をそらし続けないと、死が単なる肉体の状態を示す言葉になって、死から何かしら積極的で宗教的な意味合い(死んだら天国行くみたいな)が失われた現代では、おそらく生きていくことがひじょうに難しい。

批評家の夫は劇中で「すべては夢の中の夢に過ぎないのだろうか?」と言う。それは『夢の夢』(“A Dream within a Dream”)というルチオ・フルチも確か『クロック』とかで引用したエドガー・アラン・ポーの詩からのものであった。

希望が幻や虚無の中へと消え去ったにしても
だからといって
それがなおさら虚しいと言えるだろうか?
私たちの見るもの
見えるものは
ことごとく夢の夢に過ぎないというのに。
『ポオ 詩と詩論』入沢康夫 訳

これは夫婦とその息子を襲うありふれた悲劇をニヒリスティックに俯瞰する引用台詞のようでもあるが、同時にまた、夫が生きている世界が「夢の中の夢」であることも示しているんじゃないだろうか。ポーは目の前にある現実を目の前にあるからこそ正面から見ることができない奇妙な人間心理を度々題材とした作家だった。19世紀前半にして早くも精神分析のアウトラインを明瞭に提示したとも言えるその作品はフロイトの精神分析理論を引き継いで完成させたラカンにもインスピレーションを与えたが、ラカンといえば象徴界・想像界・現実界というアレであり、人間は現実そのものには触れられないというテーゼでお馴染みの人である。

なにをバカなと言いたくなるがこれはあくまでも意識の上でという話で、難解をもって知られるのでラカンの現物は一切読んでおらず祝文庫化の浅田彰によるラカンを含むフランス現代思想概説書『構造と力』を読んでなんとなくわかった気になっているだけという謙遜を装ったAmazonアフィリエイトリンクを挟んだ上で、これは数字で考えるとわかりやすい。箱の中にリンゴが1個あれば箱の中のリンゴは1である。箱の中からリンゴを取り出してしまえば箱の中のリンゴは0である。

ラカンの言う象徴界とはざっくりこれで、数字=言語の秩序立った記号体系のことを、更に広げれば人間のつくる社会一般のことを言う。箱の中になにもない状態を人間の意識は0として解釈してしまう。0というのは概念なので実在しないのだが、その実在しない概念を通してしか人間は「なにもない状態」を認識できない。象徴界とは現実界を理解する際の人間の認識のフレームであり、「なにもない状態」という現実そのものは、人間は見ることができないのだ。0のたとえで納得できないなら「無」を考えることができるか今すぐに試してみたらよろし。「無」というのだからそれは存在しないということである。存在しないものを考えることはできない。考えることができるのは「無」という抽象概念、つまりは象徴界の記号だけなのだ。

こうした認識のフレームを外して現実界を直視するとどうなるか。おそらくそれが『ヴォルテックス』において認知症の妻が体験していることなんじゃないだろうか。目の前に何かが見えている。けれどもそれが何かは言い表すことができず、理解することもできない。目にするすべてがそうなのだ。そこに何かが見えている。けれどもそれが何かはわからない。その、わからないものに取り囲まれ、妻は何をどうしていいかわからない。これは想像することさえ不可能なおそろしい体験なはずである。もし仮にお腹が減って本能的に何かを食べなければいけないと感じたとしても、目に見えるどれが食べ物なのかわからないからだ。動くものと動かないものの違いも、危険なものと安全なものの違いも、そもそも害という概念も安全という概念さえも。

人間は記憶によって維持される象徴界のフレームを使って現実界を把握し、それに番号や名前を割り振り、危険なものと安全なものとを切り分ける。けれども人間にとって危険なものが別の種の動物には生存に欠かせない物質である可能性もあるわけで、こうした分類はそれ自体はどんな名前も番号も持たない現実そのものから乖離した、人間が勝手に作った概念の世界でしかない。生物がそれぞれの身体特性を通して生存に必要なものと不要なものを切り分ける、それぞれの生物に固有の世界観を生物学者のユクスキュルは環世界と呼んだ。自分の生きる現実に対してそれぞれに固有の環世界を作り上げることがすべての生物の生存条件である。これができない生物はエサを獲得できなかったり天敵にアッサリ食われてしまったりしてすぐに死んでしまうに違いない。

人間の場合は生物としては例外的に、周りに介護してくれる人がいれば環世界が持てない人でも生きることもできる。けれども『ヴォルテックス』において環世界を持たない人である認知症の妻の介護に夫も息子もあまり積極的でないのは、妻がその姿を通してうっすらと見せる現実界の「無」を、そして生活の領域から医療の領域に移されると共に意味を失った「無」としての死を、恐れたからじゃないだろうか。なぜならそれは、人生が本当はなんの意味もない「夢の中の夢」であることを如実に叩きつけて、象徴界に守られた普通人の日常生活をズタズタに壊してしまうから。自分が3秒後に死ぬかもしれないという当然の現実を、当然だからこそ考えることのできない現実を、思い出させてしまうから。

どことなくユルグ・ブットゲライトの虚無傑作『死の王』を思わせるラストのスライドショーは夢を見ている怪物の呼吸のような効果音が誰も居ない空間に鳴り響き、不気味で冷たい。それは人間が生きている世界の現実の姿である。けれども老老介護夫婦の顛末を見れば、これが現実の何もなさを悲嘆したり、ただ観客を突き放すだけの映画ではないことがわかる。現実界の極度の不安の中にあってもただひたすらに生き続けようと足掻く認知症の妻は、『ファーザー』の死へと退行していくアンソニー・ホプキンスとは反対に、むしろ認知症という状態だからこそ、人間の持つ生命力をギラギラと感じさせるのだ。

きっと、現実界で苦闘する認知症の妻が心臓病の夫に介護されていたのではないのだ。象徴界のぬるま湯の中でしか生きられない心臓病の夫こそが、その生命力によって、認知症の妻に介護されていたんじゃないだろうか。そう考えれば、虚しくも美しいラブストーリーであると同時に、たとえ虚無でもただ生きよとでも言うような、ひねくれているようでストレートな人生肯定でもあるというのが、この映画『ヴォルテックス』なんじゃないかとおもう。

※ていうかなんでアルジェント出てるの?

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