【ネッフリ】離婚祭り映画『マリッジ・ストーリー』感想文

《推定ながら見時間:50分》

スカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライヴァーの夫婦が互いに相手の良いところ好きなところをモノローグで列挙していくオープニングは何かと思えば離婚カウンセラーのような人の勧めでやらされてる関係を修復するためのセラピー。
気鋭の舞台監督のドライヴァーはこれを難なくこなすが、その舞台に長年立っていた女優のヨハンソンの方は上手く語ることができない。逆じゃないかという気もする。でも逆じゃないのだった。

そこに真実が仮になくても真実っぽいストーリーを仕立て上げて劇団員をまとめるのが舞台監督ドライヴァーの仕事。これまでの結婚生活を器用に切り貼りしてプレゼンするなど簡単なこと。一方ヨハンソンの方は女優なので演じようと思えば演じることはできるとしても、あたかもそれが結婚生活のすべてであるかのようにストーリーを作ること、語ることには忌避感を抱いたのだった。早くも二人、すれ違う。

タイトルにストーリーって書いてあるのでストーリーについての映画、という『イカとクジラ』の抽象タイトルで出世した監督の映画とは思えない親切設計。ストーリーを作る人とそのストーリーを演じることが嫌になった人がお互いに独自の結婚生活ストーリーを作って法廷でどっちのストーリーが優れているか争うことになるわけですが、その心理の解説としてLAでドラマ/映画女優として歩み出したヨハンソンにスタッフの一人が脚本を書くよう進言するシーンまでわざわざ入れてあるのだから優しい。

リアル人生のストーリーってこういう風にできてくんでしょうね。なんか、葬式とか。結婚式とか。あと離婚とか。普段生活している中では自分や自分に近しい人間の人生をストーリーとして眺めることはあまりないけれど、葬式をやる時には参列者が故人はあんな奴だったこんな奴だったと適当にエピソードを語りながらなんとなく故人ストーリーを作っていくし、あんなの何が楽しくてやってるのかわかりませんが結婚式で新郎新婦の馴れ初めを再現ドラマにして流す人もいるし。離婚に伴う親権争いとか慰謝料争いなんて人生ストーリー化作業の最たるもの。

そのストーリー化の作業を通して初めて、自分がどんな人生を歩んできてどのような人間であったか個人的にも社会的にも決まるとすれば、過去のストーリー化というのは喪の作業の別名なんだろう。それまでの人生を終わったものとしてお墓に突っ込んでしまって、その墓碑銘を背に次の道を探すこと。

夫婦が喧嘩ばかりしている離婚調停バトルものにしては暗い感じがないのは洗練された都会的なユーモアのおかげでもあるでしょうが、喪の作業をすることの意義をストーリーのモチーフを通して明確に打ち出しているからだろうと思った。後味さわやかな映画なんである。

ストーリーの映画なのであれよあれよという間に大事になっていくシナリオがおもしろかった。最初は二人とも穏便に済ませたかったが周囲の助言なのか余計なお世話なのかわからないアドバイスを聞いていたらなんだか段々腹が立ってくる。立った腹で話し合いの場を設けてみれば案の定の喧嘩別れ、離婚がどうとか親権がどうとかいうよりも敵愾心が勝ってしまう。

いつしか自分たちで作るはずだった結婚生活ストーリーの主導権は武闘派弁護士に奪われ、離婚調停は片やNYを片やLAを拠点にってことで東西の代理戦争の様相も呈してくるのだった。法廷でヒートアップする武闘派弁護士の傍らで反省文を書かされている生徒のようにションボリしているドライヴァーとヨハンソンはなかなかの苦笑どころ。

その大きな流れの隙間を小さなすれ違いの数々が埋めるのですがそれがまた抜群で、たとえば、子供をハロウィンに連れてくっていうんでドライヴァーの仮宿を訪れたヨハンソンはデヴィッド・ボウイのコスプレをしてる。それを見たドライヴァーは「それボウイ? 『ステイション・トゥ・ステイション』の時の?」。ヨハンソンの返答は『レッツ・ダンス』の一言。

アルバム名を言うだけで互いにあぁなるほどねってなるぐらい距離が近くて、でもそのアルバムを間違えるぐらい距離があって、近いがゆえにそれ以上は近づけない距離が腹立たしいっていうこの感情の機微! ビターなユーモアもほのかに香って実にすばらしいのですよこれが、こういうのが。家族で遊んだモノポリーをオモチャ屋で欲しがる子供にモノポリーの隣に置いてあったオモチャを渡す、とか(冒頭の良いところを見つけようセラピーも二人のモノローグとそこに合わさる回想映像が微妙に食い違っていてなんだか可笑しいのだ)

最初の方はヨハンソン側に立ってストーリーが進むのでドライヴァーの方が悪く見えてくる。実際ちょっと嫌な奴である。こう、悪人ではないのはわかるが自信と活力に溢れていて揺るぎない、その揺るぎなさをちょいちょい出してくるので自然体で見下し感がある、本人はその自覚がないのでその態度にムカつくこっちがなんだかダメな人間に思えてくるというわけで、頼りがいのありそうな人ではあるが一緒に暮らしてたらこれ嫌になるだろうなって感じである。悪意なく「お前○○得意なんだよな?」みたいなのこっちに押しつけてくるし。

ところがその印象はドライヴァーのパートに移ると一変してしまう。自信に溢れていたように見えたドライヴァーも一人でいる時は案外ヘタレ、ナイフで間違って腕切っちゃったりすると別に深い傷でもないのに冷静沈着を装いつつめちゃくちゃ焦って台所で大立ち回りを演じたりするのだった(ここは大爆笑)。
逆に、ドライヴァー側から見たヨハンソンは融通が利かないしすぐ激高するし悪口力が高いしでこっちはこっちで一緒に暮らしてたら嫌になりそうな人と映る。

ニュートラルな映画だ。シンメトリーの構図が要所要所に出てくるがそれはたぶん二人を可能な限り公平に捉えるためで、どちらか一方のストーリーを描くのではなく、それぞれがそれぞれのストーリーを作り上げていく過程であるとか、ストーリーそのものを描くためでもあったんだろう。
ヨハンソンが自分の結婚生活ストーリーを語れなかったことに端を発する物語である以上、ヨハンソンがドライヴァーの手を離れて業界キャリアを積み上げながら徐々に自分の結婚生活ストーリーを編み上げていくことに比重が置かれてはいるわけですが。

一見すると単独鑑賞推奨のしっとりドラマっぽく見えますがこれ大人数で観たら盛り上がる祝祭映画なんじゃないすかね。ヨハンソンとドライヴァーのどっちの結婚生活ストーリーに正当性があるかで朝まで生激論。シーン毎にそれぞれに抱く心証がコロコロ変わってしまうので答えがない。感情の拠り所もないので二人の間を行ったり来たりする子供キッズに感情移入して観られたりもするという意味でマルチプレイヤー対応型の映画である。離婚というのは二人だけでするものではないのだねぇ。離婚は祭りだ(本人たちには葬儀だろうが)

追記
副次的な要素ではあるがアメリカンの離婚に関わる法律とか離婚の手順をざっくり学べたりもしたので、伊丹十三のハウツー映画みたいなところもあったかもしれない。
あとスカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライヴァーは当然よいのですが豪腕弁護士のレイ・リオッタとローラ・ダーンもすごいよかったですね。肉とかガンガン食ってそうで。訴訟大国アメリカ! って感じしたよ。

追記2
監督のストーリーに従って演技をする女優という舞台上の関係はそのまま二人の夫婦関係になるが、その関係からの脱却とヨハンソンのストーリー作成を強力にサポートする西海岸弁護士のローラ・ダーンは女ばかりが家庭内で完璧であることを求められると憤る。ヨハンソンは個人の問題として離婚調停を捉えているがローラ・ダーンは社会の問題として捉えているわけで、初めは一致団結してドライヴァーと闘っていた二人はやがてそれぞれの描こうとするとストーリーにズレが出てきたことに気付く。ヨハンソンは離婚調停を通して二重に別れを経験して、その中で自立していくわけである。

上から目線でも下から目線でもない個人目線のフェミニズム映画としてもたいへんよく出来ていたのではないかと思う。

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このへんのアルトマン群像劇とは空気感がよく似ていたように思う。雪だるま式に話が大きくなっていくところも。

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ジェイムス
ジェイムス
2019年12月15日 9:55 AM

さわださんの解説を読むと、知らずに見過ごしたことを認識させてもらえます。

実際はこの程度の夫婦なら離婚しないだろうと思った。