《推定睡眠時間:20分》
最近はどうか知らないが昔の町山智浩さんが『ユナイテッド93』に対して言ったことには感心させられてなるほど言われてみればそうだよなとこの考え方は今でも(主にアメリカ系の)実録ネタ映画を観るときの俺の基本姿勢になっている。ユナイテッド93というのはテロリストにハイジャックされてアメリカ9.11テロのツインタワーに突っ込んだ飛行機のことで、そのときの乗客たちによるスマホの録音音声やコックピットの管制塔との更新記録が残っているのだが、この映画はその音声を使用して機内の状況の再現を試み、高い評価を受けた映画であった。これに対して町山智浩が言ったのは俺の記憶が正しければ「生存者は残っていないから実際に機内で何が起こったかはわからないのに、これは真実のドラマだと宣伝することで、映画が真実を作ることになるのは許されるのか?」ということで、この話はおそらく『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判 3』に掲載されている、はず。
この『ヒンド・ラジャブの声』も『ユナイテッド93』の問題圏に接するところはあるだろう。こちらもまたガザ侵攻後イスラエル軍に(とされるがイスラエルは当然否定)民間人の少女が殺害された事件での実際の通信記録を用いたサスペンス映画、イスラエル軍に銃撃されて車の中で身動きが取れなくなったヒンド・ラジャブという8歳ぐらいのガザ市民の少女が電話で必死に赤新月社のオペレーターに助けを求めるのだが、救助は遅々として進まず、ようやく救急車が出動してもその救急車まで銃撃やらロケット弾やらを浴びて救命隊員が死亡する始末、ついには助けることができなかった、というお話である。
『ユナイテッド93』と違うのはこちらはガザ地区ではなくヨルダン川西岸地区にある赤新月社のオペレータールームが舞台の『ギルティ』などと似たワンシチュエーション映画であり、そちらはイスラエル軍の攻撃を受けていないわけだから全員かどうかは知らないが当事者たるオペレーターたちは存命、したがって劇中でのかなりアメリカ的に(といってもこれはチュニジア・フランス映画なのだが)感情的なやりとりの数々は創作の度合いが強く見えるものの(日々人間の死に触れているオペレーターたちが一人の少女の死だけでああも感情的にはならないんじゃないだろうか)、少なくともそれが創作かどうかは検証することができるわけで、映画が真実を作ってしまったとまでは言えない。
しかし引っかかる。それも結構多くのところで引っかかってしまう。まずそんなに面白くない。いや、充分面白いのだけれども、観ていて思ったのは、これは展開や演出自体は平凡なので、その面白さはヒンド・ラジャブが助けを求める実際の音声を使用している点に多く依拠しているんじゃないかということで、もしこれが完全な再現ドラマで実際の音声が使用されていなかったとしたら、真に迫ったサスペンスをこの映画から感じることはできなかったかもしれない。それはなんだか身も蓋もない話じゃないだろうか。だって映画でホンモノの迫力を出すためにはホンモノを使えば良いということになると、面白い殺人鬼ホラーを撮るためには実際に人を殺してるところを撮っちゃえばいいよなっていうことにもなってしまう。それは映画の何か敗北のようなものである。
あるいは、これはこれで身も蓋もない話なのだが、なんでヒンド・ラジャブという特定個人なの? という疑問もある。そもそもイスラエルはガザ侵攻以前にハマスの越境虐殺に対する報復として無差別空爆を行っており、そのことで当然ながら民間人の死者も多数生じたため国際的に強く非難されたのであるし、地上侵攻後も民間人を巻き込んだ無差別空爆は当然として救急車両とか国連車両とかジャーナリストとか配給に並んでいたガザ市民とかを攻撃したことが報じられているので、はたしてガザ侵攻全体で戦争犯罪はどれほどの数が存在するのかわからないほどである。ヒンド・ラジャブはその数多の戦争犯罪の中の一つに過ぎず、だから軽視してよいということにはならないだろうが、かといって、ヒンド・ラジャブ事件だけを特別視する理由もない。
俺がこの映画に感じた引っかかりはとくにそのへんにありそうな気配である。戦争における子供の犠牲というのは大人の犠牲よりも一般的には強いショックをもたらすものだ。しかもその死に際の音声が残っているとなれば尚更だろう。どうもこの映画で他の数多の、そして無名のガザ侵攻被害者たちではなくヒンド・ラジャブが題材として選ばれたのは、それが観客に強いショックを与えるためであるように思えてならない。観る者に強いショックを与える被害者は観る者にあまりショックを与えない被害者よりも多く注目すべきなのだろうか? もしそうだとすれば、ショックを与える映像や声を持っているごく一部の人たちだけが無責任な大衆の支援対象となってしまい、ショックを与える映像や声を持たない目立たない被害者たちは、それがどれほど支援を必要としても、適切な支援を受けることができなくなってしまうだろう。
たぶんそれは公平性の観点から大いに問題である。うちには何ヶ月かに一度くらいユニセフや国境なき医師団からのダイレクトメールが届くが、それを見ると世界の実に多くのところで多くの「声を持たない人」たちが困っていることがわかる。しかし、たとえば大地震が起きたとかそういう緊急時には緊急支援の募集といった形でそのケースがピックアップされるものの、こうしたダイレクトメールの紙面では基本的には世界のいろんな困っている人たちが平等に扱われていて、こんな可哀相な人がここにいるからこの人だけを優先的に助けて下さい、なんてのは見たことがない。今にも死にそうなぐらい困っている人たちが世界中に数え切れないほどいるときに、誰を助けるべきかを安全地帯にいる人々が選別するとすれば、それはまったく残酷なことである。ことに、「可愛い子供だから」とか「テレビで見たから」とかそんな理由で助けるべき人を選別するのであれば、まぁ心情的にはわからないでもないとしても、それはちょっと大人としてどうなんですかってなもんだろう。
こうした映画を作るべきではないとはまったく思わないけれども、これを評価できるかできないかで言うなら、だいたいこんな理由で俺はあまり評価しようとは思わない。これを観たおかげでイスラエルの暴虐を知って目が覚めました! みたいな人もおそらくいたりするのだろうが、ガザの戦争被害に関してこれだけ多くの報道がなされているにも関わらず、戦争で死んだ子供の声というスナッフフィルムの類似物を見るまでその悲惨に気がつかないのだとしたら、そんな人は目覚めない方がいいのではないだろうか。なぜなら、その人はまた別の、たとえばハマスの越境虐殺の際の被害者の音声や映像を見てしまえば、そのショックによって今度は逆にガザの暴虐に目覚めるかもしれないからだ。ショックによって正義に目覚めた人の善悪の判定基準はショックの度合いにあるのであって、客観的な事実にはない。そのような人が正義を行うのは難しいだろうから、「観客を正義に目覚めさせる」という社会的な意義においても、この映画は高く評価できるものではないんである。