映画は人生だ映画『エンパイア・オブ・ライト』感想文

《推定睡眠時間:0分》

実のところこの映画に関してはとくに言いたいことがなく、それというのもこれは見事な映画だったので、その見事さを下手な文章をこねくり回して台無しにしたくない。お見事。この映画を観終わった俺の感想としてはただその一言しかない。たとえば落語の名人の十八番を見てその技芸をあれこれ分析するのは俺は無粋だと思う。他人に対してではなく自分に対して無粋なんじゃないだろうか。決して語り得ない「見事さ」という体験を、語りのレベルに落としてしまうというのは。俺はそれがこの映画にも当てはまると思ってる。

シネコン上映、インド映画のように盛り上がる映画でもなく、客入りも小箱で半分という比較的寂しい状況で、それでもこの映画のエンドロール後には一人だけ拍手をしてる人がいた。俺の中でこの映画についての話はあの拍手で終わってる。その見知らぬ誰かはこの映画にたった一人拍手を贈ったし、その拍手を俺はしっかり聞き届けた。それだけでもう充分。それだけでもう充分この映画については話した、聞いたと俺は感じた。とはいえ、せっかく観てきたのだしもう少しだけ続けてみよう。

この映画に見事さを感じられない人がいるなら、それはおそらく俺とは人生哲学であるとか世界観が違うのだと思う。暗いんですよ俺。物事について基本的にマイナスに考える。たとえばさ、俺は何をしても良いことをしたなって思えないし、また他人の行いについてもこれは良いことだなって思えない。だってそれはその場では確かにいいことかもしれないけど、もっと巨視的に見たら良いこととは限らないわけじゃないですか。たとえばアフリカの貧国に対する支援の在り方。貧しいのだからお金をあげようというのは一つの援助の形です。けれども金銭援助はもらえる人ともらえなかった人の間に格差を作ったり搾取の関係を作り出したりするかもしれないし、援助に依存した生活を送るようになってしまうとかえって生活基盤を破壊することになってしまう。じゃあ開発援助や教育支援ならいいのかと言えば、それはあまりにも即効性がなさすぎる。実際の援助はあれかこれかではなくあれもこれもと手広くバランスよくやっていくものですけど、ではそのバランスのベストとは何なのかと考えれば、これは援助に長く携わっている人ほど答えが出せないんじゃないだろうか。

逆に、悪いことについて。いったい何がこの人生において良いことなのか分からないのと同じように、悪いことも、そりゃ俺だって刑罰は受けたくないですし積極的に人を傷つけようとも思わないので、急に人を殴ったり物を壊したりとかそんなことは一切しません。でもたとえば。一人の大量殺人鬼がいたとする。その人は極悪非道な殺人鬼として法的にも社会的にも裁かれたが、殺人鬼が殺した一人はある中学生をひどくイジめていて、イジめられている側の中学生は自殺を考えていた。そんなときに大量殺人鬼がこのイジメ加害者を殺したと知ったら、その中学生は救われるかもしれない。また別の例で、俺はよく考えるんですけど、今の俺が宅間守の幼少期にタイムスリップしたら宅間を殺すか? ということ。幼少期の宅間を殺せば成人後に起こす大惨事は防げるだろう。だからこれは倫理的に正しいかもしれない。けれども、その時点では宅間は問題児ではあっても死に値するような罪は犯していない。だとすれば俺が宅間の人生に深くコミットして彼を大量殺人に導かないようにすることが正しいのかもしれない。でもそんなことが俺にできるだろうか? それほどの能力は俺にはどうもないような気もするのである。

そんな風に何事もマイナスに考えてしまうと人は何も自主的な行動を起こせなくなってしまう。だから何か行動を起こすときにはそれが善であるか悪であるかひとまず考えないようにする。そのようなことは人間誰でもやっているが、その度合いの大きい人を一般的に明るい人と呼ぶのだと思う。その世界の中では全ては明瞭であり、良いこと、悪いこと、ある物事がなぜそうなったか、あるいはそうならなかったか、といったことが理路整然と並んでる。これは合理的な世界とも言い換えることができるが、科学の合理性がある問題を科学という領域に局限することによってもたらされるように、倫理の合理性もまた問題をある領域、たとえば自分の見える範囲であるとか、「世間ではこう言われている」に局限することによってもたらされるわけで、そう考えるなら光に照らされた合理性の世界は、不合理の暗黒から目をそらすことによって可能になるとも言えるわけだ。

世界は合理的に不合理であり、不合理に合理的だ。正解はないし不正解もない。あるいは全てが特定の領域では正解であり、全てが特定の領域では不正解とも言える。『エンパイア・オブ・ライト』はそのような映画である…と言ったところで納得してくれる人は相当少ないと思うが、俺がこの映画を見事だと感じたのはそんな理由にとりあえずよる。これはあくまでも俺の目から見ればという話だが、人生ってこんなもんだと思う。たとえばそこに、ハッキリした起承転結はない。スッキリする勧善懲悪もない。物事は明確な因果関係が不明のまま生起して不明のままいつの間にかどこかへと消えてしまう。人は誰もが主役ではあっても主人公にはなれず、世界の変革はおろか自分をコントロールすることだって、あるいは自分とは何者かを明確にすることさえできないでいる。そんなものだ。人生、そんなもの。この映画はその「そんなもの」をあるがままに描いているから見事なのだと思う。

トビー・ジョーンズ演じる映写技師の台詞が響く。「フィルムは秒間24コマの静止画の連なりでしかない。ところがここで視神経に間違いが起こる。フィルムの間の暗闇が消えて、連続する動画に見えてしまう」。映画が脳の誤解、錯覚によって成立している芸術であることはフィルム時代もデジタル時代も変わらない。あのうつくしさは所詮暗闇に浮かび上がるまぼろしなのだ。動画映写機の前段階といえるスライド映写機は幻灯機と呼ばれた。HOLLYWOOD(ひいらぎ林)はHOLYWOODと誤解されて「聖林」の呼称で日本では親しまれた。

映画は人間の誤解が生み出したまぼろしで、現実の問題を何一つ解決してくれやしない。もし映画に現実を変える力があるなら人は戦争をやめているし、差別をやめているし、貧富の差も消えている。現実にはどんなに理想主義的な映画が作られても誰も戦争をやめようとはせず、差別もやめようとはせず、貧富の格差もなくならない。もしかしたらそれは愛も同じなのかもしれない。全ては脳の錯覚であり、ある日には永遠に続くかに思える愛も、翌日になれば急に色褪せて、昨日は少しも見えなかった相手の問題点がまざまざと見えるようになることだってあるかもしれない。映画とはそんなもの、愛とはそんなもの、そして人生とは、そんなものだ。

監督サム・メンデスのそうした人生観は『アメリカン・ビューティー』の頃から変わっていない。基本的にはしっとりとしたヒューマンドラマ、ラブストーリーの『エンパイア・オブ・ライト』でも、『炎のランナー』のヴァンゲリスによる美しいテーマ曲が流れる中で男女の修羅場が勃発するというなかなか笑える場面がある。まぼろしによって右へ左へ向きを変える人間の姿は端から見れば滑稽だろう。でも、人生そんなもん。そんな風にしか人は生きていくことができない。『エンパイア・オブ・ライト』は、暗いばかりの現実の中で脳の誤解と錯覚の生み出した儚い美しさに時に支えられて、時に突き動かされてしか生きていけない人間の哀しさ愚かしさ滑稽さを、スクリーンのまばゆい光を通して肯定する映画である。そんな映画を映画館で目にしては、見事の一言しか言うべきことはやはりないのだ。

※ロジャー・ディーキンズによる廃れた映画館の撮影はため息が出るほどうつくしい。これもまたまぼろしだ。

【ママー!これ買ってー!】


『アメリカン・ビューティー』[DVD]
『アメリカン・ビューティー』[Amazonビデオ]

しばらくボンド映画とかやってたサム・メンデスですけど本領発揮できるのはやっぱこっちの方だよね。

Subscribe
Notify of
guest

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments