俺だけのための映画雑感『若おかみは小学生!』

《推定睡眠時間:5分》

わかんない映画というのはあるなと思った映画で面白いは面白かったが俺にはやっぱりわからなかった。
わからないにも色々ある。難しいからわからないとか、趣味が合わないからわからないとか、単にわからないからわからないとかありますが俺が『若おかみ』に感じたわからないはもう映画が纏う人生観のわからないではないかと思い、だとするならば数々のわからないの中でもなかなかヘビィな部類のわからないなのではないだろうか・・・。

そちこちで見かけるこの映画の感想の類いがあまりにも、いや俺に見える範囲で言えばと一応は限定しておくが、あまりにも絶賛一色なので・・・別にあの超おもしろい『ザ・プレデター』をけちょんけちょんに貶す人に出くわしてもまぁ趣味の違いですよねぇの大人スルーしぐさぐらいはできる俺ですがそれは趣味に関するわからないだからで、これが人生観のわからないになるとわりと根の深いわからないなので大人スルーする余裕もなく、なんならちょっと不安にすらなってくる。

そのような世間とのズレがひり出す不安をそのむかしの俺は元祖ニート元祖引きこもりの拗らせ系エッセイスト(※)中島義道のそれほど上手くもないどの本を読んでも同じようなことしか書いてない毒文で解消していたのを思い出しそういえば、なんかそんなエピソードを読んだ覚えがあると思い懐かしの『私の嫌いな10の言葉』を引っ張り出してきてみる。

一度高校生のころ、友達と一緒にチャップリンの映画を見に行ったところ、彼がゲラゲラ笑い通しで、かえってシラーッとしてしまいました。これはかなりきついことです。みんな笑っている。しかし、ちっともおかしくない。暗い館内でさらに暗い気持ちに沈み込んでしまう。涙さえ出そうになりました。
『私の嫌いな10の言葉』新潮文庫-P.32

なんかこれだけ抜き出すと悲惨エピソードのようですがここは笑うところで、チャップリンとチャップリンを笑う大衆を精一杯皮肉りつつ執筆当時アラ50歳の哲学者がこんなナイーブなことを書いているの面白いでしょうとか思ってこいつ中島は書いてるんである。

そう思って書いていなかったら痛すぎるのでそう思って書いていてほしいが、このセンテンスの前後に何が書かれているかというとテープ二十巻からなる落語全集を笑い研究のために買ったがひとつも面白くなかったとか笑う哲学者こと土屋賢二のベストセラー的なエッセイを読んでみたら全然おもしろくなくて冷や汗が出たとかそういうことなのでやっぱ笑わせるつもりで書いてるんでしょうしあと土屋賢二への毒針飛ばしはたぶん同じ哲学者枠のエッセイストとして向こうのが売れてる(推定)のが悔しかったんだろう・・・そんなことはいいのだが!

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いや、だかもう書くこととかなくて本当に本当に普通のおもしろいよくできたアニメ映画だなぁって思って、これがこの物語がたとえば感動的だとかいうのは頭では理解できるのですが、感覚としてはまったく深刻にわからないし、なるほどわかったって感じでいま見終わった映画を脳の記憶から記録にサクっと移し替えようとしていたらその横でみんな大号泣してめっちゃ盛り上がっててえっ! みたいないやこれは喩えですが。

なんていうか誰からも嫌われない映画というのはあって、これはそういう映画だと思うのですが、そういう映画をなんであんな感極まったトーンでみんな語れるんだろうというのは嫌味とか皮肉じゃないのですがそう書いても誰も信じるやつはいないだろうと思うが、でもそうだったのですよ俺の場合は本当に。

ていうんでこの断絶はもう人生観とか世界観の違いとしか言いようがないんじゃないかというのは安易か。別に安易でもいいのですがたぶん、それは、ようするに、煎じ詰めれば、その人生観や世界観の違いというのは、この映画がそこに感情移入させるにしてもさせないにしても、両親を失った子どもの物語であるという一点に集約される。

俺はもうそこでつまずくがむしろ逆につまづかないと言ったほうがたぶん正しく、冒頭に置かれた両親を失うことの悲劇が悲劇として機能しないぐらいには家族の一員でいることの感覚から離れてしまっているので、その悲劇が感情のスイッチにならない、するとそこから走り出す物語のすべては感情の乗らない単にそこにある風景になってしまうんである。

なにも主人公ばかり見ている必要はないのだしその風景からはまた別の興味の可能性も引き出せるのかもしれないが、でも俺には本当に普通によくできた・・・で終わってしまったので取りつく島がないとはこのことだ。

すべてが遠い。ウェルメイドというには手触りが温いが温いぶんだけ逆に距離が遠くなる。みんなたぶん違うわけでしょう。そうだなたとえば、冠婚葬祭に呼ばれる人は。または自分から人を呼ぶ人は。つまり世の中の大多数の人は。

俺は人の結婚式にも葬式にも一度も行ったことがないし呼ばれたこともない。唯一参列したことがあるのは父親の葬式だけで、俺はそのときに泣いたことを克明に記憶しているし、なんで泣いたのかもしっかりとトラウマ的に刻まれている。

俺は父親の死体を見ても何も思わなかったが、母親とか祖父母とかはそうではなくて、葬式に行くとクラスメイトもいつもの感じで俺に接してはくれない。俺は一歩もその場から動いていないのに急に世界の方が俺とは無関係な死によって勝手に離れていくように感じられておそろしかったのだ。

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それに付随して思い出すのは突然パニックを起こして飼っていたカメを捨ててほしいと両親に懇願した記憶で、なにを思ったかといえばこのカメが死んだら俺が埋めて墓作らないといけないとかそういうことを考えて怖くなってしまったのだった。

父親の墓参りには一度も行ったことがないし(いやさすがに一周忌かなんかで一回ぐらいは行きましたが)、今後親族の誰が死んでも別に行くつもりもない、できることなら葬式にも顔を出したくない。

それは別に家族と仲が悪いとかそういうことではなくて、あのカメの時みたいに家族の関係に伴う責任の鎖が俺がどう考えようが何を志そうが無関係に、その無関係な死によって強制的に俺になにかをさせる、たとえば遺族らしい感情の装いとか儀礼的な所作とか死の価値を引き立てる犠牲的な社会的コードのコーディネートを・・・それをちゃんとやらないとうっすらと繋がった社会から切り離されて、ひとでなしのように扱われてしまうのではないかと、そのような死の権力の恐怖に起因するものなんである。

だからこの映画で描かれる死の重みと死の束縛は、俺には単に個人の自由を奪う迷惑で恐ろしげなものとしか映らなくて、多くそんな風には受け止められていないからこの映画がこんなに評価されているのだろうと思うと、そのこと自体が、本質的に、俺をこの映画から引き離す。

とそれだけ書いといて今更な気もしますがあのなんか主人公の女の子とかライバルのピンクのフリフリとかギリで萌えに入らない程度にかわいくて良かったですし鯉のぼりがドドドーッと空飛ぶのとか面白かったですしうそごめんそれも本当は大しておもしろくなかったが、それは特別におもしろいというわけではないということで、結局、普通におもしろいに尽きてしまう。

ただ興味深くはあったようにおもう。それは霊の守護が喪失のトラウマを癒やす展開や、その救済(ようするに葬儀の完遂ですが)のために主人公が果たす共同体の義務と儀礼といったこの映画の諸要素が、幸福の科学のエモ系プロパガンダ映画によく見られるものだったからで、好むと好まざるに関わらず社会に生きるということは広義の宗教に関わるということなんだなぁとか思うのであった。

『若おかみは小学生!』は旅館のお手伝いの形を借りた葬儀の映画である。で、俺は葬儀なんて一切出たくないんである。

【ママー!これ買ってー!】


私の嫌いな10の言葉 (新潮文庫)

十数年ぶりに読み返すとツイッターのご意見番的素人みたいなキュートに薄い文章でこの頃ツイッターなくてよかったな中島義道って思ったよ。あったら作家なってないで引きこもりのツイ廃だったよ。

↓原作だそうです


若おかみは小学生! 花の湯温泉ストーリー(1) (講談社青い鳥文庫)

※コミック版の方を貼ってしまっていたので訂正しました

コメントしてあげる

よーく

俺も2週間くらい前に観ましたがアレですね、何かちょっとしっくりこないというか最後まで乗り切れない感じの映画だなという感想ですね。
文句言う前に言っとくとこの映画はかなり完成度の高い作品で脚本も映像も高水準で作りこまれていて非常によくできていると思う(何様だよと思われるかもしれませんがあくまで俺様視点です)。いや実際多少の突っ込みどころ以外はよくここまで隙のない作品を作ったなと思いますよ。でもそこが俺は気に食わなかった。
鑑賞後に席を立って劇場を後にしながら俺の脳裏には「なぜ出木杉君は毎回大長編ドラえもんではハブられのか」という昔からよく半ばネタとして語られる疑問が浮かびました。まぁご存知だと思いますが大長編で出木杉がいたらピンチにもならずに問題を解決しちゃうから、というのがよく言われてますよね。俺が『若おかみは小学生!』で乗り切れなかったのはまさにそこでこの作品は脚本とかキャラクターとかテーマを伝えるための演出とかが本当に言葉通りの意味で出来過ぎているんですよね。
>俺が『若おかみ』に感じたわからないはもう映画が纏う人生観のわからない
と記事ではありますが俺的にはそこは逆でもう分かりすぎてしまうくらいに分かっちゃうからつまんなくてノれなかった、という感じです。だって登場人物も物語の構成や演出も良く出来過ぎていて逆に作り物にしか見えないんだよ。おっこがそこら辺にいるクソジャリな小学生じゃなくて、両親と死別することもそれを最終的に受け入れることも、さらにそこから成長する子供だということも予めデザインされてるようにしか見えなくなっちゃうんだよ。作り話として良く出来ている(出来過ぎている)というのは何というか遊びの部分がなくなるというか生っぽくなくなる感じがするんですよね。なんかスパッツ姿で雑巾がけしてるおっこに欲情するようなどうしようもない大人が出てきても良かったとも思うんだよね。いやそれはダメか。
よく出来ているからつまんねぇ、とかいうのはもうイチャモン以外のなにものでもないなと我ながら思うけど、この作品は著しく突出したところも欠落したところもなく始終平坦に加工されたようにしか見えなくて、それで最後まで乗れなかった、というのが素直な感想です。
ちなみに俺は大好きなピアニストのライブに行きたくて親父の通夜にも葬式にも出ないって言ったらドン引きされた男ですがこの映画は分かるよ!多分泣き所とかグッとくるところは理解してるよ(多分)。ただその泣き所やグッとくるところが泣き所やグッとくるところとしてありすぎるが故に俺の心は離れてしまうんです。
作画の細かい芝居は心から素晴らしかったと思います。あとこの作品で唯一のフェティシズムというか偏執的なこだわりを感じたうれしいところは俺が大好きなポルシェ911カブリオレの内装が完璧だったことですね。あのドライブシーンはもう一度見たいなぁ。
明日は起きれたらここの記事に乗せられてスモールフットを観てきます。

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