《推定睡眠時間:20分》
「七つ前は神の内」というように日本の慣習というか民間伝承においては幼少期の子供を人間世界ではなく八百万の神の世界に帰属するものとする考え方があったようななかったようなで『七つまでは神のうち』とか『この子の七つのお祝いに』というタイトルのホラー風味のミステリー映画(未見)もあるが、そのへんの日本文化を下敷きに全能感に満ち満ちてそのために世界と適切な距離が取れない自称・神の女児が祖母の死やお手伝いさんとの交流なんかを経て人間世界に自分の居場所を定めていくまでを描いたアニメということで、よくありそうな感じではあるが(広い意味では『窓ぎわのトットちゃん』もその枠のアニメではないだろうか)、独特なのは主人公の設定でベルギー幼女である。
というのも主人公の父親は駐日外交官、母親は何か芸術関係のお仕事をしていたような気がするが、このベルギーの一家が暮らす1968年の神戸が映画の舞台なのである。なんでも監督の半自伝的な物語というが、ベルギー文化と日本文化とナチュラルに交錯するその世界観は一種独特、いささか日本人キャラを良い人的に描きすぎな気がして妙に居心地が悪くもなるが、2つの文化の混淆が全能幼女の足元の定まらない浮遊感と不安感を見事に表現していて、流暢なアニメーションも相まってこの世とあの世のちょうど境をゆらゆらするような幻想味には唸らされるところであった。
でもあんまイイ映画だな~になれない。どちらかといえばそれは映画というよりも俺個人に理由があるのだが、1968年の日本が舞台か……というもう、そこだよね。なぜならぼくさいきん小熊英二の『1968』上下巻を主な教科書として(ハードカバー二段組みで1000ページ超×二冊という鬼の分量)68年学生運動を細々とお勉強しているので。1968年の日本は結構たいへんだった。日本に限らず68年は世界的に戦後世代の学生達が蜂起した年だが、日本においては東大全共闘が大学解体(比喩ではなく文字通りの要求であり、日本の体制を支えるエリートを養成する東大は体制による搾取に加担しているとして、その一部である自己をこそ否定せよという立場から東大の廃校を目指したのであった)を叫んで東大キャンパスの占拠を繰り返し、その中で次第に大学側と親和性の高かった民青(日本共産党の学生組織)などとの武力衝突=内ゲバが生じるようになり、夜な夜な敵陣営に襲撃をかけて対立する学生たちを角材とか鉄パイプとかで殴って病院送りにしたり、時には拉致してきて集団で暴行・拷問を加えるなどの凶悪な事例に発展することもあり、こうして戦場と化した東大駒場キャンパスには学生が学生を半殺しにするために全国から応援部隊として諸セクトの学生活動家たちが集結し……とそのへんがこの時代のハイライトだろう。
まだ沖縄は日本に返還されていない。米軍統治への高まる不満はやがて1970年のコザ暴動で爆発する。折しもベトナム戦争真っ只中であり、沖縄だけでなく本土でも70年安保を控えて反米左翼(というかこの頃は左翼イコール反米だった)の諸セクトが街頭闘争を繰り返し、佐世保エンタープライズ号寄港阻止闘争において機動隊が一方的にセクトの学生活動家たちを催涙弾や警棒で弾圧する光景は全国に衝撃を与えた(そしてこれが68年運動の発火点となった)。東大全共闘は1969年1月の安田講堂攻防戦で警察に排除されるが、それが華々しくテレビを彩ったこともあってか、同年には学園闘争が全国へと波及し、東大全共闘で用いられた学舎のバリケード封鎖は高校闘争でも模倣されることになる。
学生運動から派生したウーマン・リブが初めて単独デモを行ったのもこの年である。1969年には武力革命による共産主義国家の樹立を目的とする赤軍派も始動し、1970年によど号ハイジャック事件を、そして1972年には連合赤軍があさま山荘事件を起こすことになる。この時代の最後を飾る大花火は1974年8月に東アジア反日武装戦線が起こした三菱重工爆破事件だろう。NHKによれば死者が8人、重軽傷が385人にも及んだ日本近現代でも稀にみる爆弾テロである。東アジア反日武装戦線のメンバーだった指名手配犯の桐島聡が数年前に劇的な最期を迎えたことは記憶に新しいかもしれないし、すっかり忘れてる人もいるかもしれない。
水俣病の原因をチッソによる水銀汚染と国が認定したのも1968年、この時代は水俣病やイタイイタイ病など経済成長の代償としての公害病が巨大な社会問題として浮かび上がった時代でもあった。「もはや戦後ではない」とはいえ、公営団地の狭い部屋に引っ越すことが冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが置ける(か備え付け)というだけで庶民の憧れとして機能していたことを考えれば、今と比べてどれだけ生活水準が低かったかよくわかる。マイホームなど夢のまた夢なわけで、とりわけ人口過密の都市部では風呂なしトイレ共同の四畳半木造アパート暮らしが下の選択肢ではなく標準的な選択肢であった。
1968年の日本というのはそのような時空間なわけである。その中に『アメリと雨の物語』を置けば、京都の庭付き二階建て一軒家に住んでお手伝いさんを雇っているこの外交官一家が当時の日本にあってどれだけ浮世離れした裕福な生活を送れていたか理解してもらえるのではないだろうか。俺はそれを考えてしまったんである。そしたらなんか、いや感動的な話かもしれないけど、めっちゃ雲の上の貴族の話じゃん……とかなってしまって、こう、素直にイイ話だな~ってなれなくなっちゃったわけだね。未就学児童を主人公にした物語に無理に学生運動の動乱っぷりエピソードを入れろとは思いませんが、でも空気だけでもそれとなく漂わせてくれたらというか、1968年の日本を舞台にするのだったらそれをどこかしらで入れないと、単なる異国情緒と懐古趣味に収まってしまいませんか? とか思うのである。