大嫌い映画『羊とオオカミの恋と殺人』(ネタバレと悪口超注意)

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大嫌い。この映画を気に入った人が間違ってこのブログに来てしまってこれから始まる罵詈雑言大会に気分を害したりしないよう最初に書いておく。大嫌い。そんなこと言っちゃって本当は面白かったんでしょこのツンデレって思っちゃう人の良い無神経な人のために二度書いておく。心から大嫌い。三度だ。最後は心まで付け足して三度書いてるんだからその本気っぷりを察して欲しい。

もう本当に嫌な映画だった。観てから二日ぐらい経った今では冷静に作品を振り返ることもできるようになったが、観た直後はあまりにも不快だったのでその場で手首を切って痛みと引き換えに映画に呪いをかけてやろうと思ったほどだ。この映画に呪いをかけられるのなら多少の痛みと失血など安いもの。ぼくもう30さい超えたんですがまだそんなにピュアな気持ちで映画観られたんだなっておどろきましたよ。

何が嫌か。いちばん引っかかったポイントから書くと、この題材で一般観客の共感を得ようとする作り手の姿勢が嫌。血反吐が出る。助けてくれ。死んでしまう。他の嫌ポイントも根っこを辿ればそこに行き着くのでもう、そこに尽きる。
殺しをセックス代わりにしている快楽殺人鬼の純愛、大いに結構。『ネクロマンティック』とか『ハネムーン・キラーズ』みたいな殺人鬼の狂った愛は確かに映画の中では美しい。どんどんやったらいいじゃないと思う。むしろ積極的にやって欲しいと思う。

だがしかし、しかしですよ。今『ネクロマンティック』と『ハネムーン・キラーズ』を殺人愛の代表的映画として挙げましたけれども『ネクロマンティック』と『ハネムーン・キラーズ』は他者の世界に歩み寄る気のない人たちの物語だし、共感のぬるま湯から飛び出して全裸で街中を全力疾走するような映画じゃないですか。他者の世界を捨ててでも、というその覚悟と狂いが美しい。それでも愛する人がいるし、それでも表現したいものがある。

これはいささかロマンティックに過ぎる構図だけれども、快楽殺人鬼の愛がどうのと聞けばやはりそういう類いの、世間一般の美しさや正しさの概念を突き抜けた何かを求めてしまう。『ハネムーン・キラーズ』がなぜ素晴らしいかといえば汚らしいチンケな詐欺師のカップルが愛を証明するためだけにそこらの可哀想な幼女をぶっ殺すからである。『ネクロマンティック』はラブストーリーとしてなら『2』の方がよく出来ているが、そのエンディングでは死体の男と生きた男のどっちを取るかで悩んでいたネクロフィリアの女が生きた男とセックスしながらその首を刈り取って死んだ男のそれにすげ替え、生と死の間で二人の子を妊娠する!

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博愛主義者なのでいずれの行為にも賛同しないが(当たり前だ)、しかし感動的ではある。逆に言えば、快楽殺人鬼の愛などというインモラルなテーマは、それを正当化するためにそこまで突き抜けなければならないのである。これこれの狂った愛の行為にぼくが感動を覚えるのは、そこに社会から切り離されてしまった自身の行為や存在を命がけで正当化しようとする勝ち目のない闘争が、それでも決して社会に媚びて許しを得ようとはしない敗者の矜持が見えるからなのだ。

翻って『羊とオオカミの恋と殺人』はどうか。糞である。糞の1文字以外にこの映画を適切に表する言葉をぼくは持たない。グロテスク描写でも描かれる犯罪の猟奇性でも『ネクロマンティック2』より遙かに穏当であるにも関わらず、『羊とオオカミの恋と殺人』は『ネクロマンティック2』より遙かに胸糞である。なぜならばここには敗者の矜持など微塵もない。そればかりか表現者の矜持もない。

それならそれで結構なもの、『八仙飯店之人肉饅頭』みたいに金儲けに徹した猟奇映画など映画史上に腐るほどあるわけだから開き直ってやればいいが、その度胸すらない。驚くことに、いや呆れたことには、愛とか殺人とかなんとかかんとかについて、どうもブンガク的に考えて描いている、とこの作り手は図太い無思慮で思い込んでいるか、さもなくばチープな共感を得るためにそう気取ってさえいるんである。

抽象的な文句ばかり言っても仕方がないから具体例を上げると、ここは全編おぞましいこの映画の中でもとりわけおぞましい箇所でもあるが、主人公の浪人生が恋をする隣人の快楽殺人女子大生(もうこの扇情的に売る以外なにも考えていない俗悪設定の時点でウンコ漏らせバカと思ってしまう)が殺した一人が実は連続猫殺しの極悪人だったと死体処理業者の江口のりこから教えられる場面がある。

おぞましいのはその場面の描写ではなく結果である。主人公、それでなんとなく殺しを納得してしまうのだ。快楽殺人女子大生が殺した相手は悪いことをやっていた。そのような仕方で浪人生は彼女の殺しを留保つきで正当化する。この女子大生は『ありふれた事件』ぐらい殺しが日課になっているのでその全員が果たしてこいつみたいな極悪人だったかどうか分からないにも関わらず、死体処理業者はこいつの部屋を『インフェルノ 蹂躙』の如く掃除して旅行に行ったと偽装してしまえるのだから、こいつが猫殺しの極悪犯であることもまた偽装工作である可能性も大いに考えられるにも関わらず、である。

主人公が快楽殺人女子大生の殺しを正当化するのは愛によってではないのだ。彼は愛の障害になる殺しの現実を自分の問題とせずに快楽殺人女子大生や死体処理業者に丸投げする。したがってそこにはモラルの問題は生起しない。(猫殺しであることをおそらく知らない)猫殺しの妹や、今までに彼が殺しを目撃した人物の知人友人や、あるいは警察を前にして、猟奇殺人女子大生の存在を語るか語らないか、これからも続くであろうその殺しを止めるか止めないか、といった問題は(切実なものとして)生起しない。なぜなら彼は殺しの責任も殺しの正当化の責任も負っていないからである。

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こうして、彼はたまたま怪事件に巻き込まれただけの無垢な犠牲者の立場を最後まで維持する。社会は彼の戦うべき敵にはなりえない。快楽殺人女子大生は常に社会との対峙を余儀なくされているが(彼女が自分なりの殺人ルールを繰り返し語るのは示唆的である。それは社会の秩序から外れた者がその対抗物として練り上げた、殺人の正当化のための代替秩序だからである)、彼は社会の外には出ていないのだからその必要がない。夜は快楽殺人女子大生の殺しを見て昼は何食わぬ顔でコンビニバイトをしていても何ら良心の呵責を感じることもない。その代わり、そこには『ハネムーン・キラーズ』のように冥府魔道を共に歩む愛もまたないのである。

意識的か無意識的かの問題は措くとしても、主人公にそうした人物を設定することの意味は自明に思われる。観客に共感してもらうため、観客に罪の意識を感じさせないため、人を殺さずには生きられない狂った女を、絶対的な被害者の立場からコントロールすることで、観客に彼ら彼女らの属する社会からの逸脱者を裁かせるためである。

主人公は最後、愛した人を殺してみたかった快楽殺人女子大生によって腹部を刺される。だが彼女は殺しはしない。なぜならこの物語において殺しの責任は彼女だけが負っているから。その殺す殺さないの局面で観客に試されているのは主人公ではなく快楽殺人女子大生であり、観客が映画に共感するか拒絶するかはその振る舞いにかかっているんである。

もしそこで快楽殺人女子大生がちゃんと主人公を殺していたらこんな長文の文句を書くことはなかっただろうと思う。殺さなければ生きられないのなら仕方が無い。その逸脱を恐れない勇敢な映画として、むしろ超すげー超すげーってツイッターとかで誰にも届かない賞賛を捧げまくったとさえ思う。でも実際はその真逆。ふんわりした共感で包まれた被虐による支配と加虐による服従の、たとえば北九州監禁連続殺人事件に見られるような、吐き気を催すようなその関係性にまったく無自覚な、それを純愛と錯誤した残酷なバカの映画だ。

美化された埼玉愛犬家連続殺人事件の映画と言ってもいい。そこに逸脱の自覚や正当化の責任を負う気がないだけ、モラルに関して言うならばこの作り手は関根元よりも悪質である。むろん、モラルがあろうがなかろうが人を殺したやつと殺してないやつなら殺してないやつが偉いに決まっている。映画作りに身を捧げるなんてもっと偉い。映画をただ椅子に座って観ているだけのこっちはそれに比べたらゴミのようなものです。

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と、理性ではわかっていても文句を言わずにはいられない。覗き、快楽殺人、動物虐待、特殊清掃、戦闘美少女(処女)…よくもまぁここまでネット漫画的なインスタント煽情要素を詰め込んで、恥ずかしげもなく純愛映画を気取れたものだ。快楽殺人女子大生に「殺して良い人と悪い人がいるの?」とか語らせて何か問うたつもりになっている中二ニヒリズムとかバカなんじゃねぇか。大体こんなもののどこに愛があるというのだ。それが愛だと思っているなら腐っているし、思っていないのならそれも腐っている。どっちにしても腐っている映画である。

それを元にして素晴らしい映画も作られた宅間守の獄中結婚にぼくは曰く言いがたいアンビバレントな感情を抱く。というより宅間自身に、共感してしまうところもあれば問答無用で拒絶してしまえるところもあるのだ。その場合、動揺を経験するのは宅間ではなくこちらであるし、モラルの問いを突きつけられるのもこちらである。

大なり小なり殺人鬼の消費にはそういう面がつきまとう。逆を言えば、その問いが自分自身に生じるからこそ社会の外に出ずして殺人鬼を消費できるとも言えるし、殺人マニアが案外モラリストだったりするのは、彼ら彼女らが殺人鬼の精神的な共犯者としてモラルの問題であるとか、社会とその外部について考えを巡らさざるを得ないからではないかと思う。

そうした殺人鬼を考える際の思考の重さを全力で取っ払ってカジュアルに殺人愛を消費できるようにしてくれたありがたい無道徳映画が『羊とオオカミの恋と殺人』である。ここにはモラルもないがインモラルもない。モラルの葛藤を経て初めてインモラルが危険な輝きを帯びる、ということなど考えも及ばない。そんな映画の何が面白いのか。

もう一度言っておくが、俗悪なら俗悪で別に構わないんだから愛がどうとか気取るな。気取るんだったらもうちょっと考えろ。せめて考えようとしろ。快楽殺人鬼をフィギュアみたいに扱いやがって。腹立たしい。

【ママー!これ買ってー!】


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せめて『ハネキラ』みたいに主人公も一件ぐらい殺人を手伝えばいいじゃねぇか。そうじゃねぇよわかってねぇな快楽殺人女子大生は主人公が殺しをやらない普通人だから惚れたんだよ、とか作り手の側は言うかもしれませんが、そういうのを糞みたいな童貞的現実逃避的事なかれ主義的ご都合主義だっていうんだよ。一回ぐらい一緒に殺したいって思うかもしれないだろうが快楽殺人鬼なんだから。本当に人の気持ちを考えないろくでもない映画ですよ。『ハネキラ』は傑作。

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