【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その6)

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ようやく終わりが近くなってきた。『罪罰』事典の「ニャルラトホテプ」と「マヤ」編です。

ニャルラトホテプ

星空の奥の深い闇から吹き流れる冷ややかな風に、人は暗くうら寂しいところで震えていました。四つの季節がめぐるなか、悪魔のような異変が起こる――時は秋で、暑さがいつまでも引かず、誰もが胸に抱くのです。この世界、いえもしかするとこの宇宙は、もう暴走するだけではないのか。わたしたちの知る神さまも、神さまの天候を操る力も、あるいはあずかり知らぬ力も、もはや及ばないのでは……。
そんなときです、ニャルラトホテプがエジプトからきたのは。何ものなのか誰にもわかりません。ただ古代エジプトの血族とかで、ファラオによく似た顔立ちでした。農夫のみなさんは目にするやひざをつきますが、わけは本人にもわかりません。あの方は言うのです、われは二千と七〇〇年の闇から目覚めけり、われはこの星ならぬ地よりみことのりを預かれりと。
H・P・ラヴクラフト『ニャルラトホテプ』大久保ゆう 訳(青空文庫)

ラヴクラフトの暗黒神話世界にニャルラトホテプがはじめて登場した『ニャルラトホテプ』(初訳時は『ナイアルラトホテップ』)はラヴクラフト作品の中でも難解をもって知られる『アウトサイダー』路線の不吉なポエムのような掌編で、そこでのニャルラトホテプはサイレント映画と電気仕掛けの見世物を売りにした興行師のように読めるが、なんだかよくわからない。ニャルラトホテプにキャラクターが与えられるのは後年のことで、ここでのニャルラトホテプは這い寄る混沌そのもの。人々は終末不安に駆られていて、その期待(?)に応えるように彼は現れる。そしてその興行で終末の風景を映し出す禍々しいフィルムを見た人々は一様に狂気に陥るんである。ちょうど今『アントラム』という観ると死ぬ()呪われたホラー映画が公開中だが、それら呪われた映画の元型と言えるかもしれない。『リング』とかもある意味ニャルラトホテプである。

『罪罰』のニャルラトホテプはフィレモンと対を成す集合的無意識の一部、ユング心理学におけるトリックスターの類型を具象化したものとされるが、おそらくそれはニャルラトホテプが終末恐怖と共に彼方からの「みことのり(詔、託宣)」を運んでくる者として、破局と救いの両面を併せ持つ存在だからだろう。シバルバーやアメノトリフネの妄想は世紀末の不安を積極的な破局とその後に訪れる救済の待望に転化する。人々は救済を求めてニャルラトホテプの撒き散らす破局の予兆に群がるわけである。嘲る神の本領発揮。

無貌の神とも呼ばれるように何者にもなることができるが故に何者でもないニャルラトホテプはもっと設定の固い他のクトゥルー神話の住民たちよりもイジりやすいのかクトゥルーを差し置いてホラー/ファンタジー系のフィクションに引っ張りだこで、『這いよれ! ニャル子さん』まで出版させてしまうのだからもはや主神アザトースの存在など忘却の彼方なクトゥルー神話の代名詞っぷり。しかしニャルラトホテプの影響はこうしたポップアイコン的な引用に留まらない。

その恥も外聞もない厨二ネーミングに戦慄を禁じ得ない「暗黒啓蒙」の提唱者として昨今にわかに注目を集めている加速主義の哲学者ニック・ランドはコズミック・ホラーをモチーフにその思想を展開し、小説なんかも書いているらしい。
ニック・ランドの思想とは何か。これは俺の手に余るところではあるが『ニック・ランドと新反動主義』という本を読むと、ざっくり啓蒙とか近代とか偽善じゃん! みたいなところから始まってるらしい。

ランドが重視するのは他者性なのだが、近代というのは他者の権利を守りますよとか他者を尊重しましょうねとか口では言うくせに結局は他者を俺ルールに従わせる体制であって、そこに他者なんかいないじゃないの! 無害化された安全な他者しかお前ら「他者」として受け入れようとしないじゃないの! と、ランドは苛立つ。そこからランドはドゥルーズ=ガタリの思想を援用して主体のない自己を称揚することになる。主体に回収されない存在こそが絶対の他者であり、この偽善だらけの世界の突破口なのだ、みたいな理屈らしい。

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さいきん人権大国フランスで公共施設でのヒジャブ着用を巡って侃々諤々の議論が繰り広げられていたりする(信教の自由と男女平等の理念が対立しているらしい)のはランド的な近代の矛盾が噴出した状況だろうか。近代の矛盾とか啓蒙の反転はなにも真新しい状況ではなく思想的にも歴史のあるもので、そのもっとも鋭利な例としてアドルノ&ホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』でホロコーストは啓蒙の帰結なのだ論を展開したが、ランドともなるとそれよりもっとラディカルに啓蒙を土台にした世界はもうダメだ、ぐらいに言う。

だがランドのもうダメだは思弁的リベラルの諦念ではない。啓蒙、近代、資本主義、民主主義、そのすべての内破の先、シンギュラリティがもたらすであろうカタストロフの先には人知を超えたユートピアがあるとランドは確信する。だからランドの世界はもうダメだ、は積極的な反世界・反啓蒙活動に繋がっていく。これからは暗黒啓蒙だ。逆に、啓蒙が支える資本主義を極限まで加速させてしまえばいいのだ。ダメな状況を加速させ閾値を超えさせることでダメな体制の内破と新しい体制の誕生を目指すことから、こうした思想は加速主義と呼ばれるようになった。加速主義はオルタナ右翼の思想的基盤の一つでもあり、トランプ政権誕生に大きな役割を果たしたブライトバート・ニュース創設者のスティーヴン・バノンも加速主義の影響を受けていると言われる。

ランドは世界の内破後に到来する新たなもの(それは現在は知覚することも想像することもできない)を著述するためにコズミック・ホラーを比喩として借用する。ランドの原点である絶対の他者としてイメージされるのもまたラヴクラフトの暗黒神話世界の住民である。こうして見ると、そのトリックスター的な振る舞いも含め、まるでランド自身がニャルラトホテプの化身のようだ。ランドが所属大学内に設立したサイバネティック文化研究所(CCRU)から生み出されたハイパースティションなる概念/実践は、コズミック・ホラーに浸かっているうちにニャルラトホテプに憑かれた人間に去来した、彼方からの託宣の如しである。

それは「自身を現実化するフィクション」であり、「予言の自己成就」であり、要するに、「噂は現実になる」。真実も虚構も超えたポスト・トゥルースな言説である。どんな突飛な妄想もマントラの如く唱え続けウィルスの如く人から人へ感染し続ければやがて真実になるだろう。インターネットはハイパースティションの実験場だ。SNSはハイパースティション兵器である。そうして情報工学の力で加速され変容した現実の先には、過去でも未来でもない超現実のユートピアが待っているのだ。

オカルティズムとテクノロジーの接合点に啓蒙体制の突破口を見た加速主義者ニック・ランドは主テキスト『暗黒啓蒙』の中で遺伝子操作による人類の進化にも触れている。直接の因果関係はわからないがそこにはティモシー・リアリーのスマイル計画の残滓が見て取れるし、黙示録的アジテーションにはノストラダムスの大予言がこだまする。ラスト・バタリオンの脅威を訴えるオカルト・ネオナチは風説を流布することで第三帝国の再興を目論むが、これこそハイパースティションだ。

ランドの思想の大部分は90年代に形成されたが、主体なき無貌の神、嘲る虚空であり絶対の他者たるニャルラトホテプを媒介に、その思想は90年代の総括としての『罪罰』に繋がる。須藤竜也のモデルとなった(そしてドゥルーズ=ガタリの影響を多分に受けた)村崎百郎もその列に加えることができるだろう。

第二次世界大戦でユダヤ人六〇〇万人を虐殺したヒトラーは何を隠そうこの俺である。罪もない民衆を虐殺して苦しめたローマの暴君ネロは何を隠そうこの俺である。焚書坑儒をした秦の始皇帝は何を隠そうこの俺である。
〔…〕
村崎百郎は時空を超えて存在する悪意の総体である。この悪意は決して終滅することがない。鬼畜行為の裏にはいつも俺がいる。俺を憎め! 俺を恨め! お前らの憎悪が俺を勃起させるのだ。
村崎百郎&根本敬『電波系』

キーワードは脱出だ。ニャルラトホテプは現在からの脱出としての破局を提示する。ニック・ランドにしても『罪罰』にしても村崎百郎にしても、あるいはティモシー・リアリーや矢追純一やオウムの麻原にしても、70年代以降の現代オカルトやニューエイジ思想の論者は現在からの脱出について思考し語ったのだった。その答えは様々だとしても、見世物小屋の映画で破局をシミュレートしてみせ、人々を脱出としての破局へと誘ったニャルラトホテプに誰もが踊らされていた、と言えるのかもしれない。ニック・ランドなんかはレイヴで踊りまくってたそうですし。

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マヤ

googleで「マヤ」と検索すると一ページ目から占いサイトやブログが目白押し。マヤ歴の記述が2013年までしかないことからノストラダムスに代わる終末予言としてゼロ年代にはそれなりに盛り上がりを見せたマヤ文明ネタだったが、もちろんきっちり外れた(というか別になにも予言してない)現在でもマヤといえば占い・予言のたぐいらしい。少なくともネット世界では。

確かにマヤという言葉には思わずスピリたくなる不思議な引力がある。マーヤー=摩耶はブッタの生母の呼び名。同時にヒンドゥー教においては創造神ブラフマーの神秘そのものを表す概念であり、目に見え手に触れることのできる現実世界を形作るもの(そしてその下には人智の及ばぬ神の世界が隠れていることから、世界の本態を隠すもの、イデアの世界に在るもの、とも言える)このマーヤーなのだとか。これはギリシア哲学におけるプネウマ(スピリトゥス)、世界を満たし生気を与える「流体」とよく似た概念だが、ギリシア神話にはマイヤという女神がいる。

マイヤはアトラスを父に持つプレアデス七姉妹の長女でヘルメス生んだが、『罪罰』ではまぁ改めて書く必要もないでしょうが天野舞耶の初期ペルソナ。舞耶を母のように慕う黒須淳の初期ペルソナがヘルメスなのはこのへんが理由なんでしょう。
マイヤの名はローマ神話にもあり、これはギリシア神話のマイヤとは起源を異にするが、後に混同されたと信憑性のあやしいウィキペディアには書いてある。ローマ版マイヤの夫は鍛冶の神ヴァルカンで、英語読みだとわからないがこれはヴォルカヌスのこと。周防達哉の初期ペルソナだ。

『罪罰』の登場ペルソナはこのようにマヤ=マイヤを中心に組織されていて、ブッダ(シャカ)が敵悪魔/ペルソナとして登場するシリーズ作なんて『罪罰』ぐらいじゃなかろうと思うのだが、それも「マヤ」のゲームであることを思えば納得。それにしてもこのブッダ、レベル29とか徳が低すぎないだろうか。それを言ったらレベル23だった『異聞録』のブラフマーは創造神とは思えぬ冷遇っぷりでしたが。

マヤといえば個人的に頭に浮かぶのがデヴィッド・リンチやケネス・アンガーといった名だたるアングラ映画作家に影響を与えたと言われる米アングラ映画界の女神、もしくは魔女のマヤ・デレン。領域横断的に活動したジャンルレスなアーティストのマヤ・デレンは舞踏家としての顔もあったが、このへん、舞耶の「舞」とダジャレたくなるところで、その映画も『仮面/ペルソナ』を代表作に持つ巨匠イングマール・ベルイマンの作品を思わせるところがある、と空虚な連想はとめどなく続く。
マヤ。たった二文字なんだからそりゃそうだろうと言われれば返す言葉はまったくないが、ぜんぜん異なる概念を流体的に一つに結びつけてしまうもの、あるいは偏在するイデアのイメージをマヤという言葉は纏っている。

マヤ文明の方のマヤを特徴付けるのはなんといってもその独特の暦で、マヤ暦の本を読んでも正直さっぱり仕組みがわからない。ともかくわかるのは一見なんの意味があるのかわからないおそろしく複雑なシステムだということである。あまりにわからないからちょっと引用してみよう。

マヤでは、これらの暦が単独に使われるのではなく、二つの暦が組み合わされる。はじめてマヤ暦に触れる読者にとって混乱を招くことのないように、ここで一部繰り返しになるが、改めて整理しておこう。
①ハアブ暦(太陽暦)……1年365日=20×18ヶ月+5日。
ただし、マヤの長期計算法(13バクトゥン周期/約5200年間)や短期計算法13カトゥン周期/約260年間)で見られる1年(トゥン)は、通常、1年360日の計算に基づいている。
②ツォルキン暦(神聖暦)……1年260日=13×20日。
20の日文字の何日目であるか、そして1から13までの数字の何番目であるか、その組み合わせによってその日の名前が決まる。
一例をあげると、私たちの暦での1995年7月26日は、ポプ月(7月26日~8月14日)の一日目なので、ハアブ/太陽暦では〈ポプ・0〉あるいは〈0・ポプ〉と表示される。これに対して、神聖暦では、(今日では起点の異なる分派があって一定ではないが、たとえば)〈3・イシュ〉となる。
高橋 徹『古代マヤ文明が日本を進化させた!』

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これはこの人の文章の問題もあると思うが、そもそも20進法で数を数えた上に、その数をわざわざタロットカードのように組み合わせて使う、という古代マヤ人の数字占いにかける情熱(?)は凡人の理解を超越している。20進法だから単位も1(キン)、20(ウィナル)、とここまではよいがこれは20の倍数で次の単位に移行するシステムなので、次は360(トゥン)、7200(カトゥン)、144000(バクトゥン)…なんでそうなるのか。まぁ、このへんは興味のある人は変なオカルト本とかこんな蒙昧ブログとかじゃなくてちゃんとした考古学者の人とかの本でも読めばいいと思う…。

『罪罰』とマヤ文明の関係を理解する上で重要なのはマヤ暦に表現された無時間的で円環的な時間である。古代マヤでは時間は過去から未来へ至る直線として理解されてはいなかった(らしい)。そのため日文字(1~20まであり、それぞれに絵文字が付いている)と1~13までの順番を組み合わせて日の呼称や性質を決めたりしていたらしいが、これがこの項の最初に挙げたマヤ占いで、マヤ暦というのはグレゴリオ暦のように時間を均質に捉えて計算するためのシステムではなく、その日その日に独特の性質を与えるためのシステムであることが理解できる。

始めと終わりが繋がった円環的な時間の中で積算は意味を成さない。その代わりそこにあるのは有限の時間の中のすべての組み合わせの可能性だ。ユング心理学を物語の中核に据えた『罪』では個々のキャラクターの個性化の過程が青年期の様々な葛藤を通して描かれるが、そうした個性化の過程は有限の時間/円環的な時間を前提としたもので、であればこそどんな自分の在り方も創造できるというもの。マヤ的な有限の円環時間は三年間同じ場所で同じ季節を過ごす学園生活のメタファーとしても、集合的無意識のアナロジーとしても捉えることもできるだろう。

翻って『罰』では過去を引きずる大人たちの自己の再定義や承認が描かれる。ここに流れる時間は明確に直線時間で、過去から現在へ、現在から未来へ、と一直線にどこまでも続く。『罪』のように過去に戻ってやりなおせる円環時間の中で人はどんな自分にもなることができる。しかしそこにはどんな自分になることができる可能性があるだけで、可能性を超えてそうなりたい自己を確立する未来は無い。『罰』の直線時間はやり直しがきかない。その代わりそこには何者であれ自己を確立する無限の未来はある。円環時間と直線時間は人間の可能性というものの表と裏なんである。

何者にもなることができるが故に何者でもないニャルラトホテプは円環時間に人々を導こうとする。ゲーム中では蓮華台にあるアクセサリー屋「時間城」の店主は公式設定でニャルラトホテプの化身だそうだが、壁一面に飾られたアナログ時計が象徴する円環時間こそニャルラトホテプの居城である。
『罪』と『罰』のエンディングの違いは円環と直線のどちらの時間を主体的に採用するかという違いだが、こうして見ると、『罪罰』はアラヤ神社の悲劇に端を発するマヤの円環時間に囚われた達哉たちが、あるいはマヤ自身が、その時間から脱するまでの物語と言えるかもしれない。

ちなみに天文学に長けていたマヤ文明は占星術との絡みで語られることも多く、『罪』は占星術の概念であるグランドクロスがキーワードになっているので、そのへんマヤのモチーフが援用された所以だろうと思われる。

次→【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その7)

【ママー!これ買ってー!】


終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

あまりにもキャッチーなタイトルが一人歩きしてしまった社会学者・宮台真司のオウム論&90年代論。『罪罰』にもやっぱ影響与えてんじゃないでしょうか。

↓参考にしたヤツ
ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)
電波系
古代マヤ文明が日本を進化させた!―時空を超えた宇宙人のシナリオ (超知ライブラリー)
マヤの予言
ラヴクラフト全集 5

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