【隙間創作】『器官よりも速く』

 衝突はただ一瞬の出来事で映画やドラマのようにスローモーションになることもなければ走馬灯が浮かぶこともない。衝突を観測する運転手にはそのように見えたかもしれなかった。観測される深津一郎には一瞬でしか、正確には一瞬でさえなかった。深津一郎の両足がクロスバイクの錆びたペダルからニュートンの運動法則に従って引き離され、まるで母胎から引きずり出される胎児のように能動性を見失っている間、その世界は存在をやめた。世界が再び存在し始めたのは深津一郎がアスファルト舗装された車道の、ちょうど「止まれ」のペイントが施された部分に、側頭を含む左半身から着地した時。たとえ神がサイコロを振らないとしても、現象界にサイコロは転がる。運転手が観測する深津一郎はサイコロだった。ぶれることなく正確に一方向に投じられた歪なサイコロ。左半身、右半身、正面、背中の四面。そこにはサイクルデリバリーの配達バッグが含まれる。もしも配達バッグから着地していれば、深津一郎がその仕事をやめる必要はなかった。クロスバイクの代わりに車椅子を漕ぐ必要はなかった。少なくとも深津一郎はそう思い込んだ。今や見知らぬ他人のものとなったその身体をストレッチャーが手術室まで運ぶ間、深津一郎はスローモーションで衝突の瞬間を振り返ることができた。それは架構された記憶に過ぎないとしても、深津一郎の目には現実に見えた。主観によって把握される世界の喪失を死とするなら、主観による世界の構成が生に他ならない。一度目の衝突で深津一郎の認識する深津一郎は死んだ。二度目の衝突で深津一郎の認識する深津一郎は生まれた。その身体がアスファルトに叩きつけられ、神経を切断され、頭蓋を陥没させられ、頭骨片が脳に突き刺され、その他人行儀の痛みと共に深津一郎は生まれた。泣くことはできなかった。胎児とは逆のプロセスを辿って深津一郎の身体が解剖されようとしている時、その主観が捉えていたのはこんな昔話。あるところにずっと自転車に乗っている男がいた。長く自転車に乗っていると人は自転車と区別できなくなってしまう。いつしか男と自転車は分子レベルで結合し、男は自転車となり、自転車は男となった……。今、深津一郎は自分が自転車から分離されたことを、そして二度と結合できないことを理解しようとしていた。その時になって深津一郎はようやく泣くことができた。手術室のまばゆい照明は、深津一郎が一度目に生まれた時と同じように白かった。

 もしも宇宙の果てに鏡を置いて、そこに映る地球の像を、光速を超える速度の物質に変換して地球に再照射するとしたら、地球の人間は何を見ることになるだろう? 女は深津にそう言って、難しく考えないでいいですよ、超新星爆発は知ってますね? 超新星は現実にはもう存在しない。しかし、その光が地球に届くまでは時間がかかる。我々は存在しないものの残影を超新星として見ているに過ぎません。
「はぁ」
 地球から遠ざかれば遠ざかるほど、そこから見える地球の姿は過去のものになる。仮に宇宙の果てに鏡を置けば、その鏡は地球の先史時代を反射することになるでしょう。もしも光速を超えてその像を再照射できれば、今現在の地球に立つ我々は、先史時代の地球を目撃することになる。
「そうですね」
 同じことは人間の主観についても言えるのではないか、と女が話を続けても、深津の視線がそれを遮る。インターネット上の求人広告で笑顔を浮かべる女は真新しい白衣を身につけて、いかにも研究者然としていたからだ。「体力は必要ありません! 意志力さえあれば誰でも歓迎!」今、深津の目の前に座っている女は皺の付いた白無地のワイシャツに色落ちしたブルージーンズ。信用するのは難しかった。目の前の像がではなく、おそらくは宣伝写真の撮影用に白衣を着込んだ、という事実から。疑念はいつも差異から生じる。外的な差異と内的な首尾一貫性の連関を、未だ誰一人として証明できていないとしても。いずれにしても今の深津には大した問題ではなかった。なんであれ仕事をしなければ生きてはいけない。車椅子を使いさえすれば自力で動ける深津は身体障害者等級が二級以上に上がることはない。もっとも、上がったところで所得税や年金が全額免除されるだけで、どこからか生活費を捻出しなければいけないことには代わりがないのだから、一級であれ二級であれ結局のところ生活上の課題はさして変わることもなかった。優先入居が可能な抽選制の公営住宅はエレベーターの修繕さえされることがない。管理委託業者は障害者の雇用先を兼ねている。障害者を雇用しているという書類上の文字列と、その抽象化された数字は、障害者雇用の現実に優越した。複雑な政治的修辞を簡略化すれば、それは障害者が障害者を世話することに他ならない。これでは福祉なのか刑罰なのかわからないと深津は思った。そのどちらも自分には受ける資格があるだろう。
「はい?」
 間時間性。つまり、時間は我々の社会的認識によって速度が一定に保たれているに過ぎないということ。私たちはそれを間時間遡行と呼んでいます。もしも、私たちが通常事物を認識する速度、これを仮に光速として、光速を超えて事物を認識することができるならば、深津さん、あなた過去の世界を見ることができるんですよ!
「それで、いつから?」
 深津の目には施設全体は科学よりも秘教的色彩の方が強く見えた。なにもローブをまとった顔の見えない人間が魔法円を描いているわけではない。どちらかと言えばその殺風景な内装や実用性を優先した服装は世俗的でさえあった。世俗的に過ぎた、と言えるかもしれない。時間遡行というただひとつの目的のために他のすべてを捧げるかのような素っ気なさが、施設全体を俗世間から切り離していた。目的もなく理想もなく科学も魔術も無節操に混じり合っているのが俗世間というもの。
 たとえそうであれ施設も人間の楔は断ち切れない。その根底にあるのは経済であり、一部の研究者を除けば、施設は金儲けを意味するに過ぎなかった。利用者にとってはそうではなかった。光と同じ速度で消え去った過去の断片が取り戻せるかもしれないという誘惑は、とりわけ何かしらの失踪を抱える人間にとって抗いがたい。軽いものではスマートフォンや財布、重いものでは配偶者や子供。需要と供給の関係は実質よりも先にシミュラークルな実体を作り出していた。シンボリックな肖像の描かれた精密細工の紙を、誰もが不換紙幣として扱う空間でのみ、それは実体でありえるように。
「鏡像段階は超えないように」
 でなければ器官のない身体になってしまう、と深津は機械的に、声に出したのか、それとも脳が反芻したのか、それさえも判然としないままに繰り返した。そう答えられることが間時間遡行者のほとんど唯一の採用条件だった。未だ、深津は間時間遡行を信じてはいない。宣伝広告で白衣を着ていた女のことも信じてはいない。おもに、その精神の健常性について。ただ一万二千円の日当だけは信じていた。もしも白衣の女が正常ではなく、施設全体も狂っているなら、日当が支払われる確証もない。その点で間時間遡行も一万二千円も信頼度に差はないとしても、自分の手にしたことのあるものは、それだけでそうでないものよりも信頼できるという心理バイアスが、深津をそれでも間時間遡行に向かわせたのかもしれなかった。あるいは、間時間遡行など存在しないと確信を持っているからこそ、鏡面ポッドの中で現象時間を過ごすことが、今の深津にとっては楽な仕事と映ったのかもしれないし、またあるいは、心のどこかでその夢のような理論を信じたいと思っていたから、仕事を引き受けたのかもしれなかった。そのどれが自分の本心なのかは、深津自身にもわからなかった。
 研修室に置かれた鏡面ポッドは人工的に瞑想状態を作り出すアイソレーション・タンクと似ていたが、棺の上蓋内側に球面鏡が、その全面に渡って張られている点に特徴があった。棺の内側は防水加工の施されたブルーに発光するLEDパネルで構成されている。使用者は棺の半分ほど注がれた塩水に浮かび、半無重力状態で鏡が反射する死体じみた自分自身の姿だけを見る。そうすることで意識は間時間から切り離され、自己と鏡に映る自己の間の認識の往復が、主観的な時間、つまりは現象時間の中で加速されることで、いずれ間時間を超えて過去に遡行する。深津が白衣の女から受けた説明はそのようなものだった。
 施設の別室にはもう一基のポッドがある。そちらは球面鏡の代わりに曲面ディスプレイが取り付けられており、被験者はポッドの中で自身の鏡像ではなく別の画像を見ることができる。鏡面ポッドで修練を重ね、無事間時間遡行が可能となった被験者は、いずれ施設に救いを求める人々によって提供された画像の過去に遡行し、その身に起こったことを報告する義務を負う。それが深津に課された仕事だった。
 職員が深津の服を一枚一枚、薄らと戸惑いを浮かべてぎこちなく剥いでいく。自分のような下半身不随の被験者の服を脱がせたことがないのだろうと深津は思った。全裸にすることそれ自体にではない。被験者がみな生まれたままの姿でポッドに入ることは、その前にポッドから出てきた別の男を見て知っていた。深津はあえて何も言わなかった。身体障害者でも腕はある。自分で脱いだ方が早い。それでも職員のぎこちない手つきに身を任せることには、どこか、標的を欠いた復讐の快楽があった。
「鏡像段階は超えないで、大丈夫ね?」
 ポッドが閉じられる直前になって白衣の女は再び言う。でなければ器官のない身体になってしまう。鏡像段階以前、自我の確立の段階以前、象徴界への参入の段階以前。なんであれ……。
 そこは音もなく、光もなく、痛みもまたなく、知覚できるものは何一つなかった。嗅覚は点滴麻酔薬で麻痺している。今や全身が麻痺したようなものだった。かつてそうであったように深津の身体は平等と統一を取り戻した。不在は欠乏よりも完璧だ。深津は全身の力を抜いて微かに揺らぐ塩水に身を委ねた。似たような感覚は以前にも感じたことがあった。サイクルデリバリーの帰りに寄った24時間サウナで、90度のサウナ室から15度の水風呂に移った時。急激な温度低下が全身の毛穴と筋肉を収縮させて、束の間、その身体は鉄の塊にでもなったよう。外界との交通の遮断された、何も足したり引いたりされることのない1の塊。宇宙の中でただ一人の孤独。その輪郭はフーリエの法則に従って曖昧になっていく。孤立系から閉鎖系へ、閉鎖系から開放系へ。宗教的なエクスタシーとはこのようなものだろうと深津は考える。環境の中に身体が溶け込んで、自己の統制を失うことで、世界に隷属する、倒錯した自由の快楽。
 やがて、亡霊のように深津の像が暗闇に現れた。何も見えない暗闇をじっと眺めていると、瞳孔が徐々に収縮して明暗の輪郭が浮かび上がるように、深津の意識もその像を自分と認識するまでに段階を踏んだ。それ。何か。人体。人間。男。知らない男。知っている男。自分。深津一郎。そこで、深津の意識は再び時間の諧調を失う。比較すべきものを持たない孤立系の現象時間の中では分割の概念も長短の感覚もない。像が大昔の映画フィルムのように動き出したとしても、それを幻覚と現実のいずれかに分類する方策はない。今、深津の像はくるくると宙を舞っていた。バレエみたいだ、と深津は思う。いや、アイススケートかな。思いながら思わない。それがあの衝突の瞬間の再現であることを深津は思うよりも先に知っていた。
 廊下に出てトイレに向かいながら深津はふと、自分が無意識のうちに多目的トイレを探さなかったことに気がついた。その手は確かに車椅子のホイールを回してはいた。手に反して意識は両足の機能不在を認めてはいなかった。鏡面ポッドの体験は事故に劣らず深津に意識と身体の関係の再考を迫ったらしかった。その事実が深津の手と足を止める。意識の真空に差し込んだのは洗面台の鏡を見つめる一人の男。鏡を見つめたまま微動だにしない男が深津と同じ間時間遡行の被験者であることは、それを指し示す標識を何一つ男が身につけていないにも関わらず、深津には自明のことだった。加えて、その忘我の姿こそが器官のない身体であることも。その翌日、深津は研修室で自ら服を脱いだ。
 昨日と同じ崩壊の解放は訪れなかった。ポッドの中には塩水に浮かぶ惨めな身体が一つだけ。それでも深津はまんざらでもなかった。少なくともポッドの中には何もない。何もがありすぎる間時間世界と比べてどれほど安心できるだろう?
しかしそれも長くは続かない。やがてLEDライトの映し出す深津の像がその眼前に姿を現すからだ。それは一見して昨日と変わらない像のように見えた。幾千の夜と昼を一瞬の現象時間のうちに超えた後は、そうではなかった。
 その背景には何も映っていなくても、そこが深夜の古民家であることは深津にはわかった。その像が何も衣類を身につけていなくても、それが目立たないように紺のブルゾンとニット帽を着用した自分であることは深津にはわかった。誰の何の説明もいらなかった。それはただ単にそうであるというだけのことだからだ。鏡面ポッドの現象時間の中では。
 像は拳法の特訓ででもあるかのように右手を何度も前に突き出す。突いては引っ込め突いては引っ込め。たとえその身体が綺麗なままでも、深津にはその身体がヘモグロビンに染まるのがわかった。たとえそこに深津以外の誰も映っていなくても、深津にはそこに孤独な老婆の死体があることがわかった。誰の何の説明もいらなかった。それはただ単にそうであるというだけのことで、鏡面ポッドの外の客観的な間時間の中でも変わらないからだ。
 サイクルデリバリー配達員になるには固定の住所さえいらない。誰の目にも晒されるサイクルデリバリー配達員が、深津のような逃亡者が身を隠すにうってつけであることは皮肉だった。都市の目はよく見えるものから順にその存在を隠していく。ホームレスほど公の存在はいないとしても、だからこそホームレスはその傍らを通り過ぎる誰の目にも映らない。サイクルデリバリー配達員も都市のエコノミーにおいてはホームレスと大差がなかった。違いがあるとすれば、サイクルデリバリー配達員は都市の血管を流れ、ホームレスは血管内に滞留する血栓であるという程度のことでしかない。そして流れる血液はいつでも血栓になり得るのだ。
 二度目の鏡面ポッド実験の後にはアンケートと称するものが深津に課せられた。あなたがポッドの中で見たものを自由に書いてください。指示書きにある通り深津は自由に書いた。それが担当職員の目にどう映ったかは深津には知らされることがなかったが、殺人犯ではないことは確かだったし、程度はともかく実験の成功を印象づけるものではあったらしかった。施設の中では白衣など着ていない白衣の女が、次は実験ではなく実践だと深津に告げたからだった。思ったより研修時間が短かったねと笑う白衣の女に、深津はどうとでも取れる曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
 生徒手帳の証明写真でも引き延ばしたのか学生服と表情の輪郭がいくぶん滲んで見えるその女の、目に映る画像以外の情報を深津は知らない。もしも知ってしまえば現象時間の純粋性は失われ、間時間遡行が不完全なものになることを、今では施設職員だけではなく深津もよく理解していた。理解と信仰は違うかもしれない。深津は施設職員や白衣の女ほど間時間遡行を信じてはいないかもしれない。それでも二度の間時間遡行は深津の意志を身体感覚から切り離して、客観的現実から主導権を奪い返していた。そうであろうとする意志がそうである現実を超える可能性に関しては、少なくともその主観において、深津は以前ほど疑いを抱くことはなかった。
 モニターに映る女子高生の像が歩き出す。その挙動は平板でアニメーション制作に用いられる資料映像のように見える。
「次。もっと前へ」
 ポッド内に響いた声は外界に反響したものか、それとも意識の中の幻か。
「もっと前。戻れ」
 女子高生は走り、座り、笑い、泣き崩れた。服を脱ぎ、服を着替え、現象界の中でその身体が取り得るすべての形態を取ったように深津には思えた。
 それから長い時間が経ったように深津には感じられた。変化はない。変化はない。変化はない。同じ動作の繰り返し。冷や汗が額を伝う感触が深津を襲った。それが崩壊の合図だった。心拍数の上昇が深津の身体の束縛された自由を断ち切る。均衡の崩れはほんの一瞬のうちに全身へと伝わる。開放系から閉鎖系へ、閉鎖系から孤立系へ。動かそうと思えば指が動き、動かそうとしても足は動かず、塩水の振動は皮膚に敵対的な刺激を伝えた。
 今、深津は狂った宗教団体の施設の中にいて、その素っ頓狂な、実験とは名ばかりの宗教行為の、いくつかある中心の一つにいる。トラックとの衝突事故で下半身不随となった、サイクルデリバリー配達員だった、空き巣に入った古民家で出くわした老婆を刺殺した、深津一郎は。
 それが涙なのか、蒸発した塩水なのか、深津にはわからなかった。刺激的な塩味を味蕾に感じながら深津は願った。
「何を願うことがある?」
 事実、そこにあるのは願いの形式だけだった。何を願うのか、どこから願うのか、いつまで願うのか、深津の意識には何一つ具体的な形を取っては現れない。けれども、形式こそ願いの本質だとするならば、それは願いそのものであると言えた。そして、そのものだけが唯一叶えられうる願いだとすれば、その願いの成就におかしなことは何もない。
 深津の目は確かに捉えた。女子高生が透明な何者かに羽交い締めにされ、目に見えない壁に囲われる光景を。スカートが下着ごと荒々しく下ろされる。露わになった外性器が口を開けて顫動する。首筋にできた線状の凹みは刃物だろうと深津の意識は直感的に判断する。確かに目を凝らせばそこには薄く血が滲んでいた。襲われている。男に襲われている。深津がそう理解した瞬間、線状の凹みは消え、首全体の凹みへと変わった。今度はもっと太い。死の間際に立った人間は表情を動かさない。女子高生の表情もまた、抵抗する手足の痙攣的挙動に反して動かなかった。それは絞殺の光景だった。

「だけど、証拠はないですよね?」
 言ってしまった、と福嶋は思った。刑事としてあるまじき発言。思うのは自由でも口には出すな、と彼女に刑事のイロハを叩き込んだ先輩刑事はよく言ったものだった。お前はいつも余計な一言を言うんだから。
「それを探すのがあなたたちの仕事じゃないんですか?」
 ごもっともです。
「いや、あの、なんか予言みたいな感じだなぁって思って。ほら、予言って外れるじゃないですか」
 挽回しようとして完全に裏目。
「ちょっと別の方に代わってもらえます? あなたじゃ話にならない」
 いつものこと。
 刑事一課の中での福嶋の役割はある種のクレーム対応係と言えた。もっとも、それは彼女が人あしらいに長けているからではなかった。コミュニケーション能力の不足、あるいは見方を変えれば過剰が、市民からの無理な要望を右から左へと受け流す損な役回りへと彼女を追い込んだ。どうせクレームをもらうなら話の通じる連中より通じない連中からの方が諦めがつく。話の通じない連中が捜査の役に立つことはまずないのだから。
「今月何件目なの」
「え、何件ですかね?」
 上司の呆れ顔は福嶋のその反応が珍しいものではないことを物語っていた。
「え、じゃないんだよ。こっちも忙しいんだからさ。福嶋さんの方でなんとか対処してよ」
「いやでも、あの人ら頭おかしいっすから。宗教狂いで」
「だからそういうことを言うなって!」
 死体の出ていない事件を殺人として受理することはできない。といって、行方不明になった配偶者だの娘だのが実は既に殺されている、などという相談が月に三件も集まれば、まるっきり相手にしないというわけにはいかない。
 いずれにしてもその仕事は生活安全課のものであり、刑事一課が携わるたぐいのものではなかったが、署内各課の力関係はその担当事件から部外者が想像するほど明瞭ではない。
福嶋が嘆願者たちから聴き取ったところによればそれはいずれも万能酵母や高次元治療、波動エネルギーや重力子食品といったニューエイジ・サイエンスと呼ばれるオカルト科学が発信源だった。その分野では名の知れたある団体は瞑想によって他人の過去に遡ることができると主張する。福嶋のもとを訪れた三人は団体が擁するFという瞑想者によって失踪した家族の死を知ったのだという。その人物に接触して事情を訊くこと、それが福嶋に下された事実上の懲罰だった。
「これ、もしかして自分そろそろ異動っすかね? ピーポくんの着ぐるみ着る係みたいな」
 上司はデスクワークの手を止めずに言った。
「そんなことにはならないよ。お前記憶力だけは抜群だから」
 
 白衣の女はそれを脱構築と呼んだ。器官のない身体が取り得る構成のかたち、あるいは成長のモチーフ。もしくは可能性。Fはある時なにげなく疑問を投げかけた。それは私には素晴らしいことのように思えます、どうして恐れるのです? 確かに、と今や立派な白衣を着込んだ白衣の女はもったいぶって、素晴らしいことかもしれない。でもね、私も正直に言います、怖いんです、私が私ではなくなってしまうことが。私ではない私は私よりももっと素晴らしい私かもしれない。だとしても怖いんです、私が私を失うことが。なら、私だったら私が私でなくなっても良かったのですか? 私が脱構築することが。白衣の女は俯いて苦笑いを浮かべるばかりでその質問には答えない。その代わりに、Fさん、あなたは困難を抱えた人々のために素晴らしいことをしています。みんな失ったものを取り戻してる。そりゃあ中には取り戻せない人もいます。でもね、Fさん、私はこう考えているんですよ。喪失というのは喪失体験そのものを失うことなんじゃないかって。考えてみてください、こんな人物を。その人物はとても悪いことをしてしまって、自分の行いを悔いている。彼か彼女はそんな自分の裁きを求めて警察署に出頭した。しかし警察官はその誰かを逮捕しない。何を言っても取り合わない。業を煮やした彼か彼女は犯行現場に警察官を連れて行った。ところがそこには何もない。犯人を示す証拠はおろか、犯行の形跡も、被害者の姿すらない。彼か彼女は混乱する。だとしたら自分は何の罪に怯えているのか? その罪はどのように精算すればいいのか? これが、喪失体験を失うということです。罪がないのだからその人物はそれ以上何も失うことがない。罰金とか、牢屋に入れられている間の人生とか。しかし、そのことで彼か彼女には終生喪失がつきまとうでしょう。喪失することさえできなかった、という喪失は、どう埋め合わせたらいいと思いますか? Fさん、あなたならわかるはずです。はい、先生。いや、今はFさんが私にとっての先生です。なにせ私は間時間遡行ができない……先生、もしよかったら、私の過去にも遡行してもらえませんか?
 それからFは一日も休みなく間時間を遡行した。喪失体験を求める人々に確かな喪失を与え続けた。そうすることで自らの喪失体験は失い続けた。厳格な主観性科学は客観性科学と同様に法則を求めた。Fの場合に適用されるのは熱力学法則だった。第二法則、孤立系のエントロピーは不可逆的に増大する。
「盗まれた……場所はわからないが、プロの仕業だと思う」
「殺された……誰にかはわからないが、たぶん窒息死」
「まだ生きてる……でも彼女が戻ることはないでしょう。自分の意志での失踪だった」
 Fはもう、間時間遡行を疑ってはいない。現にこれまで何度もしてきたし、これから何度もすることになる。それを疑う者は誰もいなかったし、その結果に関しては尚更そうだった。被検者Fの成功は施設にとっては僥倖であると同時に挫折だった。その後、白衣の女がいくら被験者を鏡面ポッドに送り込んでも、Fのように過去に遡行できる者は一向に現れる気配がなかったからだ。白衣の女はやがて白衣を脱いで以前と同じ白無地のシャツとブルージーンズに切り替えた。それでも依然としてFは過去に遡行し続けたし、Fを求めて施設を訪れる喪失体験喪失者も後を絶たない。白衣の女の方でも間時間遡行の理論破綻を認めたわけではなかった。ただ、どうしてFだけが間時間と脱時間を往復することができるのか、どうして他の被験者は脱構築してしまうのか、その判断材料が足りなかった。一日十二時間の鏡面ポッド滞在試験ではダメなのかもしれない。もっと短く、あるいは長く。
 間時間が主観と主観の交叉点ないし妥協点として生じるなら、もしも人類全体が自分のように意識を加速させることができるようになった場合、間時間の客観的逆行によって物質の脱構築も可能になるはずだ。Fにそう思わせたのは最近飛躍的に増加しているように見えるスキンヘッドたちだった。詳細を聞かなくとも職員の会話を聞けばわかる。器官のない身体。有り体に言えば、それはFのなり損ねだった。鏡面ポッドの効果を高める目的から、いつからか被験者の剃髪が職員の仕事に加わっていた。
 鏡面ポッドに列を成した被験者の群れが、まるでループ再生のGIF画像のように次々とポッドに入っては同じスキンヘッドになって排出される光景を想像すると、Fは愉快な気分になった。それは愚かな人間を愚かな人間が嘲笑うサディスティックで卑小な同族嫌悪ではなかった。それがFには決して与えられなかった、与えられるべきだった福祉/刑罰に見えたからだった。自分がスキンヘッドにその再誕のきっかけを与えたのなら悔しいけれども喜ぶべきことだ、とFは思う。可能性のない全ての可能性。欠乏した完全なる充足。単一であるからこその多能性。そこには人間の胚胎するすべてが顕現しているようにFには見えた。実際のところ、間時間遡行に失敗したのはスキンヘッドではなくFの方だった。

 建物の外観は何の変哲もなくそこが怪しげなオカルト屋の根城であるようには到底見えなかった。よくある中小のオフィスビル、けれども中に入れば確かに案内板の一角には「現象時間加速研究所」の文字がある。十一フロアのうち四階から六階までがその占有地だった。ビル自体は小さくとも「現象時間加速研究所」はそう小さな組織ではないらしい。確たる理由もなくひとまずは五階のボタンを押して、エレベーターの中で福嶋は思った。
 何を予想していたわけではなくとも、エレベーターから降りてすぐに飛び込んできた光景は、福嶋に予想外の戸惑いを与えた。あまりにもらしい。縦長のフロアの奥まで続く廊下には壁際にパイプ椅子が並び、そこには一様にうつろな目をした、病衣をまとったスキンヘッドの人々が座っている。これじゃあ『AKIRA』か『ドラゴンヘッド』の世界じゃないか! ハイパーリアルな戯画が偶然と不合理に支配されたフィクショナルな現実に取って代わったその徹底的な凡俗は、それが福嶋にはひどく見慣れた光景に映っただけに、かえって非現実的なものと感じられたのだった。ウォーターサーバーの前で虚空を眺めて水を飲んでいたスキンヘッドの一人が福嶋に目をやると、そこに人間など存在しなかったかのようにまた元の虚空へと視線を戻した。
 もっとも、異様が異様であったのは最初だけで、いざ廊下を歩き出すと福嶋の視界にもやを張った異様は羽虫の大群のように散り散りになってしまった。なんのことはない、失業者たちだ。ハローワークで時間を潰す人たち、役所の福祉課で順番を待つ人たち、場外馬券所のロビーで途方に暮れている人たち。福嶋が捜査でそうした場所に足を運ぶ機会はそう多くはなかったが、彼女はそこで目にした顔たちを忘れはしなかった。意識的に思い出すことはなくても、あるいはそうであるからこそ、顔は彼女の無意識に宿り続けていた。はした金で失業者を集めて何かオカルト実験にでも付き合わせているのだろう、と福嶋は推測した。オウム真理教は戦闘要員としてホームレスをリクルートし訓練をさせていた、と警察学校時代に元公安の特別講師から聞いたことがある。ところで、冷蔵庫にまだ卵は残ってたっけ?
 片側にパイプ椅子とスキンヘッドの失業者の並ぶ廊下のもう片側にはパネルパーティションで仕切られた数畳程度の小部屋が手前から奥まで五つほどある。失業者たちの病衣と相まって総合病院の診察室を思わせるその小部屋の一つから、病衣こそ身につけているものの剃髪はしていない車椅子の男が出てくるのが福嶋に見えた。福嶋は深く考えるタチではなかったし、それが彼女の刑事生命を支えていた。
「あの、すいません」
 振り向いたその男の眼差しは他の失業者たちとは異なり福嶋を芯で捉えているように彼女の目には映った。この男もそのうち、他の失業者たちのようになるのだろうか。
「はい?」
「Fさんという方にお会いしたいんですけど。あ、私あの、牛込署の福嶋と申します」
 形ばかりの警察手帳を取り出す前に男は答えた。
「いや、知らないです」
 どこかで。
「あー、知ってる方っています?」
 この顔。
「知らないです」
 ああそうだ。
「お兄さん三年ぐらい前に強盗殺人とかやったことないですよね?」
 何が可笑しいのか、言いながら思わず吹き出した福嶋に、男は明らかに気分を害したようだった。あぁまただ、またやった。でもこんな顔だったよな、ニット帽とブルゾンを被せたらあの防犯カメラの……。
「知らないです」

 表情は凍りついて動かなかった。車椅子の車輪も回転を止めたように感じられた。スキンヘッドと見知らぬ女の眼差しがその背中に注がれるのをFは感じた。その集合的主観か、観測行為が、まるでFをアキレスと亀の狭間に突き落としたようだった。長い廊下。長い時間。長い疲労。長い思考。長い存在。あまりにもその場所ですべては長い。
 ようやく辿り着いた研修室の鏡面ポッドはおあつらえ向きに空いていた。職員が次の被験者を招き入れるために塩水の入れ替え作業を行っていたが、このフロアでは神に等しいFが望めば職員はポッドを明け渡すだろう。実際、その通りになった。手伝いましょうか、という職員の声をFは無視した。どうしても自分で入りたかった。どれほど無様に見えようとも、今この瞬間だけは自分一人でやり遂げなければならなかった。
 ポッドの蓋が閉じ、馴染み深い暗闇と静寂がFを包むと、その心拍数は平静を取り戻したようだった。それが単に比較対象を失ったためにそう感じられるだけだとしても構わなかった。その感覚が本物でも偽物でも、どちらでも今のFには同じことだったからだ。
 やがてFの眼前に像が現れる。他人の像ばかりを見ていたため久しく見ていなかった自分の像が、走り、座り、笑い、怒り、泣き、眠り、叫び、殺す。Fは深呼吸をする。Fの鏡像も深呼吸をする。戻れ。
 像が何のパントマイムをしているのかは造作も無くFには理解できた。その背景にはすべての銘柄に番号の振られたタバコのラックがあるだろう。その上には埃を被った蛍光オレンジの防犯ボールが置かれているだろう。それはFがまだコンビニで夜勤アルバイトをしていた頃の姿だ。人付き合いができずにその仕事を選び、同僚との衝突から仕事を辞めて、すり減らした精神が自傷のように貯蓄を食い荒らす前のことだ。食い荒らした貯蓄がFの手に包丁を取らせ、捕まる覚悟で空き巣へと入る前のことだ。しかし、Fは捕まることができなかった。戻れ。
 その背景にはレンタルビデオが並んでいるだろう。アダルトコーナーの入り口に垂れ下がった暖簾が、空調の風を浴びて揺らめいているだろう。その像は何歳ぐらいの頃だろう? ビデオを手に取っては裏側を見、また棚に戻す、それを繰り返すだけの単調なパントマイム。それはFがちょうど二十歳の時だった。暇さえあればとりあえずレンタルビデオ屋に行っていた二十歳の時。このレンタルビデオ屋は今はもうない。街にはもう一軒のレンタルビデオ屋も残ってはいない。だが今とは? 戻れ。
 とりあえず。Fの人生はその繰り返しだった。とりあえず遊びに。とりあえず寝て。とりあえず進学。とりあえず中退。とりあえず就職。とりあえず退職。とりあえず、とりあえず、とりあえず。とりあえず両親の葬儀には喪主として出席しなければならない。今度のパントマイムは神妙な顔をして座っているだけの簡素なものだ。悲しくはなかった。不安もなかった。とりあえずどうとでもなった。いつから世の中にとりあえずがなくなったのだろうとFは考える。すべてが目的論的で、合理性によって善悪が測られる。最適なルート、最適な待機場所、最適な配達料金。Fがサイクルデリバリーの最適な配達員になるのはそれからずっと先の話だ。戻れ。
 中学生のFが不機嫌に話している相手は母親だ。その向かい側には仏頂面を浮かべて焼き魚の小骨を抜く父親がいる。二人が自家用車でスーパーに向かう途中に理不尽な衝突事故によって突然の死を迎えるのはあと何年か先のこと。しかし、そう遠いものではない。ところでそのときFは何を話していたか。Fの筆箱を隠した同級生のグループの一人を階段から突き落とした件について。戻れ。
 もし人生の岐路があるとすればどこにあったのだろうと彼は薄らぎつつある意識の中で考える。間時間理論からすればそのあれかこれかの二者択一の問い立て自体が間違いだ。間時間がそうであるように彼の人生もジグソーパズルのようなものだった。すべてのピースが揃わなければ絵は完成しないが、すべてのピースが揃っていなくても何の絵か判断することはできる。特定のピースが問題なのではなくピース全体が問題なのだ。戻れ。
 小学生の自分。幼稚園児の自分。保育園児の自分。乳幼児の自分。その像が次第に単調なパントマイムしかできなくなっていくのを彼は見た。速すぎる。あまりにもその無力は速い。そして何もできない彼は、そうであるかぎりすべてができた。彼は鏡像段階を超えた。
 目は退化した。手と足は退化した。表皮と血管は退化した。胃と肺は退化した。心臓は退化した。そこに、方向の定まらない力だけがあった。胚。それは存在しようと意志することすらできないが、存在することはできた。それはやがて幹細胞を生じ、分裂と機能分化を繰り返す。外胚葉、中胚葉、内胚葉。表皮が形成される。神経が形成される。骨が形成される。血管が形成される。筋肉が形成される。肺が形成される。胃が形成される。心臓が形成される。そこに、速度があった。
 ピストルの発砲音と共に彼は走り出す。徒競走は好きだった。決められた枠の中で全速力を出すことができる。そこは純粋な速度の場だ。運動会のピストルは遠い未来に廃止される。子供にはふさわしくないというもっとも理由で。しかし、それは今の彼には関係のないことだ。
 何をするにも彼にはとりあえずというものがなかった。何をするにも真剣に選んだ。何が彼をそうさせているのか両親は訝った。それは十歳の子供にしてはいささか無邪気を欠く態度だったのだ。といって、咎めるわけにもいかない。息子の心配性は悩みの種ではあったけれども、同時に将来的には安心材料となるだろうと思われたからだった。
 彼自身、どうして自分にとりあえずがないのか不思議に思うことがあった。とりあえずが選べたらもっと楽に生きられるのに、と中学生らしからぬ、あるいはらしいというべきか、背伸びをした憂いに沈んでみることもあった。ただ、それが実存的な悩みへと発展することがなかったのは、陸上部に入部した彼が全速力を発揮できるのが枠の中であることを身体のレベルで知っていたからだった。高校では陸上部には入らなかった。彼が全速力を発揮できる枠の中で、彼は自らの限界を知ったからだった。
 彼はとりたてて人付き合いの良い方ではなかったが、慎重に選んだ友人たちとの仲は長く続いた。その友人たちとこうぼやいたこともある。リア充に生まれたかったよ。その時に、実は彼が同級生の一人と交際していたことを、彼は仲間たちには言わなかった。
 クラクションが彼を現実に引き戻す。彼は再びアクセルを入れると、ナビの案内に従って交差点を左折した。どうして今日に限って思い出すのだろうと思った。今、彼には大学時代に知り合った妻がいる。今、彼には一人の娘がいる。今、彼にはコンビニのルート配送の仕事がある。その仕事が彼は嫌いではなかった。それでも思い出すのは小学生の頃の徒競走だ。家族に不満などなかった。それでも思い出すのは中学の頃に交際していた同級生だ。両親は健在で仲も良い。これまでの人生で知り合った友人たちとは今も馬鹿話で笑い合う。マイペースで少し抜けたところのある娘には不安を覚えることもあったが、心配することはないだろう、なにしろ彼女は抜群に記憶力が良い。金がないわけではなかった。楽しんでいないわけではなかった。満たされていないわけではなかった。それでも、すべてがあるはずのその人生には、何もないように彼には感じられた。
 枠の中だからこそ全速力が出せるのだと、どうしたことか彼は幼い頃から自然と思い込んでいた。でも、もしもそうではないとしたら? 光速を超える物質は見つかるかもしれないし、だとしたらワームホールを作ることもできるようになるかもしれない。ワームホール、枠を超えるもの。それがあれば過去に戻れるのかもしれない。何かの映画ではそうだった。
 ナビは五〇メートル先の右折を告げていて、黄信号は停止を告げている。一筋の涙が彼の頬を伝った。枠。彼はその枠にはもう従わなかった。その代わりにとりあえずアクセルを踏んだ。速く、もっと速く。光を超えて。胚が器官になる前に。
 衝突はただ一瞬の出来事だったが映画やドラマのようにスローモーションにもなれば走馬灯が浮かびもした。主観性科学によれば時間と同じように意識もまた特定の条件下で伸縮する。その一瞬のうちに彼は全てを見、すべてを理解した。彼、宙を舞うサイクルデリバリー配達員を観測する運転手の、深津一郎は。

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