【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その1)

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『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』という本を読んでいたらこれ『ペルソナ2』じゃんってなってしまった。どんな本かというとオウム真理教の思想を構成する諸要素をロマン主義・全体主義・原理主義にひとまず切り分けてその歴史を素描するいわばオウム元ネタ集みたいなもの。これらの要素がどのように結びついてどうオウム真理教の思想として結実していったか、という問題はほぼ手つかずなのでオウム真理教関係の本としては弱いのだが、しかしそんなことよりも『ペルソナ2』である。オウムはともかく『ペルソナ2 罪/罰』(以下『罪罰』)というメジャーにしてカルトな世紀末ゲームの全体像が、なんとなくこれで掴めたような気がしたんである。

というわけで『オウム真理教の精神史』で具体的に取り上げられていたいくつかのトンデモ本を手始めに関連しそうなスピリチュアル本とか予言本とか自己啓発本を読んで俺なりに『罪罰』咀嚼、プレイした当時はわけのわからない謎展開に思えたシナリオもなるほどこれがネタ元か、と腑に落ちて色々すっきりしたのでその成果をここに記録として残しておく。また後からわかったことがあったら追記したり修正したりすると思うのでたぶん永久に中間報告。ある意味、2020年現在でも現役で(頭の中で)遊べる『罪罰』は偉大ですなぁ。

『ペルソナ』概要

とその前に『ペルソナ』および『罪罰』がどのようなゲームかシナリオや世界観の面で確認しておきたい。初代の正式タイトルは『女神異聞録ペルソナ』(以下『異聞録』で、「女神」を冠していることからわかるように開発元・アトラスの看板ゲーム『女神転生』シリーズの外伝的な作品に当たる。

『女神転生』は悪魔と呼ばれる世界中の神様や妖精などの…まこのへんは今更こんなの読んでる人なら全員知っていると思うので割愛しますが、『ペルソナ』に特徴的なのはこの悪魔を『女神転生』シリーズのように直接使役するのではなくスタンドとして「呼び覚ます」点で、ユング心理学のキー概念の一つである「ペルソナ」を援用してこれが表現されている。

ユング心理学におけるペルソナとは外的世界に適応するための人間の基本的な態度の型のこと。これと対を成すのは「アニマ/アニムス」で、ユング派心理学者・河合隼雄の言葉を借りると「こころ」とでも訳せるものらしい。外向きの「こころ」がペルソナなら、内向きの「こころ」がアニマ/アニムスであり、前者が家族とか会社とか社会の中での自分なら、後者は自分の中にある自分、という感じになるだろうか。

ちなみにアニマは女性の形を取って表象されるもので男性が持つとされ、逆にアニムスは男性の形を取って女性の中に見出される、とされる。ざっくり男性の中の女性性とか女性の中の男性性と思っておけばよいだろう。ポジティブとネガティブとか陰と陽とか、なんでも一対の組として物事を考えるのがユングなのだ(そのへんは『異聞録』雪の女王編の男女一対+女王のラスボスや『罪罰』におけるフィレモンとニャルラトホテプの関係に反映されている)

『ペルソナ』に話を戻すと、このゲームでは状況に適応するために人が身につける仮面としてペルソナ=内なる神や精霊が出てくる。『異聞録』においてトゥルーエンドの最終ボスが顔を除いて全身を異形化させた病弱高校生のマキになるのは、彼女が適応に失敗し適切なペルソナを身につけられなかったことを意味すると見ていいだろう。つまりは「こころ」の暴走。マキはこころの中に自分だけの妄想世界と理想の自分を作り上げ、それをこころに虚無を抱えた神取は利用して、デヴァ・システムを通じてパラレルワールドとして実体化させるわけだ。この関係性はマキを神取の中のアニムスとして、あるいは神取をマキの中のアニマとしたものだろう。

ちなみにデヴァとはサンスクリット語で神を意味する言葉。ゲーム終盤にはデヴァ・ユガというダンジョンも出てくるが、ユガはインド哲学における循環する四つの「時代」の意。それぞれの時代で創造や破壊を繰り返すが、そのどれにも属さないデヴァ・ユガはさしずめ最終解脱の時代、とでも言えるかもしれない。その頂点に君臨するのがニャルラトホテプをペルソナとする神としての神取である。

以上が『異聞録』のシナリオ骨子。ユング心理学の心理治療では対になるものの乗り越えではなく融合や和解を促すので、それに則って外向けの自分と内向きの自分、嫌いな自分と好きな自分の乖離と再結合が高校生の抱える様々な悩みを通して描かれる、という次第。『女神転生』から引き継いだ悪魔合体(スペルカード合体)では『異聞録』のみの呼称として合体結果の一覧表から選ぶ合体を「ガイド合体」、手動で組み合わせを決める合体を「セルフ合体」と呼んでいるが、これはおそらくトップダウン・デザインで、ユング心理学はセルフ=自己を巡る学であることからこうなった。つまりそれぐらい、タイトルにもなっているわけだから言うまでもないかもしれないが、ユング心理学の影響が強いゲームというわけだ。

続編なのでこの延長線上にあるのが『罪罰』ということになるが、とにかく、まぁ、やった人はわかると思いますが、一作目はこんなにシンプルなのにカオスにも程がありますよねぇ、『罪罰』は…。

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『ペルソナ』シリーズの位置付け

「女神転生シリーズを知らないユーザーにもプレイしてもらいたい」。そんな発想から生まれた「ペルソナ」は、これまでの女神的要素をすべて一新することに重点を置いて制作。すべての人が楽しめるような新しいメガテンスタイルを築いた作品である。

以上は公式ファンブック『女神転生十年史』に載ってるディレクター・岡田耕始の言葉。なんでそんなのをわざわざ書くかといえば『罪罰』という作品を理解するに『女神転生』との関わりは避けて通れないように思えたからで、結論から言ってしまえばシステムのみならずシナリオや世界観の面でも従来の『女神転生』の乗り越えを図ったのが『罪罰』なのだと俺は思う。

じゃあ従来の『女神転生』のシナリオや世界観とは何か。それはもう、キメラです。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』といったハイファンタジーやスチームパンクの世界観で統一されたシンフォニックなゲームに対抗して、メジャーなアングラとしての『女神転生』はそこからあぶれたものを片っ端からアバドンの如く飲み込んだ。たとえば、『女神転生Ⅱ』(以下『Ⅱ』)の荒廃したフィールドマップと主人公アイコンは核戦争後という設定も相まって明らかに『マッドマックス2』や『北斗の拳』のオマージュだし、『真・女神転生』のカオスヒーローや『真・女神転生 if…』(以下『if…』)の宮本アキラは言うまでもなく『デビルマン』が元ネタ(というか『デビルマン』はシリーズ全体の下敷きだ)、学校まるごと異世界に放り込まれる『if…』の基本設定は『漂流教室』丸出しで、『真・女神転生Ⅱ』(以下『真Ⅱ』)の人造人間や地下世界に住むミュータントたちは『AKIRA』の影響が色濃い。

要するにサブカルなんでもあり天国が『女神転生』なわけで、『真・女神転生』(以下『真Ⅰ』)で完成を見たロウ・カオス・ニュートラルのマルチエンド制によく表れている『女神転生』の世界観・思想というのは、一言、リバタリアニズムと言えるだろう。ニーチェの超人思想も底流するその世界観の中では個人は絶対の自由を持っているし、一切の行為は原理的に許されている。ロウを選ぶもカオスを選ぶもプレイヤーの自由だし、『マッドマックス2』を混ぜるも『AKIRA』を混ぜるもクリエイターの自由だ。『女神転生』においてはプレイヤー側もクリエイター側も平等に自由であることが志向されているんである。

さて、その中心がシリーズの礎を築き『if…』まではシリーズに関わった鈴木一也であるなら、『真・女神転生Ⅱ』以降のシリーズ作の指揮を執った岡田耕始は鈴木的なリバタリアニズムを抑制する方向に向かっていく。その路線変更は岡田的「女神」である『真・女神転生 デビルサマナー』(以下『デビルサマナー』)やその続編『デビルサマナー ソウルハッカーズ』(以下『ソウルハッカーズ』が『罪罰』同様にマルチエンドを廃したこと、「女神」をタイトルに冠さなくなったことに端的に表れているが、一方で鈴木の方でも『真Ⅱ』以降は東京に興味がない人がシナリオを書き始めた(※おそらく礒貝正吾のことを言っている)として遠回しに岡田を批判しているし、表現の自由を標榜する鈴木が彼の『女神転生』で重視していたエロスとバイオレンスが岡田体制に変わってから骨抜きにされてしまったことへの反発として、コンシューマーゲームのように配慮がいらないPCゲームでエロスとバイオレンスにまみれた『偽典・女神転生』を岡田とは別に発表するに至るわけである。

外伝的な新規シリーズとして完全に鈴木一也の手を離れ、『真Ⅱ』以降のシリーズ作のシナリオを担当した礒貝正吾もスタッフから外れ、新たに里見直がシナリオを担当した『異聞録』は、それでも一応のマルチエンドを採用していたし、月齢や合体といった『女神転生』のシステムも受け継いでいた。これが『罪罰』になると取っ払われてしまうのだから、冒頭の岡田の言葉は『罪罰』でようやく叶ったというところなんだろう。

そうして遊びやすくなった代償として『罪罰』は自由は失った。万人に受け入れられるようになった代わりに『女神転生』のコアなファンは切り捨てた。『ペルソナ2 罰 公式ガイドブック完全版』に掲載されている岡田・金子・里見の鼎談では、自由そのものをそのゲームで表現しようとしていた鈴木とは明確に異なる、ゲームで自由を描くことの目的が岡田の口から語られている。

倫理的な部分に引っかかる表現があったとしても、悪いことを促しているつもりはない。君はそれについてどう考えるの、って問題提起しているんだよ。作品を通しての問いかけとして必要なんじゃないか、ということで、社会的な問題や、倫理的な問題を投げかけている。

目的ありきの表現の自由であり、その自由を通してプレイヤーの思考を促すことが、岡田の考える『メガテン』の存在意義なんだろう。ここには鈴木の『女神転生』にあったプレイヤーとクリエイターの平等な関係はない。クリエイターの創造した物語の中でプレイヤーは想像することを求められるわけで、『女神転生』が当初持っていたラディカルさを思えば一般的なRPGの思想にずいぶん接近したというか、悪い言い方をすれば後退したんである。

じゃあなんで後退せざるを得なかったのか、なんで一般向けに後退してるくせにこんなにカオスなシナリオになっているか、というところがおそらく『罪罰』の核心なんじゃないだろうか。

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『罪罰』とはなんだったのか

『オウム真理教の精神史』で取り上げられているトンデモ本には『罪罰』とネタ的に被るものがあると先に書いたが、これは具体的に何かというと五島勉の『ノストラダムスの大予言』であり、〈霊的ボルシェビキ〉武田祟元の『ハレー彗星の大陰謀』であり、川尻徹の『滅亡のシナリオ』とかになる。こうして並べてみるとそれが直接影響を与えたかどうかはともかくとして、鈴木一也のキリスト教的終末論を背景にしたリバタリアニズムとも思想が重なる部分があることに気付かされる。

と同時に、『オウム真理教の精神史』ではまったく取り上げられていないが、鈴木的リバタリアニズムに間違いなく大きな影響を与えた作品群をその範列に加えてもいいのではないかと思った。上の3つのトンデモ本はいずれも20世紀末に終末が訪れるとするもので、とくに『ノストラダムスの大予言』はキリスト教信仰の薄い日本において終末論の「布教」に大きな役割を果たしたルポルタージュ風文学だが、こうして布教され公害や核戦争の恐怖とも相まってリアルなものとして醸成されていった終末ムードを背に、ポストモダン思想やニューエイジ思想、サイバーパンクSFなどのごった煮キメラとして産み落とされた大友克洋『AKIRA』や、終末の到来を目論んで都市に跋扈する魔界のけだものを狩る闇ハンターの男が魔界の女とまぐわう菊地秀行原作・川尻善昭監督の『妖獣都市』(『女神転生』への影響は種族名に妖獣を採用していることからも明らかだろう)や、『妖獣都市』と同じくマッドハウスによって映画化され大友克洋が参加したプレ・AKIRAとも言える平井和正原作・りんたろう監督の『幻魔大戦』(こちらも後に種族名として『デビルサマナー』以降のシリーズに取り入れられることになる)などがそれに当たる。

というのも『幻魔大戦』の平井和正はオウム真理教と同時代に誕生した幸福の科学の母体でもある新宗教団体GLA総合本部の熱心な信者(ゴーストライターとして教団史を執筆したほど)だった時期があり、ベガやルナといった星占術的命名、修行による超能力の開花や宇宙意志との交感の要素、光と闇の宇宙規模の闘争といったニューエイジ的なモチーフからいっても超能力開発を初期の布教のエサとしていたオウムと近い領域にあったと言えるし、けだもので溢れた都市を強い男がハードボイルドかつバイオレントに生き抜き人獣混血の新たな種・新たな世界の誕生を予感させる『妖獣都市』の終末恐怖とユートピア願望がない交ぜになったオトコノコ的世界観は最終的に武力革命を目論むに至った末期オウムの世界観と一脈相通ずるところがある(この点では『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』もまったく無関係の位置にあったわけではないだろう)、現世界の破壊による新世界の創造をあまりにも力強く魅力的に描いた『AKIRA』については、オウムとは浅からぬ因縁のある宗教学者・中沢新一責任編集の『イマーゴ』1995年8月臨時増刊号での元オウム信者・高橋英利、中沢新一、河合隼雄の鼎談における高橋の発言を引用したい。

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オウムに集まってきた人のほとんど全員が、『アキラ』を読んでいました。文化的財産として僕たちが接している本や映画など、破壊的なものがあまりにも多すぎるように思います。それに終末論的なものが多い。そういう作品をつくった人たちも、実際に冷戦時代の精神的な緊張があるから、ああいう作品が生み出されたんだと思うんです。
(…)
僕たちも小さい頃から「ノストラダムスの大予言」にあるように、一九九九というと反応している部分もあるんです。実際そこにどんどん近づいているようで、だからオウムの問題であろうとなかろうと、ハルマゲドンという問題だけは一つのジャンルとして根強く残っているんですよ。

この号には共に麻原彰晃と対談したことのある(そしてどっちも麻原を宗教者として高く評価していた)中沢新一と荒俣宏のあ~あ騙されちゃったな~みたいなトーンのオウム対談も載っているが、その荒俣宏の伝奇小説『帝都大戦』も『女神転生』では特に『真Ⅱ』に大きな影響を与えているであろうことを思えば、『女神転生』とオウム的なるものがいかに背景文化を共有していたかということがよくわかる。

こうしてようやく結論に入ることができる。オウムが地下鉄サリン事件を起こして瓦解した後の、『ノストラダムスの大予言』によれば恐怖の大王が降ってくるはずの1999年7月の直前1999年6月24日にリリースされた『罪』は、終末論の消費が現実の終末論を招くまでを描くことでまさしくこれら『女神転生』が養分としてきた終末論的作品群やカルチャーの罪を描いて、当然ながら恐怖の大王が降ってくることのなかったその翌年2000年6月29日にリリースされた『罰』は、その罪を清算し鈴木一也の『女神転生』と決別しようとした、と俺は考えている。

と同時に、『罰』では鈴木一也の『女神転生』に託された終末論的リバタリアニズムやニューエイジ的な霊性進化論、カウンターカルチャーとしてのオカルトや歴史のifの想像力が、結局は保守政治家・須藤竜蔵とそのシンパのナショナリスティックな欲望や個人的な不死の願望を実現するための道具として利用され、それらが持っていたはずの解放性とは裏腹に、自由を制限する方向に機能してしまうことが痛烈に批判されていたのではないかとも思う。

ニューエイジの大きな源流の一つであるユング思想を主題として取り上げた理由もそこにあるのではないだろうか。大量動員された『女神転生』的な諸要素は『罪罰』をかくもわけわからんゲームにしているが、ごった煮上等のカオティックな『女神転生』と真っ向からぶつかって、それを批判しつつ吸収することで『女神転生』ではない新たなシリーズの姿を提示するためには、そのように作らなければならなかったのではないだろうか。

以上すべて俺の想像でしかないわけだが、『オウム真理教の精神史』から『罪罰』シナリオ考を始めてひとまず辿り着いたのがそのへんなので、大枠の話はこれぐらいにして、次は『罪罰』の内容に即して元ネタ(と思しきもの)とその意味を解き明かしていきたいと思います。そうですなんと続くんです。なんと。

次回→【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その2)

2020/1/3:追記
『女神異聞録ペルソナ 公式ガイドブック』の『罰』攻略本と同じ面子での鼎談中、今70年代的なものが来てるよね? みたいな文脈で岡田が「今までは何かタイミングが悪いっていうか行き過ぎてたとこがあって。それが合ってきたのかな」と発言している。このへん、鈴木の『女神転生』を暗に批判しているようにも読めて興味深いところ。

【ママー!これ買ってー!】


ペルソナ2罪 PlayStation the Best

今やるとシステムの雑さがつらい。合体魔法面倒くさい。

↓参考にしたもの

イマーゴ imago 1995年8月臨時増刊号 総特集=オウム真理教の深層 (中沢新一責任編集)
オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義
ユング心理学入門
現代にっぽん新宗教百科
女神異聞録「ペルソナ」公式ガイドブック
ペルソナ2罰 公式ガイドブック完全版
女神転生十年史

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