【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その5)

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前のやつ↓
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【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その4)

個人的『罪罰』事典もナ行まで来ました。もうすぐ終わるぞ、もうすぐ終わると思いたい。

珠閒瑠市

「すまる」とは聞き慣れない言葉。しかしこれはプレアデス星団の和名の一つだそうで、ゲーム中でもマイヤの託宣の中にメジャー和名「昴(すばる)」が出てくるが、それとは別に地域によっては「すまる」と呼んだりするらしい。

珠閒瑠のネーミングはダブルミーニングの可能性があり、上に加えておそらくこれも、と思われるのが幻覚剤(おもにLSD)を用いた精神解放実践でジョン・レノンらニューエイジャーの心を掴み、遠くは『マトリックス』にまでその影響を見ることが出来る〈LSD教祖〉ティモシー・リアリーの提唱する「スマイル計画」である。

リアリーによれば人間は七段階の神経回路を持っており…まこのあたりは科学用語で武装した神智学というかヨーガの翻案というか、人間はすごい潜在力を秘めているが日常生活を送っているとその能力は眠ったままだから開発しよう! というベタなやつなのでスルーしてよろしかろうと思いますが、面白いのはそのために構想されたスマイル計画、これは何かといえば宇宙移住計画です。

地上にいたら重力とかなんとかで色々たいへん。それが人類の神経進化の足かせになっている。今こそ宇宙に飛び出して進化しようではないか。宇宙の無重力空間なら人間の秘めたる神経回路がパカァと開花するに違いない。そうすればきっとテレパシーとかだって使えるようになるのだ。だから、スマイル計画。宇宙コロニーを作って移住すべきである、云々。まぁニュータイプですよね。

リアリーの脳神経にスマイル計画が去来したのは1973年の夏、麻薬所持等々の罪で投獄された時のことだった。それ以前に何度も投獄されているので獄中生活など慣れたもの、そのころ既にニューエイジャーやヒッピーのスタアだったリアリーは大胆にも獄中でシンパと共に地球外生命体とのコンタクト実験を行い、宇宙人から通称スマイル・メッセージと呼ばれる電波を受信した(とされる)

モノがモノなので引用を若干躊躇するが、まぁ半信半疑で読んでもらうとして(内容ではなく情報の正確さという意味で)、その体験を基に著されたリアリーの『神経政治学』を種本にしたと思しい武田崇元の終末予言本『ハレー彗星の大陰謀』にはスマイル・メッセージの趣旨は次のようなものだったと書かれている。

いよいよ人間が惑星という子宮を離れて、星間を歩むようになるときが到来した。
われわれは、宇宙に君たちが目を向けるときがやってきたしるしに、太陽系へ彗星を送っている。
〔…〕
進化のゴールは、君たちが、君たちの両親でもあるわれわれが待つ銀河系ネットクークと通信し、帰還することのできる神経回路をみずから作り出すことにある。
君たちは、今やその中途の段階にまでさしかかっている。あとは自分たちを宇宙的存在として確立し、潜在する変異を通して進化し、七つの脳の段階を経て変身することだ。
そのときこそ、君たちの帰還の旅が可能となるのだ。
君たちの精子である字宙船こそは、地球外生命への架け橋という開花なのだ。
『ハレー彗星の大陰謀』p.90

「彗星」を「グランドクロス」に置き換えれば、これはほとんど須藤竜也がマイヤ人から受信した託宣の解説のようなものだろう。『罪』ラストでのフィレモンの言葉にもその残響は感じ取れる。こういうわけで、プレアデス系星人・マイヤ人の残した宇宙船シバルバーが地下に埋まる地は珠閒瑠と呼ばれ、マイヤ人の末裔(と、イデアル先生は語る)たる珠閒瑠市民はシバルバーに乗って進化の旅に出るんだろう。
ちなみに珠閒瑠市はS字に流れる七夕川で東西が分れた円形の都市として描写されるが、この陰陽図模様はおそらくユングが自らの思想をしばしば陰陽図に喩えたことに由来すると思われる。

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電波系

世紀末鬼畜作家の村崎百郎が読者に刺殺された事件の第一報を目にしてふと、どこかで聞いたことがあるような? とデジャヴを覚えた。その時まだ村崎百郎知らない。少なくとも意識には上らない。しかし名前は確かにどこかで聞いたことがある。
あれこれ考え辿り着いたのが前になんとなく古本市で買って積読、というか本棚に埋葬していた90年代悪趣味ムック『あぶない一号』創刊号だった。で、村崎百郎の名を世間に知らしめた『あぶない一号』のゴミ漁りエッセイを読んで、俺の中で因果の糸が繋がった。そこにはまぎれもなく、あの大好きだった、好きすぎてプレイ当時(小学生)将来の夢を聞かれて「放火魔!」と元気いっぱいに答えてしまうほどだった、須藤竜也の元型が認められたのである。

日々穢れてゆく俺の身体と心は、やがて霊的に拡散してこの都市の闇を覆うだろう。俺の霊体が下水から侵入して、便器にまたがるあんたのケツをナメる日もそう遠くないだろう。もっとも、その前にキ○ガイ●院からスカウトが来そうだけどな。くっくっくっ、俺はぜったいにやるぜええええええええ。
『ダスト・ハンティング 霊的ゴミ漁り』(『あぶない一号 1』p.133)

あ、しかもお前、俺の事馬鹿にしてんな、見下してんだろ? 冗談じゃねえぞ立場考えろよ勘違いするなよ俺はおめぇみたいな爛れ切ったおめこの臭い女なんかと寝るような趣味はねぇぞお前のあそこにちんぽこ突っ込むぐらいなら肥溜めに飛び込むわ。うす汚い期待すんじゃねぇこの好きもんがあ! 別に●●じゃなくても誰だって良かったんだろうがそんなに好きなら馬でも飼えよ馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。
『ゲスメディアとゲス人間――ワイドショーへの提言』(『村崎百郎の本』p.70)

お前らがどんなタテマエのもとにいかに上品な文章を載せようが、俺達ゲス人間はそこからいくらだってド最低の情報を妄想できるんだ。どんなに心温まる上品な美談を船介しようが、そこからいくらだって便所の底を突き抜けて地球の裏側まで届きそうな下劣な物語を妄想できるんだ。もう一度言う、すかしてんじゃねえ。お前らが上品か下品なんてのは俺の心掛け次第なんだよ。誰も人が心に想う事を止めることはできない。妄想力は人間に残された最後の下品な可能性だ。糞尿が溢れる黄金の大海原を夢想した事はあるか? 空いっぱいに飛び交う善男善女の淫波を脳で受け止めた事はあるか? 糞の匂いの中には最も人間的な温かさと醜さが同君していて心地良いんだ。
さあ、あんたも来いよ。俺は肥溜めの底で待ってるぜ。
前掲書 p.77

…須藤竜也である。この口調、この発想、完全に〈電波系の狂人〉須藤である。特に最初のパラグラフの都市に拡散する村崎、なんていうのは『罰』のジョーカー須藤の着想源じゃないだろうか。最後のやや長い引用も『罰』の須藤を思わせるところがあるし、この村崎百郎最初期のエッセイがワイドショーの醜悪さを逆説的にあぶり出すもの(であると同時に愛の表明でもあるのだが)というのも、『罰』において新世塾がジョーカー拡散にワイドショーを利用したことを思えば感慨深いものがある。ついでに言えば『罰』の須藤はジョーカーを演じる際に片目だけ穴を開けた紙袋を被っているが、村崎百郎もメディアに姿を見せる時には必ず片目だけ開けた紫頭巾を被っていたのだった。

90年代の村崎百郎は幻聴体験を度々語っていたため電波の語句がゴミ漁りや鬼畜と並んで村崎のキャラクターの象徴となった。多く統合失調症の症状と考えられる(つまりドラッグのように人為的で一時的なものではなく、自然発生的で常態化した)幻聴や支離滅裂な思考が電波と表現されるようになったのは1981年の深川通り魔殺人事件において、犯人の川俣軍司が犯行動機を「電波に操られた」からだと語ったことが大きい。

その電波凶行イメージの典型例として描かれるのが日蝕を神格化したアステカ神話の悪鬼ツィツィミトルの発した電波に従って放火を繰り返した『罪』の須藤竜也だが、それにしても『罰』で須藤が入院させられていた精神科病院閉鎖病棟のホラー的な演出も含め、統合失調症を含む各種精神病の一般的な理解がよくわからん病枠から日常病枠へと移行しつつある今なら人権侵害ものである。

村崎百郎が脚光を浴びるのは1995年の地下鉄サリン事件後のこと。同年7月に『あぶない一号』創刊号に参加、翌96年には主著『電波系』『鬼畜のススメ』を連続刊行。村崎追悼本『村崎百郎の本』には村崎百郎の読者だった若手ライターの村崎鼎談が掲載されており、村崎百郎やその仮面の下に隠された黒田一郎に縁のある人物の寄稿が大半を占めるこの本の中では異質な、本人と直接関わりのない読者が率直な(乾いた、と言ってもいい)放言を垂れるコーナーになっているが、そこで語られている村崎百郎の像はオウム後の時代が求めた「アイデンティティ・ゲーム=自分探し問題圏の人」(九龍ジョー)、ジョーカー的なペルソナである。

須藤のキャラクターからすればリアルタイムで村崎を読んでいたことはほぼほぼ間違いない里見直もそこに同じような像を見ていたのではないか。
自分のケータイから自分のケータイに電話をかけるとジョーカーが現れる。「霊的に拡散してこの都市の闇を覆」ったジョーカーが本来なら不可能なはずのもう一人の自分との対面を仲介する。殺すにしてもアイドルになるにしても、願望を叶えるのはジョーカーの影に隠れた自分自身なんである。

無意識との遭遇に伴う自我の解体と自己の再構築は『ペルソナ』シリーズが依拠するユング心理学の核心だが、おそらくそのために村崎のイメージが求められたのだろう。上の鼎談では磯部涼とさやわかに本気の鬼畜になろうとしてなれなかったメジャー/マイナー図式で思考する単純な二項対立の人(なので時代に置いていかれた)とざっくり斬られてしまっている村崎ではあるが、ゴミ漁りにしても電波にしてもその実践は村崎百郎のペルソナを被ることでのある種の自己実現に還元できるものとは思えない。

それは黒田一郎の自分探しであると同時に、ゴミから他者の物語を見つけ出し、電波で他者の声を発信し、ゼロ年代は唐沢俊一との時事対談『社会派くんが行く!』が主な仕事となるように(そしてそこでの村崎は意外にも唐沢をアシストする役なんである)、道端に捨てられた誰かの叫びや願望を全身で受け止める空虚な依り代となるための自分殺しでもあったのではないかと思う。

シベリアで生まれ幼少期から絶えず電波を受信していたゴミ漁りの工員村崎百郎はマウンティングに余念がない輩が訳知り顔で言うように作られたキャラクターではない。少なくとも電波に関して言えば、村崎は確かに名も無き他者の発する声をいつでも頭の中で聞いていたのだ。だからこそ電波依り代・村崎百郎に成る必要があったし、それはメジャーに対するマイナーの抵抗というよりは、安定性の揺らぎはじめた秩序の中に身を置きつつ、そこに内在する見えざる混沌を可視化して秩序の再生ではなく再構築を試みる、統合を失調した自我/社会の破壊的な統合の行為なのである。

この鼎談ではまたインターネットの普及が村崎的な露悪表現を時に村崎よりも洗練された悪趣味センスを発揮する素人に開放し、したがって大文字の悪趣味を標榜する村崎の仕事は徐々になくなっていった、というポストモダン的な物語が語られるが、それは一面では実際にそうだとしても、そのことで村崎の実践が今や無価値な過去の遺物となったとは思わない。
たとえば洗練された悪趣味・メンヘラの例として挙げられる神聖かまってちゃんの成功は、それが洗練された悪趣味として受容される秩序の層が一部に確立された、というコードやコンテクストの話に過ぎないのではないかと思う。

明らかに、村崎はそうしたジャンルとしての悪趣味に留まろうとした人間ではなかった。インターネットにあるのは全面的な無秩序ゆえの逆説的な秩序ではなく、無秩序の中に無数の異なる秩序の林立する島宇宙であり、村崎はその複数化した現実こそ自らの問題として引き受ける。電波の扱いが村崎よりもスマートという意味では絶賛伸長中の幸福の科学も同じであるし、オルタナ右翼やトランプ等々の各種デマゴーグもそうである。居場所の問題ではなく統合の問題であり、だからこそ村崎は領域横断的に活動したのであるし、「電波系」なのである。

最終的には麻原のコピーとなることが信者に求められたオウム真理教の破局後、あたかもその穴を埋めるかのように頭巾で素顔を隠した誰でもない者として村崎は現れ、1999年の『罪』では恐怖の拡散者キングレオとして、2000年の『罰』では人々の穢れを吸って肥大化するジョーカーとして、混迷の90年代の清算を試みるのだ。

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ニャルラトホテプ

星空の奥の深い闇から吹き流れる冷ややかな風に、人は暗くうら寂しいところで震えていました。四つの季節がめぐるなか、悪魔のような異変が起こる――時は秋で、暑さがいつまでも引かず、誰もが胸に抱くのです。この世界、いえもしかするとこの宇宙は、もう暴走するだけではないのか。わたしたちの知る神さまも、神さまの天候を操る力も、あるいはあずかり知らぬ力も、もはや及ばないのでは……。
そんなときです、ニャルラトホテプがエジプトからきたのは。何ものなのか誰にもわかりません。ただ古代エジプトの血族とかで、ファラオによく似た顔立ちでした。農夫のみなさんは目にするやひざをつきますが、わけは本人にもわかりません。あの方は言うのです、われは二千と七〇〇年の闇から目覚めけり、われはこの星ならぬ地よりみことのりを預かれりと。
H・P・ラヴクラフト『ニャルラトホテプ』大久保ゆう 訳(青空文庫)

ラヴクラフトの暗黒神話世界にニャルラトホテプがはじめて登場した『ニャルラトホテプ』(初訳時は『ナイアルラトホテップ』)はラヴクラフト作品の中でも難解をもって知られる『アウトサイダー』路線の不吉なポエムのような掌編で、そこでのニャルラトホテプはサイレント映画と電気仕掛けの見世物を売りにした興行師のように読めるが、なんだかよくわからない。ニャルラトホテプにキャラクターが与えられるのは後年のことで、ここでのニャルラトホテプは這い寄る混沌そのもの。人々は終末不安に駆られていて、その期待(?)に応えるように彼は現れる。そしてその興行で終末の風景を映し出す禍々しいフィルムを見た人々は一様に狂気に陥るんである。ちょうど今『アントラム』という観ると死ぬ()呪われたホラー映画が公開中だが、それら呪われた映画の元型と言えるかもしれない。『リング』とかもある意味ニャルラトホテプである。

『罪罰』のニャルラトホテプはフィレモンと対を成す集合的無意識の一部、ユング心理学におけるトリックスターの類型を具象化したものとされるが、おそらくそれはニャルラトホテプが終末恐怖と共に彼方からの「みことのり(詔、託宣)」を運んでくる者として、破局と救いの両面を併せ持つ存在だからだろう。シバルバーやアメノトリフネの妄想は世紀末の不安を積極的な破局とその後に訪れる救済の待望に転化する。人々は救済を求めてニャルラトホテプの撒き散らす破局の予兆に群がるわけである。嘲る神の本領発揮。

無貌の神とも呼ばれるように何者にもなることができるが故に何者でもないニャルラトホテプはもっと設定の固い他のクトゥルー神話の住民たちよりもイジりやすいのかクトゥルーを差し置いてホラー/ファンタジー系のフィクションに引っ張りだこで、『這いよれ! ニャル子さん』まで出版させてしまうのだからもはや主神アザトースの存在など忘却の彼方なクトゥルー神話の代名詞っぷり。しかしニャルラトホテプの影響はこうしたポップアイコン的な引用に留まらない。

その恥も外聞もない厨二ネーミングに戦慄を禁じ得ない「暗黒啓蒙」の提唱者として昨今にわかに注目を集めている加速主義の哲学者ニック・ランドはコズミック・ホラーをモチーフにその思想を展開し、小説なんかも書いているらしい。
ニック・ランドの思想とは何か。これは俺の手に余るところではあるが『ニック・ランドと新反動主義』という本を読むと、ざっくり啓蒙とか近代とか偽善じゃん! みたいなところから始まってるらしい。

ランドが重視するのは他者性なのだが、近代というのは他者の権利を守りますよとか他者を尊重しましょうねとか口では言うくせに結局は他者を俺ルールに従わせる体制であって、そこに他者なんかいないじゃないの! 無害化された安全な他者しかお前ら「他者」として受け入れようとしないじゃないの! と、ランドは苛立つ。そこからランドはドゥルーズ=ガタリの思想を援用して主体のない自己を称揚することになる。主体に回収されない存在こそが絶対の他者であり、この偽善だらけの世界の突破口なのだ、みたいな理屈らしい。

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さいきん人権大国フランスで公共施設でのヒジャブ着用を巡って侃々諤々の議論が繰り広げられていたりする(信教の自由と男女平等の理念が対立しているらしい)のはランド的な近代の矛盾が噴出した状況だろうか。近代の矛盾とか啓蒙の反転はなにも真新しい状況ではなく思想的にも歴史のあるもので、そのもっとも鋭利な例としてアドルノ&ホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』でホロコーストは啓蒙の帰結なのだ論を展開したが、ランドともなるとそれよりもっとラディカルに啓蒙を土台にした世界はもうダメだ、ぐらいに言う。

だがランドのもうダメだは思弁的リベラルの諦念ではない。啓蒙、近代、資本主義、民主主義、そのすべての内破の先、シンギュラリティがもたらすであろうカタストロフの先には人知を超えたユートピアがあるとランドは確信する。だからランドの世界はもうダメだ、は積極的な反世界・反啓蒙活動に繋がっていく。これからは暗黒啓蒙だ。逆に、啓蒙が支える資本主義を極限まで加速させてしまえばいいのだ。ダメな状況を加速させ閾値を超えさせることでダメな体制の内破と新しい体制の誕生を目指すことから、こうした思想は加速主義と呼ばれるようになった。加速主義はオルタナ右翼の思想的基盤の一つでもあり、トランプ政権誕生に大きな役割を果たしたブライトバート・ニュース創設者のスティーヴン・バノンも加速主義の影響を受けていると言われる。

ランドは世界の内破後に到来する新たなもの(それは現在は知覚することも想像することもできない)を著述するためにコズミック・ホラーを比喩として借用する。ランドの原点である絶対の他者としてイメージされるのもまたラヴクラフトの暗黒神話世界の住民である。こうして見ると、そのトリックスター的な振る舞いも含め、まるでランド自身がニャルラトホテプの化身のようだ。ランドが所属大学内に設立したサイバネティック文化研究所(CCRU)から生み出されたハイパースティションなる概念/実践は、コズミック・ホラーに浸かっているうちにニャルラトホテプに憑かれた人間に去来した、彼方からの託宣の如しである。

それは「自身を現実化するフィクション」であり、「予言の自己成就」であり、要するに、「噂は現実になる」。真実も虚構も超えたポスト・トゥルースな言説である。どんな突飛な妄想もマントラの如く唱え続けウィルスの如く人から人へ感染し続ければやがて真実になるだろう。インターネットはハイパースティションの実験場だ。SNSはハイパースティション兵器である。そうして情報工学の力で加速され変容した現実の先には、過去でも未来でもない超現実のユートピアが待っているのだ。

オカルティズムとテクノロジーの接合点に啓蒙体制の突破口を見た加速主義者ニック・ランドは主テキスト『暗黒啓蒙』の中で遺伝子操作による人類の進化にも触れている。直接の因果関係はわからないがそこにはティモシー・リアリーのスマイル計画の残滓が見て取れるし、黙示録的アジテーションにはノストラダムスの大予言がこだまする。ラスト・バタリオンの脅威を訴えるオカルト・ネオナチは風説を流布することで第三帝国の再興を目論むが、これこそハイパースティションだ。

ランドの思想の大部分は90年代に形成されたが、主体なき無貌の神、嘲る虚空であり絶対の他者たるニャルラトホテプを媒介に、その思想は90年代の総括としての『罪罰』に繋がる。須藤竜也のモデルとなった(そしてドゥルーズ=ガタリの影響を多分に受けた)村崎百郎もその列に加えることができるだろう。

第二次世界大戦でユダヤ人六〇〇万人を虐殺したヒトラーは何を隠そうこの俺である。罪もない民衆を虐殺して苦しめたローマの暴君ネロは何を隠そうこの俺である。焚書坑儒をした秦の始皇帝は何を隠そうこの俺である。
〔…〕
村崎百郎は時空を超えて存在する悪意の総体である。この悪意は決して終滅することがない。鬼畜行為の裏にはいつも俺がいる。俺を憎め! 俺を恨め! お前らの憎悪が俺を勃起させるのだ。
村崎百郎&根本敬『電波系』

キーワードは脱出だ。ニャルラトホテプは現在からの脱出としての破局を提示する。ニック・ランドにしても『罪罰』にしても村崎百郎にしても、あるいはティモシー・リアリーや矢追純一やオウムの麻原にしても、70年代以降の現代オカルトやニューエイジ思想の論者は現在からの脱出について思考し語ったのだった。その答えは様々だとしても、見世物小屋の映画で破局をシミュレートしてみせ、人々を脱出としての破局へと誘ったニャルラトホテプに誰もが踊らされていた、と言えるのかもしれない。ニック・ランドなんかはレイヴで踊りまくってたそうですし。

【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その6)に続く…。

2020/1/18:「電波系」の項ちょっと書き直しました
2020/2/27:「プレアデス人」の項ちょっと書き足しました
2020/6/4:五十音ができないので「プレアデス人」と「ニャルラトホテプ」の項の掲載順が逆になってました。直しました…。

【ママー!これ買ってー!】


電波系

求む、復刊!

↓参考にしたもの

ハレー彗星の大陰謀―地球最後の日をつきとめた衝撃のオカルト・ルポ (1981年) (ゴマポケット)
危ない1号 (Vol.1)
村崎百郎の本
社会派くんがゆく!疾風編
ラヴクラフト全集 5
ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)

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