【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その6)

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ようやく終わりが近くなってきた。『罪罰』事典の「プレアデス人」と「マヤ」編です。

プレアデス人

プレアデス星団は『罪罰』の中核的なモチーフだ。なにせ達哉たちの通う高校名がギリシア神話のプレアデス七姉妹から採られた七姉妹学園、舞耶の初期ペルソナは七姉妹の長女マイヤ、珠閒瑠=プレアデス星団であるし『罰』にはホテル・プレアデスというのもある。
プレアデス祭り。須藤竜也にマイヤの託宣を下した(と、橿原先生が思い込んでしまう)のもプレアデス星系のマイヤ人である。人類の故郷は地球ではなくプレアデス星団であった(と、橿原先生は思い込んでしまう)

今日では幸福の科学がその世界観に取り入れていることでも知られるプレアデス人のミームはスイス人チャネラー、ビリー・マイヤーに端を発する。マイヤーがプレアデス人の宇宙飛行士・セムヤーゼと接触したとされているのが1975年、以降マイヤーはセムヤーゼから得た超人類的な知識を地球人に伝授すべくUFO写真を人に見せたりする超人類的啓蒙活動に入り、UFOがイケイケだった時代の波に乗ってプレアデス人のミームは世界中に(かどうかは知らないが)広まった。

プレアデス人が今でも一部の人々の心を掴んで離さないのはそれが現生人類の祖先ないし近縁とされているからであり、現生人類の目から見ればいずれそうなるべき高次の人類とされているからである。
マイヤーの記述に多くを負ったと思われるチャネラーのリサ・ロイヤルはキース・プリーストとの共著『プリズム・オブ・リラ』(邦訳は1992年)で、シュタイナー人智学を土台にプレアデス人を含む「銀河宇宙一族」の歴史の体系的記述を試みている。

曰く、最初に「大いなるすべて」があった。「大いなるすべて」は完全であったがあるとき分裂を経験してみたくなった。ここからあらゆる生命の原意識が生まれ、分裂の意志が誕生の契機であったがゆえにその原理は光と闇、善と悪、男と女などの二項対立となる。そして二項対立を原理とするがために選択の自由が生まれ、これが自由意志ということになる。自由意志、これが「大いなるすべて」を忘却した人類に残された「大いなるすべて」の片鱗であり、「大いなるすべて」に続く道である。

魂にとっての挑戦は、自分に自由意志があることを思い出すことである。自由意志の行使こそが、神聖な記憶をよみがえらせる鍵なのだ。
『プリズム・オブ・リラ』p.23

さて、こうして生まれた生命の原意識は琴座(リラ)の超次元ゲートみたいなのをくぐって「創造の礎たち」なる集合意識に変化した。これが「銀河系宇宙一族」の直接の祖先、宇宙人版のミトコンドリア・イヴである。「創造の礎たち」は更なる分裂を行い銀河中に散らばった。こうして琴座人とかシリウス人とかベガ人とか色々生まれる。その中にプレアデス人もあった。

〈地球人の同胞〉プレアデス人の歴史は波瀾万丈、なんでも外向的・好戦的な男性原理派の琴座人と内向的・平和的な女性原理派の琴座人が争って、そのネガティブな影響を嫌った琴座人の一団が戦火を逃れて太古の地球に移住した。そしたら地球はなんか暮らしにくかったので霊長類の遺伝子をちょっと貰って自分たちで地球に適応するよう遺伝子編集を施した。地球人の同胞と呼ばれる所以であるが、まだ全然終わりではない。

遺伝子操作までしてやっと安住の地を見つけたかと思われた地球系琴座人であったが、そこに別の琴座人集団がやってくる。その集団は自分たちとは逆に霊長類に自らの遺伝子を組み込んだりしはじめたので地球系琴座人は憤慨する。だが争いの放つネガティヴィティを好まぬ彼らは再び亡命を選ぶ。こうして見つけたのがプレアデス星団であった。だがまだ全然終わりではない。

プレアデス星団に移住して幾歳月。その間プレアデス星団では戦争もなく平和そのもの。すばらしいことではないかと思うが平和は宇宙人をボケさせる、ネガテヴィティを嫌うあまりいつしか自らのシャドウを追い払ってしまったプレアデス人は活力を失い衰退期に入る…とここで折から身内で戦争をしていたオリオン人の電波をプレアデス人は受信する。シャドウを失ったプレアデス人は善悪の葛藤を求めて加勢した。その結果とても栄えていたプレアデス文明はボロボロになってしまった。だがまだ全然終わりではない。

そのころ地球では例の遺伝子組み換え琴座人が「創造の礎たち」の電波を受けて地球人創造計画の真っ最中。その計画には霊長類の遺伝子を持つプレアデス人も必要だった。ボロボロのプレアデス人は計画に協力する。見返りに地球人が悪いことをしたりしないよう監督する権限を与えられたプレアデス星人は原初の地球人たちから神として崇められることになる。こうした過去からプレアデス人は現在でも地球にふらりと立ち寄ったりする。マイヤーのコンタクトもその一例である。だがまだぜんぜ…もう終わりでいいな!

ともかく、これはリサ・ロイヤル史観ではあるが、宇宙人業界では概ねこんな感じでプレアデス人が理解されているらしく、霊性進化を遂げたくば自由意志でもってプレアデス人とコンタクト取れ、まぁ親戚みたいなものだし助けになってくれるだろう…会いに行けるアイドルならぬ会いに行ける宇宙人、それがプレアデス人なのである。しかも会いに行ったらちょっとだけ魂のステージ上がる。

微笑ましい与太話だが集合意識やシャドウの語が使われているように『プリズム・オブ・リラ』もまたその理論に(シュタイナーの影響を受けたと言われる)ユング心理学を援用したオカルト本であり、っていうか90年代のオカルト本だいたいユング心理学に依拠しているのだが(『古代マヤ文明が日本を進化させた』も明らかにそうである)、ここにはオウム真理教や幸福の科学なんかの新新宗教に入信者が求めたかもしれないもの、どうせできやしない世界の変革の代替行為としての自己変革の願望、それを自らの自由意志で選択することでのエリート意識の獲得、等々が見出される。

ビリー・マイヤーがプレアデス人・セムヤーゼと遭遇したのはティモシー・リアリーの宇宙人コンタクト実験の2年後である。リアリーが名前を与えなかった宇宙人に具体的なイメージと名を与えて拡散したのがマイヤー、と言えばビリーバーの人に失礼だから「事実として受け入れるも、象徴として受け入れるも読者の自由」(前掲書 p.184)という訳者あとがきに倣って、事実として受け入れるも例え話として受け入れるも読者の自由、とでも言っておこう。

いずれにしても、こうしてプレアデス人は人類の進化のイメージ、人類の宇宙進出のイメージ、ユング的統合のイメージ、選民のイメージ、おおげさな言い方をすれば救済のイメージを纏って今日に至る。『罪』でプレアデス星系のマイヤ人がキーワードとして出てくるのは、1999年の破局に対してプレアデス人こそが救いになる、という神なき時代の代替的な神としてそれが捉えられているからなんである。その意味ではマイヤ人と麻原彰晃、シバルバーとシャンバラはそれほど遠い存在ではないのだ。

ちなみに『プリズム・オブ・リラ』によると古代マヤ人は観光かなんかで地球に寄ったシリウス人に色々教えてもらったので高度な文明を築いたそうです。高尚なのか卑近なのかどっちなんだ。

マヤ

googleで「マヤ」と検索すると一ページ目から占いサイトやブログが目白押し。マヤ歴の記述が2013年までしかないことからノストラダムスに代わる終末予言としてゼロ年代にはそれなりに盛り上がりを見せたマヤ文明ネタだったが、もちろんきっちり外れた(というか別になにも予言してない)現在でもマヤといえば占い・予言のたぐいらしい。少なくともネット世界では。

確かにマヤという言葉には思わずスピリたくなる不思議な引力がある。マーヤー=摩耶はブッタの生母の呼び名。同時にヒンドゥー教においては創造神ブラフマーの神秘そのものを表す概念であり、目に見え手に触れることのできる現実世界を形作るもの(そしてその下には人智の及ばぬ神の世界が隠れていることから、世界の本態を隠すもの、イデアの世界に在るもの、とも言える)このマーヤーなのだとか。これはギリシア哲学におけるプネウマ(スピリトゥス)、世界を満たし生気を与える「流体」とよく似た概念だが、ギリシア神話にはマイヤという女神がいる。

マイヤはアトラスを父に持つプレアデス七姉妹の長女でヘルメス生んだが、『罪罰』ではまぁ改めて書く必要もないでしょうが天野舞耶の初期ペルソナ。舞耶を母のように慕う黒須淳の初期ペルソナがヘルメスなのはこのへんが理由なんでしょう。
マイヤの名はローマ神話にもあり、これはギリシア神話のマイヤとは起源を異にするが、後に混同されたと信憑性のあやしいウィキペディアには書いてある。ローマ版マイヤの夫は鍛冶の神ヴァルカンで、英語読みだとわからないがこれはヴォルカヌスのこと。周防達哉の初期ペルソナだ。

『罪罰』の登場ペルソナはこのようにマヤ=マイヤを中心に組織されていて、ブッダ(シャカ)が敵悪魔/ペルソナとして登場するシリーズ作なんて『罪罰』ぐらいじゃなかろうと思うのだが、それも「マヤ」のゲームであることを思えば納得。それにしてもこのブッダ、レベル29とか徳が低すぎないだろうか。それを言ったらレベル23だった『異聞録』のブラフマーは創造神とは思えぬ冷遇っぷりでしたが。

マヤといえば個人的に頭に浮かぶのがデヴィッド・リンチやケネス・アンガーといった名だたるアングラ映画作家に影響を与えたと言われる米アングラ映画界の女神、もしくは魔女のマヤ・デレン。領域横断的に活動したジャンルレスなアーティストのマヤ・デレンは舞踏家としての顔もあったが、このへん、舞耶の「舞」とダジャレたくなるところで、その映画も『仮面/ペルソナ』を代表作に持つ巨匠イングマール・ベルイマンの作品を思わせるところがある、と空虚な連想はとめどなく続く。
マヤ。たった二文字なんだからそりゃそうだろうと言われれば返す言葉はまったくないが、ぜんぜん異なる概念を流体的に一つに結びつけてしまうもの、あるいは偏在するイデアのイメージをマヤという言葉は纏っている。

マヤ文明の方のマヤを特徴付けるのはなんといってもその独特の暦で、マヤ暦の本を読んでも正直さっぱり仕組みがわからない。ともかくわかるのは一見なんの意味があるのかわからないおそろしく複雑なシステムだということである。あまりにわからないからちょっと引用してみよう。

マヤでは、これらの暦が単独に使われるのではなく、二つの暦が組み合わされる。はじめてマヤ暦に触れる読者にとって混乱を招くことのないように、ここで一部繰り返しになるが、改めて整理しておこう。
①ハアブ暦(太陽暦)……1年365日=20×18ヶ月+5日。
ただし、マヤの長期計算法(13バクトゥン周期/約5200年間)や短期計算法13カトゥン周期/約260年間)で見られる1年(トゥン)は、通常、1年360日の計算に基づいている。
②ツォルキン暦(神聖暦)……1年260日=13×20日。
20の日文字の何日目であるか、そして1から13までの数字の何番目であるか、その組み合わせによってその日の名前が決まる。
一例をあげると、私たちの暦での1995年7月26日は、ポプ月(7月26日~8月14日)の一日目なので、ハアブ/太陽暦では〈ポプ・0〉あるいは〈0・ポプ〉と表示される。これに対して、神聖暦では、(今日では起点の異なる分派があって一定ではないが、たとえば)〈3・イシュ〉となる。
高橋 徹『古代マヤ文明が日本を進化させた!』

これはこの人の文章の問題もあると思うが、そもそも20進法で数を数えた上に、その数をわざわざタロットカードのように組み合わせて使う、という古代マヤ人の数字占いにかける情熱(?)は凡人の理解を超越している。20進法だから単位も1(キン)、20(ウィナル)、とここまではよいがこれは20の倍数で次の単位に移行するシステムなので、次は360(トゥン)、7200(カトゥン)、144000(バクトゥン)…なんでそうなるのか。まぁ、このへんは興味のある人は変なオカルト本とかこんな蒙昧ブログとかじゃなくてちゃんとした考古学者の人とかの本でも読めばいいと思う…。

『罪罰』とマヤ文明の関係を理解する上で重要なのはマヤ暦に表現された無時間的で円環的な時間である。古代マヤでは時間は過去から未来へ至る直線として理解されてはいなかった(らしい)。そのため日文字(1~20まであり、それぞれに絵文字が付いている)と1~13までの順番を組み合わせて日の呼称や性質を決めたりしていたらしいが、これがこの項の最初に挙げたマヤ占いで、マヤ暦というのはグレゴリオ暦のように時間を均質に捉えて計算するためのシステムではなく、その日その日に独特の性質を与えるためのシステムであることが理解できる。

始めと終わりが繋がった円環的な時間の中で積算は意味を成さない。その代わりそこにあるのは有限の時間の中のすべての組み合わせの可能性だ。ユング心理学を物語の中核に据えた『罪』では個々のキャラクターの個性化の過程が青年期の様々な葛藤を通して描かれるが、そうした個性化の過程は有限の時間/円環的な時間を前提としたもので、であればこそどんな自分の在り方も創造できるというもの。マヤ的な有限の円環時間は三年間同じ場所で同じ季節を過ごす学園生活のメタファーとしても、集合的無意識のアナロジーとしても捉えることもできるだろう。

翻って『罰』では過去を引きずる大人たちの自己の再定義や承認が描かれる。ここに流れる時間は明確に直線時間で、過去から現在へ、現在から未来へ、と一直線にどこまでも続く。『罪』のように過去に戻ってやりなおせる円環時間の中で人はどんな自分にもなることができる。しかしそこにはどんな自分になることができる可能性があるだけで、可能性を超えてそうなりたい自己を確立する未来は無い。『罰』の直線時間はやり直しがきかない。その代わりそこには何者であれ自己を確立する無限の未来はある。円環時間と直線時間は人間の可能性というものの表と裏なんである。

何者にもなることができるが故に何者でもないニャルラトホテプは円環時間に人々を導こうとする。ゲーム中では蓮華台にあるアクセサリー屋「時間城」の店主は公式設定でニャルラトホテプの化身だそうだが、壁一面に飾られたアナログ時計が象徴する円環時間こそニャルラトホテプの居城である。
『罪』と『罰』のエンディングの違いは円環と直線のどちらの時間を主体的に採用するかという違いだが、こうして見ると、『罪罰』はアラヤ神社の悲劇に端を発するマヤの円環時間に囚われた達哉たちが、あるいはマヤ自身が、その時間から脱するまでの物語と言えるかもしれない。

ちなみに天文学に長けていたマヤ文明は占星術との絡みで語られることも多く、『罪』は占星術の概念であるグランドクロスがキーワードになっているので、そのへんマヤのモチーフが援用された所以だろうと思われる。

2020/6/4:五十音ができないので「プレアデス人」と「ニャルラトホテプ」の項の掲載順が逆になってました。直しました…。

次→【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その7)

【ママー!これ買ってー!】


終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

あまりにもキャッチーなタイトルが一人歩きしてしまった社会学者・宮台真司のオウム論&90年代論。『罪罰』にもやっぱ影響与えてんじゃないでしょうか。

↓参考にしたヤツ

電波系
プリズム・オブ・リラ―銀河系宇宙種族の起源を求めて
古代マヤ文明が日本を進化させた!―時空を超えた宇宙人のシナリオ (超知ライブラリー)
マヤの予言

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